5-7
グラリと酷い目眩がする。
混沌卿が俺から離れ、数歩下がるのが辛うじてわかった。
その瞬間、俺の脳裏に次々と浮かんだのは、これまでの戦いの記憶、その全てだった。
「うぶっ……」
猛烈な吐き気を覚え、慌てて口を抑える……が、堪えきれずにその場で嘔吐する。
たくさんの敵を殺した。肉を抉り、斬り裂き、潰し、捩じ切った。その感触と匂いが生々しく蘇り、そしてそこから生じる嫌悪感と不快感、そして何より命を奪う事そのものへの途方も無い罪悪感に、俺の心が悲鳴をあげる。
とうとう立っている事すら出来なくなって、そのまま地面に倒れてしまった。
涙が自然と溢れ、手足が震える。それは全身に回り、まるで凍えたようにガタガタと震え続けた。
「はは、わかったか? それが、お前からイオスが取り上げた人間らしい感情ってやつだ。なぁ、イオス。これだけ苦しむこいつを見て、まだ自分は都合の良い道具扱いしていないと言えるのか!」
「くっ……我は……すまない、マスター…………」
「イオス様……」
涙で滲む視界の先、項垂れるイオスが見える。黒龍の体は涙なんて流せないが、今のイオスは何故だか泣いている……そう思った。
混沌卿は、そんなイオスの姿を見て勝ち誇ったように、高らかに笑う。
「ハハハハハ! ようやく、自分が人を破滅させる化物だと自覚したか、イオス! 安心しろ、今日でお前のマスターはお前の呪縛から解かれた。後はお前がバグ女と一緒に俺についてくればいい!!」
「ざけ……るな……行かせない……行かせるものか」
震える脚で何とか立ち上がる。心の痛みも、吐き気も、涙も依然として止まらない。それでも俺は立った。
「ん? まさかこんなに早く立ち上がるとはな……。いいか、よく考えろ。あの化物とバグ女、お前にとって、本当にそこまでする程の存在なのか?」
まるで理解出来ない……とでも言うように、混沌卿が肩をすくめる。
「……ああ、二人とも大切だね! 俺があてもないこの世界に来て、ここにこうして立っていられるのも全て、イオスとリミル、二人がずっと、俺の隣に居てくれたからだっ!」
「ふんっ、その結果がそうして、反吐の中でのたうちまわる事でもか?」
馬鹿にしたような混沌卿の問いかけに大きく頷く。
「ああ、構わない。……イオスッ、良く聞けっ!」
イオスの心に響くように、声を張り上げて叫ぶ。
「奴が、混沌卿が何を言おうと、お前は俺を戦えるように、生き残れるように鍛えてくれた! お前が鍛えたマスターは、こんな事で折れたりはしないっ! だからこれ以上、お前が悔やむ事は無い。命を奪う罪も何もかも……俺が全て背負って、何度だって立ち上がってやるさ!!」
取り返しがつかない、償いようのない罪ならば、全て背負ってでも生き続ける。その覚悟を今、決めた。
深呼吸をし、自分の頬を思いっきり殴る。痛みで頭はクラクラとしたが、おかげで心は随分シャキッと冴えた。
手足の震えもだいぶ治っている。これならまだ戦える。
「やれやれ……もう立ち直ったのか。お前は人間らしさが元々希薄なのかね?」
「別に立ち直ったわけじゃないさ……これは覚悟だ。そして、お前には訂正してもらうぞ、混沌卿っ! イオスとリミルは化物でもバグでもない。俺の大事な相棒だっ!!」
「相変わらず、気合いだけは超人的だな……いいだろう、ならばその気合いで、この力の差をひっくり返してみせろっ!!」
混沌卿が飛びかかってくる。変わらず速くて重いその攻撃を、俺は必死で防ぎ続けるしか出来ない。
「……イオス様、タツヤさんを助けに行きましょう」
その様子を見て、檻の中のリミルがポツリと呟く。だが、俯いたままのイオスは、弱々しく首を振った。
「っ! ……しかし、我は……それにここから出る方法も……」
「檻で力の封印がどうとか……イオス様がタツヤさんの頭をどうとか、そんな事はもう、どうでもいいんです」
リミルがイオスと同じ様に首を振って話す。しかし、その瞳にはかつてない力強い意志があった。
「ただ、私は決めました。私達を信じ、私達の為に心も体もボロボロになって、それでも私達を相棒だと言ってくれたタツヤさんを助けるって! だから、顔を上げて立ってください、イオス様…………立ちなさいっ! 貴女はタツヤさんの相棒でしょう、イオスッ!!」
突如激しく飛んだリミルの檄に、イオスの肩がピクリと震える。
顔を上げたイオスの顔には、先程までの陰りは見当たらない。
「……そうだな、我は何を嘆いていたのか……マスターは我等をあんなにも信じてくれている。それだけで、十分ではないか。わかった……行こう、リミル。二人で我等のお人好しなマスターを助けに行こう」
「はい!!」
二人の伸ばした手が触れ合う。その瞬間、今まで以上の黒い閃光が発生した。




