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第五十五話 思わくは夜のしじまに

前回までの、七兜山無免ローヤー!

 非弁ローヤーと衝突した無免ローヤー。救済と断罪がぶつかって、残ったのは敗北のみ。吐血し、崩れ落ちた水去は、何を思い、どこへ向かうのか。拳を振るうことだけが、法律戦士の力なのか? 無免ローヤーは今日も戦う! 変身! 法に代わって、救済する!

 水去律は病室の戸を開けた。窓からはもう、オレンジ色の夕陽が差し込んでいた。沈んだ影が部屋の隅を、黒で縁取っていた。太陽は地平に沈もうとしている。


 駒沢と佐藤の二人は、まだ眠ったままの前原女生徒の傍に残っていた。水去が顔を見せると、すぐに目が合った。水去君! と佐藤女生徒が声を上げた。部屋は一切の雑音もなく、言葉のほかはどこまでも静かだった。


「あなた、どこに行ってたの! 天祢を放ったまま――」


「……」


 水去律は何も言わず、部屋の入口のあたりで、黙って立っていた。目の奥は何かを堪えるように揺れていた。その場に立ち止まったまま、前に進もうとしなかった。


「ちょっとっ、何してたかって聞いてるの、どこほっつき歩いてたわけ⁉ っというか、そのケガはどこでっ」


「……」


 相変わらず水去は黙り込んだままだ。放心か、あるいは呆然としているようだった。


 駒沢が、それまで座っていた小さな丸椅子から腰を上げた。じっと、水去の方を見つめる。そうして、真っすぐに尋ねた。


「負けたのか?」


「……」


 やはり何も答えない男の前で、駒沢は少し咳ばらいをした。胸ポケットからサングラスを取り出し、かける。それから声のトーンを上げて、ゆっくりと歩きつつ、努めて明るくして口を開いた。


「よお水去、あーあー、お前、俺より酷い怪我だなあ、まったく。ふん、どこで何してたのか、俺は知らんけど、まあいろいろあったんだろう。そうかそうか、うん。まあそういうこともあるわな。どうしようもないこともあるさ、気にすんな」


 駒沢が水去のすぐ隣で、小さく肩を叩いた。真横にいても、いや、真横にいるから、互いの視線はもう交わらずに、相手から隠されている。


「……すまん、駒沢。少しでいい、ちょっと外へ出ててくれないか。……頼む」


「ああ、分かったよ」


 駒沢泰治は頷いた。それから佐藤女生徒に声をかけて、何か言いたそうな彼女を部屋から連れ出した。


 扉が滑らかに閉まって、空気が鎮まる。それからやっと、水去は一歩、一歩と、震える足を進めてベッドに近づいた。彼女に目を向ける。前原女生徒は横たわっていた。刻まれた傷は、被覆材で隠しても消えそうになかった。あまりに過酷な現実だった。


 今、水去は、現実に耐えられない。


 喉と胸の奥に、痛みとも異なる圧迫がこみ上げてくる。


「ごめん……ごめんなあ、前原さん……」


 ずっと前から、もう泣けはしないと思っていたのに、目から涙が、僅かばかり零れ落ちた。


「君が、こんなに傷つけられて、俺は何もできなかった……違う、しなかった……」


 水去は彼女に手を伸ばすこともできずに、棒のように立ち尽くしている。


「俺は卑怯だ、最低なんだよ……っ。あの時、まだ戦える力はあったんだ……でも、身体が動かないって、言い訳して……」


 前原女生徒は目を閉じたままだ。水去の懺悔は続く。


「結局、自分が一番大事なんだ、俺は……クズだな……何も守れないし、救えない……また、何の役にも立てなかった……ごめんなあ……本当に、ごめんなあ……」


 日没前の、最後の謳歌と言わんばかりに蝉が鳴き始めたせいで、彼の言葉は消え入るように搔き消されて、たぶん、誰にも届かなかった。


 〇


 日は落ちて夜となり、空は暗闇に覆われる。雲が出て、月明りすらなかった。


 神崎八太郎は、水去から前原らに生じた事情を少しだけ聞くと、一人、独自に行動していた。大学構内の街灯の下に立って、誰かを待っている。しばらくすると、人影が建物から出てきた。目的の人物らしい。周囲に邪魔な通行人はいない。神崎はさっそく姿を晒して前へ出た。


