18魔法をかけよう
兄はもう生き返らない。いや、最初から生き返ることなど出来なかったのだ。ボランスがこうして幾年もの年月を生きているのは、彼が不死の罰を受けた伝説の魔法使いだったから。掟など関係が無かった。リラの悲しみが薄れていくのは、ボランスの魔法のせいだった。そこで全てがリラの腑に落ちた。しかしリラはそこで一つの疑問が沸いた。兄の姿かたちが思い出せないのはどうしてなのだろうと。
「……さて、少し長話をし過ぎてしまった。もう帰ろう。私が送っていくよ」
ボランスはリラを起用に抱き上げた。リラの頭のすぐ近くでは、柔らかい光がゆらゆらと揺れている。ボランスが歩みを進めれば、一歩一歩と空に向かい地面から離れていく。いつもこうやって移動するのならば、すぐ後ろに来るまで気が付かないはずだとぼんやりとした頭でリラは思った。
遠く、足元では高く生い茂った木々が豆粒ほどの大きさに見える。そして視線を移せば街の家々でさえも。この街で一番高いとされる時計台よりずっと高い場所に彼らはいた。
淡い月がすぐ目の前にある。月のでこぼこが、いや月だけではない。煌めく星々にでさえも手が届きそうだった。リラは手を伸ばし、それを掴もうとしたがやはり掴めないまま終わってしまう。リラがやっぱり駄目か、と笑えば、さすがに私でも届かないからね、とボランスが笑い返す。
「……リラは、私が怖いと思わないのかい?」
ボランスが唐突に言った。リラは首を横に静かに振った。ボランスの白い骨の顔がすぐ近くに見える。だが彼は明後日の方向を見つめていた。まるでリラの回答を怖がっているようだった。
「今更ですよ。だって、私は小さい頃から雪が好きで、ボランスさんは時計台に上る私を心配して、ずっと傍についてくれたじゃないですか。昔から人ではないと知っていました。その人が、私たち人間を食べるだけ。人間だって生きるために牛や鶏を食べます。それと同じでしょう?」
ボランスは生きた人間を食べたことがある。それはリラたちが憂戚の夜と呼ぶ出来事の中で起きたことだろうとすぐに予想がついた。何回と食べているのならば、自身の制御が利かずに食べてしまうと言うならば、リラも恐ろしいと思う。しかしボランスが生きた人間を食べたのは後にも先にもその一件だけだ。リラにはボランスもまた兄と同様に大切な人であり、そのような話を聞かされた程度ではその地位は揺るがなかった。
「そうか……」
ボランスの瞳は愛おしげに、だがどこか悲しく細められているように見えた。そしてぽつりぽつり、と彼は口を開く。
「……私は君を見た瞬間、プレオネにとても似ていると思ったんだ」
プレオネ、リラはその名前を聞いたことがある。初代国王と王妃の間に生まれた双子のうちの一人。輝かくような美しさをもつ王女プレオネ。彼女は魔法使いスヴァロンに恋をしながらも、国王の危惧により二人の仲は結ばれることなく引き裂かれた。
「顔立ちもこげ茶色の髪も、声も、その聡明さだってまるで生き写しのようだ」
ボランスの酷く穏やかな声が頭に響く。彼があまりにも優しく語り掛けるので、リラは揺りかごに乗せられて母親の子守歌でも聞いているような気分になった。頭が妙に働かない。手足もすっかり弛緩してリラの言うことをまったく聞いてくれなかった。
「でも、彼女はとても怖がりだったんだ」
リラはぼうっとした頭を振った。心地よい微睡みが押し寄せてくる。気を強く保たなければ、眠ってしまう。しかしその感覚が心地よく、リラはそれに身を委ねたいと思ってしまった。
「もちろん君がそうじゃないことは私も知っているよ。……だけど彼女は、プレオネは違った。きっと私の姿を見たら怖がってしまっただろう」
リラは、ボランスもまたプレオネを愛していたのだと思った。愛おしげにリラを見る瞳、優しい声音。もしかしたらプレオネに重ねられているのでは、と思うとリラの胸が少しちくりとする。幾千年の時を経てもまだなお、ボランスがプレオネを愛しているのならば。その心にリラが入り込む隙間など無かったのだ。リラはどうしてなのかは分からないが、心が砕けていきそうだった。苦しくて、息が詰まる。もしかしたらこれが恋なのかもしれないと気が付くと、胸の内の何かがすとんと落ちる。自分が待っていたのは白馬に乗った金髪の王子様では無く、骸骨の魔法使いだったのだ、と思った。しかしその淡い恋心もボランスがまだなおプレオネを愛していると言うのならば、捨て置かねばならないのだろうとリラは悟った。
「リラ、私はこの街から出て行くことにするよ。君にこんな悍ましい姿を見せてしまった。化け物であることを知られてしまった。今でも罪悪感に、今まで行ってきたことへの後悔が心の奥から溢れだしそうで、もう当の昔に心臓なんて朽ちてしまったのに痛むんだ」
リラはボランスがずっと遠くに行ってしまうのだろうと感じた。もう二度と大切な人と離れ離れになるのは嫌だった。彼は続けて言葉を紡ぐ。
「……リラ、私は君が好きだったよ。夜が明けたら、君は目を覚ましたらお兄さんのことも私のことも忘れている。悲しむ君の顔は見たくない」
ボランスはリラの瞳に手を添えた。骨の指は無機質で冷たいはずなのに、温かく肉を持て居るようにリラは思えた。何も見えない、真っ暗闇。その闇に落ちていきそうでリラは恐ろしかった。
「今度はしっかりお眠りなさい。魔法がとけてしまわないように」
兄の記憶を、思い出を消したのはボランスだったのだ。彼は悲しむ顔を見たくないと言った。あの時に眠っていたのなら、ボランスがこの街から出て行くことは無かったのかもしれない。一夜に二度も大切な人と離れ離れになることは無かったのかもしれない。リラがそのことに気が付けば、今までにない心地よさが体を包んだ。それは暖かく、柔らかく、穏やかなものだ。このまま闇に落ちてしまうのも怖くない、それでもいいかと思ってしまう。
リラだけが忘れて、ボランスだけが覚えている。化け物であると吐露した今夜の思いと、今まで人を食べてきたことへの後悔を。そして彼はその思いを携えたまま、このまま孤独に長い歳月を歩んでいくのだ。それがリラにはやるせないことだったが、もうどうにもできなかった。
「――おやすみ、リラ」
酷く優しい声だった。いつかむかえにきて、声にならない言葉が唇を動かした。彼がリラのそれに気が付いたかは分からない。ただ細い指がリラの頭を撫でる。それがリラが眠りに落ちる前の、最後だった。




