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12兄シリウス

 リラはふと、ちょっとした疑問がわき上がった。それを尋ねるために口を開く。

「スヴァロンは今もこの街にいるってことで……――」

 最後まで言わぬうちにリラは口をつぐむこととなる。

 轟音が街中に鳴り響いたのだ。どこか高い場所から何か重い音が落ちる音と言うのか。台所でフライパンが落ちる音の比では無い、とても大きな音だ。一瞬地面が揺れ動き、窓から見えていた枝で談笑をする小鳥たちはその音に驚きどこかに消えてしまった。

「一体どうしたっていうんだ……?」

 教室に残っていた生徒たちがざわざわとし始める。ミノリスは呆然としていたが、すぐに静かになるように指示を出す。

 その中で生徒の一人が窓の外を見ながら「時計台で何か起こったみたい」と口走り、リラがはっとした。今日はリラの兄、シリウスが初めて時計台の大時計の点検を任される日だ。背中から汗が噴き出る。嫌な予感がした。

「――おいリラ!」

 椅子を蹴って机をどかした。心臓が今までにないペースで早鐘を打っている。どくどくと波打つ心臓の音が耳の中に反響する。リラはアレスの止める声も無視して教室から飛び出た。

 走ることを忘れた足はもつれそうになり、不格好な走り姿でリラは時計台に向かった。教室から時計台への距離はそう遠くない。時計台の正面に当たる部分には人だかりができていた。悲鳴や嗚咽、医者を呼べという声が聞こえてくる。

 背の高い大人たちがぎゅうぎゅうと囲んでいる姿。その輪の中にリラは近づこうとしたが、聞きなれた声に呼び止められた。

「……リラ?」

 赤茶色の髪をしたふくよかな女性。今朝も呼び止められたアレスのお母さんだった。彼女は顔を青ざめさせて、身を震わせながら言葉を紡ぐ。

「シリウスが、シリウスが時計台から……」

 そこまで聞き取ったリラは、大人たちの群れの中へと突っ込んだ。

「やめなさい!」

 後ろから彼女の金切り声が聞こえる。

 大人たちは固くリラの行く道を阻んでいる。頭上では容態はどうなんだ、死んでるのか、どこから落ちたんだ、そんな囁き声が聞こえる。下世話な話だ、お前たちには関係ないだろ、とっとと消えろ、そんな呪詛が心の中に吐き出される。ひ弱で力のないリラの体は、いつまで経っても屈強な大人たちに押し返され進まない。

「――私の兄です! どいて、ください!」

 リラは甲高い声を上げて、中に入り込もうとする。その声が効いたのか、先ほどよりするすると前に進むことが出来た。太った男たちの腹と腹の間からようやっと顔を出した。すると先ほどまで進まなかったのが嘘のように、つるんと内部に押し出された。その衝撃にリラは思わず転び、地面に手をついてしまう。

 視界に入った地面が赤かった。赤く染まっていたのではなく、流れ出した液体のせいだった。リラの手のひらは粘着質な液体に浸っていた。手をぐーぱーとさせるとぺちょぺちょとした感触が生まれる。それはスカートにまで赤黒い染みをつけさせており、いまなおその赤はスカートの裾へ侵食を進めている。

 視線を上げれば、こげ茶色の髪が見えた。赤黒い液体のせいでこげ茶では無い色の部分が多かった。

 ばくばくと心臓が張り裂けそうな音が身体の内でずっと木霊している。震えながら顔を更に上げれば、顔が見えた。固く閉じられた瞼にぎゅっと結ばれた唇。顔色は血の気が無く、青白く見えた。頭からはどくどくと血を流し、石畳の上に跡を広げている。

 青白く見えた。頭からはどくどくと血を流し、石畳の上に跡を広げている。

ああこの赤黒い液体は血だったのだな、とリラは思った。あまりに多く流れているせいで血であると思わなかったのだ。脳が血と認識すれば、自然と鉄臭いにおいが鼻を刺激した。何とも都合のよい感覚器官だ。

 指だけではない、膝も肩もそこら中震えている。次にリラはだらんと力なく投げ出された四肢を見る。まるで死んでいるようだと思った。リラは力なく笑うと横たわる兄の体を揺すり始める。

「……ねえ兄さん、どうしたの。ねえ返事をして」

 返事が返ってこない。どんなに体を揺さぶろうとも兄はうんともすんとも言わなかった。

 リラは周りの人間のざわめきがどこか遠くの場所で鳴っているような気がしていた。ずっと遠くだ、周りの人間が何の言葉を発しているのかが分からない。海の底に沈められているような感覚に陥る。きーん、という耳鳴りまでもが聞こえてきた。

「ねえ兄さん」

 綺麗な顔だった。傷一つついていない。左頬に血しぶきがかかっているのを見て、リラは拭うがすっかり失念していた。リラの手は先ほど地に付いたときに血で真っ赤になっており、拭えるどころかその範囲を広げることしかできなかった。

 ふと、リラにこつんこつんと地をゆったりと蹴る足の音が鮮明に聞こえた。お嬢さんいったん退きなさい、という歳老いた男性の声が柔らかくリラをたしなめる。顔に今までの苦労が窺がえる皺が刻まれた白髪交じりの黒髪の壮年の男性だった。彼はリラの肩をとんとんと叩き自らの存在を明らかにさせると、兄の横にしゃがんで首や手首を触り、瞼を開かせる。一連の動作をした彼は首を静かに横に振り、何か拭くものと担架の準備を、と厳かな声で言った。


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