「やっほー、ねえ、キミ、非弁ローヤーだろ?」


 突然声をかけられて、男が驚いたように立ち止まる。法科大学院自習棟の窓から漏れ出た電灯の明かりに照らされて、その輪郭が見えるのは、神崎の言葉通りに、非弁ローヤー……網言正刀だった。頬には小さな傷を隠す絆創膏が張られていた。


 法律戦士の変身資格者は当然、突如として現れたこの自己を知る者を、警戒するように睨み付ける。


「……何なのかな、君は……」


 神崎が社交の笑みを保ったまま、洒落た仕草で小さく首を捻った


「うーん、何だろう。まあ、本当は水去君……無免ローヤーの相棒だって名乗りたいところだけど、ちょっと難しいのかもしれない。けど無免ローヤーや怪人に興味はあるし、非弁ローヤーもそうだ。でさ、少し用があるんだけど、いい?」


「水去律から聞いたのか……面倒だなあ……!」


「ボクの名前は神崎八太郎。一応プロフィールを言うなら、七兜大学文学部の二年生で、この山の妖怪伝説について勉強してる。その延長で怪人のことを知って、無免ローヤーについて研究する代わりに、彼をボクの家で居候させてるってとこ。で、非弁ローヤー……キミのことも、ボクが強く言って、立場を利用して教えてもらったんだ。だから水去君は悪くないよ、ボクの責任」


 電灯に蛾が舞う。つらつらと自己紹介した神崎に、網言青年は無言だった。虫の鳴き声を混ぜて吹く七兜山の夜風が、二人を突き抜ける。神崎は、向かい合う網言の拒絶の態度も気にせずに、問いを重ねた。


「さっそくいろいろ聞きたいんだけどさ、キミも法律戦士に変身して戦ってるわけだよね? なんで? 理由は?」


「理由、だって……?」神崎のペースに乗せられたのか、網言が反応して言葉を返す。「必要だから戦っているんだ。この世には罰が足りていないからなあ……!」


「じゃあ、罰って何なのさ?」


 神崎は素直な言い回しで尋ねる。網言正刀の頬が引き攣り震えた。


「本当の意味で、人から罪を切り離すためのものだ……! 己の罪から目をそらしている限り、罪を捨て去ることはできない、心の内側にとどまり続ける。断罪され、一生罪を抱えて暮らす覚悟ができて初めて、逆説的だが罪は外部化され、人の心から離れるんだよ。だから僕は、正しき罰をこの手で世界に示し、罪を断つためにこの力を使っているんだ……!」


「ふーん、なんか面白いねー。水去君と全然違うんだね!」


「っ……! さっきからふざけているのかなあっ!」


 網言正刀も気が立っていた。長い一日、朝から二度も、法律戦士に変身している。その終わりに、妙な問答をさせられるのだから、語気が荒くなるのも当然だろう。


 しかし神崎は相手のペースに合わせない。


「ボク思うんだけどさ、強い言葉と裏腹に、キミは随分焦ってるように見えるんだけど」


「……っ⁉」


「断罪してる……ね、けどキミはまるで、果たさなければいけないことがあるのに、それができない状況にある、みたいな感じもする。たまに水去君も同じような表情してるけどね。あっ、そういう意味じゃ法律戦士同士で似てたりするのかい? 妙に思い詰めてるところとか!」


