第四部 第十六話――名もなき刃は、音を立てず
夜半。
城下の灯りがほぼ消えた頃、アルヴァリア公爵領の一角にだけ、まだ人の気配が残っていた。
上級貴族用の屋敷街。その中でも、やや外れに位置する石造りの館。
窓は閉じられ、門も固く閉ざされている。
表向きには、何の異変もない。
だが――
椎名は、その屋敷の屋根の影に立っていた。
(……呼吸が多い。
警戒している、というより……怯えておりますね)
風が、微かにマントを揺らす。
彼は一切の魔力を使っていない。
足音も、気配も、ただ“無い”。
これが、椎名の戦場だった。
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数日前。
財務局と治安部門から上がった報告は、慎重に精査されていた。
・不自然な資金流入
・使用人の急な入れ替え
・夜間の馬車の出入り
どれも単独では、罪にはならない。
だが、重なれば話は別だ。
「この屋敷でございます」
椎名は、公爵に地図を示した。
「他国の使節来訪と時期を同じくして、動きが活発化しております」
「裏切りか?」
「可能性は高いですが……」
椎名は、言葉を切る。
「“国家を売る”ほどの覚悟は、ございません」
公爵は、眉をひそめた。
「では?」
「利用されているだけでございます。
ご本人は、賢く立ち回っているつもりなのでしょう」
公爵は、短く息を吐いた。
「……派手にやるな」
「はい。
記録にも、噂にも、残しません」
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椎名は、屋根から静かに中庭へと降りた。
庭師が手入れした跡はあるが、最近は人の出入りが多かったのだろう。
踏み固められた土が、それを物語っている。
窓の一つが、わずかに開いていた。
(不用心……いえ、焦っているのでしょう)
椎名は、音もなく室内へ入った。
書斎。
机の上には、複数の書簡。
封蝋は割られ、隠す気配もない。
――他国の言語。
――金額のやり取り。
――“中立が崩れた際の身の保証”。
椎名は、すべてに目を通す。
(……やはり、核心には触れておりませんね)
その瞬間。
「誰だ!」
背後で、声が上がった。
振り返ると、屋敷の主――中級貴族の男が、剣を抜いて立っていた。
手が、震えている。
「貴方は……」
椎名は、帽子を軽く取り、静かに一礼した。
「夜分遅くに失礼いたします。
公爵家の執事、椎名と申します」
「し、椎名……?」
名は、知られている。
だが、“何者か”までは、知られていない。
「わ、私は何も……!」
「存じております」
椎名は、剣を抜かない。
「貴方は、国家を売るおつもりはございません」
男は、言葉を失った。
「ただ……
“得をする側に立ちたい”だけでございますね」
沈黙。
それが、肯定だった。
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男は、剣を振り上げた。
だが――
振り下ろされる前に、視界が反転した。
床。
天井。
理解が追いつかない。
気づいた時には、男は床に押さえつけられていた。
剣は、遠くに転がっている。
「……っ!?」
「骨は折っておりません」
椎名の声は、落ち着いている。
「内臓も、損ねておりません。
少々……眠っていただくだけでございます」
首筋に、正確な一打。
男の意識が、静かに落ちる。
血は、流れない。
音も、残らない。
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翌朝。
屋敷の主は、“体調不良”を理由に、公の場から姿を消した。
数日後、静かに領外へ移送される。
罪状は、発表されない。
裁判も、行われない。
代わりに。
・屋敷は接収
・資産は精査
・関係者は配置換え
制度が、淡々と処理する。
城内では、誰もが察していた。
――触れてはいけない線がある、と。
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■ 師と弟子
夕刻。
訓練場で、ファルカは木剣を振っていた。
以前よりも、集中力が増している。
「今日の動き、良うございます」
椎名が声をかける。
「……何か、あっただろ」
ファルカは、手を止めずに言った。
「城、静かすぎる」
椎名は、少しだけ目を細めた。
「静かであることは、良いことでございます」
「でも……」
「知る必要のないことも、ございます」
ファルカは、黙った。
しばらくしてから、ぽつりと言う。
「俺が大きくなったら……
全部、知る?」
「はい」
即答だった。
「その時には、私が説明いたします」
少年は、納得したように頷いた。
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夜。
椎名は、廊下を歩きながら、独り言のように呟く。
「中立とは……
何もしないことでは、ございませんね」
壊れる前に、支える。
腐る前に、取り除く。
それが、この国の中立だった。
そして――
次は、外側が動き出す。