「そうか、話はこれで終わりだなあ……!」


 今後一切の交流は打ち切りだと言わんばかり、網言正刀はさっそく、立ち塞がる神崎の横を通り抜けようとした。


 待ってよ――


 神崎の手が相手の肩を掴んだ。


 不意の身体接触に、網言が身を引こうとする。神崎は離さない。視線がぶつかる。人の好い笑みが消えて、さっきまでと異なり、初めて目元に険ができていた。


「ボクはね、けっこー水去君のことが好きなんだよ」


 神崎の言葉は淀みなかった。


「何を、言っているのかなあ……?」


 困惑の網言正刀。


 遠くで自動車の走る音がする。


「ああ、もちろん、前原天祢さんとか、駒沢泰治さんとか、ロースクールの人たちも好きだ。変わった人たちだよね。いろいろ真剣に生きてて、好きなんだ……だからあの人たちを傷つけたキミの行動は、許せないな」


 強い夜の風が吹いて、二人の着ているシャツを、ばたばたと叩いた。


「どうにも許せない」


「……」


 神崎はやっと網言から手を離した。


「あと、そもそも死にそうなほど全身くまなくズタズタに斬り付けることが、キミの言う罰だとは思えないよ。今日はそれが言いたかっただけ、じゃあね」


 そうして彼は静かに転回して踵を向けると、閑麗(かんれい)静かに歩き出す。


「待て、止まれ」


 声が響いた。


 神崎が首だけ捻って振り返る。今度は役回りが入れ替わり、網言正刀が相手を引き留める番だった。


「どういうことだ……? ズタズタに斬り付けるだと……! どういうことかなあ? 僕はそんなこと知らない。君はいったい何を見て、どこで何を聞いたんだ……?」


 酷く困惑している。それに気づいたのか、神崎もちゃんと向き直った。


「今日、水去君が、怪我を負った前原天祢さんを見つけた。駒沢さんも怪我してた。それをやったのは非弁ローヤーであり、その変身者は網言正刀、キミだよね?」


「それは事実だ、だが聞きたいのはそこじゃない、斬り付ける、という表現だ。そういえば水去律も同じような言い回しをしていたなあ……前原天祢は切創を負っていたのか? 駒沢泰治も?」


「駒沢さんのことは、詳しくは分からないけど、少なくとも前原天祢さんは全身血だらけで、骨が露出してる個所もあって、大きな斧みたいなもので斬り付けた跡があったって――」


「バカな……」


 網言が慄いたように数歩後ずさった。表情が愕然と落ち込み、見開いた眼に驚愕が揺らいでいる。「キミがやったんじゃないの」という神崎の言葉に、彼は首を振った。まったく嘘や演技は見えなかった。「けど、さっきは事実だって言ったじゃないか」「君は罪刑の均衡という言葉を知らないのか……」認識をすり合わせるように、会話は続く。


「僕は法律戦士として前原天祢に罰を与えた。それは認定できる事実だ。だが、斬り付けたりなどしていない。生身の人間を攻撃するのに、武器など使わない。当たり前のことだが、そんなことに使える条文はないし、使うべきでもない。全身血だらけで骨が露出だと? 過剰すぎる。前原天祢の罪は、そうまで重いものではない……!」


 網言が焦ったように言った。しかし神崎はあくまで冷静に、相手を見据える。


「キミの言葉を信じる義理も根拠も、ボクにはないんだけどね」


「だから罪刑の均衡だと言っているんだけどなあ……! 根拠はそれだ……! 僕が与えるのは正しき罰……! 罪に釣り合わない過剰な罰は、害悪でしかない。確かに彼女は異常なタフネスを有してはいたが、僕がやったのは、法の鎧を着た状態での殴打や蹴りだけだ……! 刃物など一切使っていない……!」


「ええ? じゃあ彼女の傷はどこから湧いて出てきたのさ?」


 網言の目元に皺が寄り、視線が何か考えるように右下へ動く。


「僕が前原天祢に罰を与えた時、彼女は気絶こそしていたが、外傷に関しては、致命的なもの、治療が不可能なものはなかった。そんな傷を負わせたりはしない。僕が与えるのは、あくまで正しき罰だからなあ……! 今朝僕が立ち去るまではその状態だった。僕がこの目で確認していることだ。水去律が前原天祢を発見したのは何時ごろだ?」


「さあ……けど、キミの姿は見てないんだから、キミが立ち去った後でしょ」


 神崎の答えに、網言正刀の目線が正面へ向き直った。真剣な表情で、神崎を見つめていた。


「ならば推認できる事実は一つだなあ……僕の罰を利用した奴がいる……!」


「キミが立ち去った後、倒れている天祢さんを、何者かが滅茶苦茶に斬り付けた、ってことだね。あくまでキミの言葉を信じるなら、だけど」


 二人の間で一つの結論が導き出された時、七兜山の風が大学構内を吹き抜けて、夏の終わりの始まりを感じさせる虫の音も、どこか静寂の中へと吸い込まれていった。


 〇


 同じ時間、家主不在の神崎邸。


 水去は自室の扉をぴったりと閉じ、ベッドに腰を下ろしたまま、一人、項垂(うなだ)れていた。夜なのに電灯もつけず、暗闇の中で床を見つめる目は、しかし、何も見てはいなかった。


 ふと、外から戸がコンコンと打ちなさられる。返事もしないうちに声が響いた。


「水去さまー、入りますわよー」


 守亜女生徒が入って来る。廊下の光が差し込んで影を作る。彼女の指が壁のスイッチに伸びて、カチリと明かりを灯した。水去は顔を背けて、部屋の奥の窓の方を向く。


 目には涙も、あったのだろうか。


 そんな彼の様子に気づいているのかいないのか、守亜帝子は部屋の中に歩を進めて、水去の目の前をふわりと通り抜けると、彼の視線を陣取るかのごとく、あえて背けた顔の正面に入った。ベッドに腰かけ、すぐ隣を占領する。しかし水去はまた目をそらして、机の下とかくだらないものに目を向けた。


 守亜が動いて空気が揺れて、柔らかい手の熱が、水去の頬に触れる。


「やっぱりお怪我をなさってますのね。お顔にまで……」


「……」


「わたくし、知っておりますわ。戦ったんですのね。さっ、消毒いたしますわよ、傷はちゃんと処置をいたしませんと!」


 その時に水去は初めて気づいたことだが、彼女は家庭用の救急箱を持ってきていたのだ。ベッドの上で箱を開けて、消毒薬なんかを取り出す。水去に身体の向きを変えさせ、「脱げ! ですわー!」なんて言いながらシャツのボタンを外した。


 露わになった水去の上半身は、あちこちで打撲痕や内出血が生じており、また、強い衝撃のせいか皮膚の裂けている個所もあった。法律戦士の戦闘……法の鎧を着ているため直接的に攻撃を受けることはなくとも、殴られたり叩きつけられたりすれば、当然、中の肉体にも影響は及ぶ。例えば鋼鉄を身に纏ったところで、ビルの屋上から飛び降りれば死ぬだろう。法の鎧も絶対防御ではない。いつもの怪人との戦いなら、倒しさえすればダメージがあっても遡及的無効になるのだが……


 消毒液を浸した脱脂綿が、傷口に触れた。ベッドの上で胡坐をかいた水去は、いつもなら驚いて身を引きそうなところを、何も言わず、何の反応もしなかった。守亜女生徒は彼の前に座って、一つ一つと傷を埋めていく。下方に流れた彼女の髪が揺れるたび、包み込むような匂いが立った。


「なんだかボロボロですわねー。これ痛くありませんの? こことか、皮膚の奥まで裂けてますから、なかなか治りそうにないですわよー、困りましたわ、もう」


「……いいんだ、別に、なんとかなるから。でも、ありがとう……応急処置、助かるよ」


「ぜーんぜん応も急もできてません。もう血も固まって、放置しすぎですわよ! どうしてこんなに……さっ、背中をこっちに向けてくださいまし! まあ、痣が真っ青どころか真っ黒になっちゃってますわーっ、ほら肩のところ、やっべえですわよー! あっ、ここも血が出てます!」


 守亜の言葉に、水去は彼女から見えない角度で少しだけ微笑んで、また睫毛を伏せるように目線を下げた。冷たい消毒液と、アイシングパックが背中に触れる。いろいろと手当てを受けている間、彼は黙って、じっと座っていた。守亜女生徒が何か言っても背中を向けたままで、喉の奥に押し上がる感情や、冷たさに驚いたり、くすぐったさに微かな笑みが時々漏れても、その表情を、決して彼女に見せようとはしなかった。


 さっ、これでオッケーですわ


 ふと、背後で守亜女生徒が呟いた。そうして水去が振り返ろうとした瞬間、ベッドのマットレスがぎゅっと沈んだ。こちらへと近づく体重移動。しなやかな両腕が視界に入り込んできて、首に回る。さっきまで冷やされていた背中に、吸い付くようなぬくもりが触れた。後ろから抱きしめているのか? 水去は考える。それどころか、まるで、肉体をキツく縛って締め上げているような按配だった。首もとに回された腕が、彼を動けなくさせていた。


 ねえ、水去さま――守亜の口もとは見えないままなのに、濡れた吐息が耳に囁く。()せ返るような甘い匂いが、自分と一体となったみたいに、染み込んでくる。


 しかしそれは、彼女も同じだったのか。守亜女生徒が、とってもいい匂いですわ、と呟いた。その声は、ねっとりと、絡みつくような艶を持っている。抱きしめる力が一層増して、体を触れ合わせる圧が、ますます広く、深くなっていく。


「守亜さん……何を……」


「わたくしは、今、確信いたしました。水去さまが、他とは違う、特別なお方だって……ああ、とっても深くて濃い、素晴らしい香りですわ。日を追うごとにかぐわしくなる……わたくしには、分かるんですのよ……」


「……俺は……」


 水去に有無を言わさないかのように、守亜女生徒は言葉を吹きかけた。


「ありのままの、貴方が見たい……ありのままの水去さまと一緒に居たい……わたくしの願いですの。ねえ、水去さま、聞いてくださいましよ……わたくしは……わたくしは貴方を解放して、わたくしだけのものにしたい……」


「違うんだ、守亜さん……ありのままなんて、俺は……」


 背後から覆い被さり、のしかかるように、守亜が動いた。互いの頬が触れ合って、唇の端と端が繋がりそうなくらいだった。二人が少し角度を変えれば、キスできてしまいそうだった。燃えるような熱さが、全身を駆け巡っている。


「なにも違いませんわ、人を縛るものなんか、本当はどこにもありませんのよ……水去さまは、水去さまの好きなように、できますわ……それに、わたくしと居れば、もっと、もっと、どんなことでも……」


「駄目なんだ……何も……俺は、鎧を着なきゃ戦えないし、戦っちゃいけないんだ。俺は弱くて、駄目なんだよ。駄目なんだ……」


 水去が絡みついた守亜の腕に手を置いた。彼女は全身を強張らせるように、ますます強く抱き着いた。


「随分、怖がりですのね……こんなに、震えて……」


「そうかもしれない。俺はずっと」


「何かが、その胸の中で、邪魔をしておられるのですね。不純物が、本当の水去さまを、隠してしまっている。ずっと、嘘をついて……でも安心なさって……必ず、わたくしが、本当の貴方を取り戻してさしあげますわ……わたくしの前では、本当の水去さまでいられるように……ねえ、水去さま……わたくしは、わたくしは――」


 人は常に、思いを巡らせ、考えている。しかし、他者が何を考えているのか、誰にも覗き込むことはできない。それぞれの思わくはいつも、夜のしじまの中へと、溶け込むように消えてしまうのだ。


 月明りも無いこの夜に、登場した一人一人が、何を思い何を考えていたのか、それもまた当人にしか分からないことである。


 水去は守亜の腕を掴んで、そっと自分から引き剝がした。それで彼女の言葉も途切れた。しばらくの静寂の後に彼が小さく、ありがとう、と呟くと、彼女は水去から離れて、どたどたと慌ただしく、部屋を出て行った。

次回予告

押し入れ! 追い出し! お兄さん! 第五十六話「神崎家の人間として?」 お楽しみに!

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