「土竜の死骸」
リリルアが孤児院で案内された一室に入り落ち着いた時、轟音が響く。
地下であるはずなのに孤児院は揺れ、地上で何か異変が起こっていることが察せられた。すぐにリリルアは案内された寝室を出て行きプラレスたちと話した広場に戻る。
子供達は寝ていたようだがプラレスと孤児院の男がそこにいた。
「いったい何が…!?」
わけもわからず取り乱すのはリリルアである。彼女は今の状況を聞こうとしていた。
「真理の影が… あぁ、ガンダールヴ!」
「ガンダールヴ…? 救世主?」
「はい… 彼が蘇ったようです、我々を救うのか、滅ぼすのか。それは彼の御心のままに。」
男は狂信的に祈り、プラレスが説明してくれる。
リリルアが状況を理解する間もなくプラレスと男は地下道を走り、孤児院を出て行った。
「待って! 救世主が復活したって!?」
「その怨念が復活したのです… この世界を平穏へと導くため。全ての憎しみを収めるため、憎しみに対する憎しみを持った彼が引導を渡そうとするのです。」
リリルアには憎しみが憎しみで癒せるのか、ということを考える間は与えられなかった。プラレスは後ろ目にリリルアの質問に答えてくれたが、男と共に走り出していく。
リリルアはただそれらを追っていった。
◇
エル・トポの街の地上へ出ると空は真っ黒に覆われていた。何か大変なものがやってきているだろうということは、リリルアにも理解できた。
空は黒に染まり、永遠に続く曇りの様相を呈している。深夜だからなのか人々の声は聞こえなかった。空の中に一つの人影を確認することができる。
孤児院の男がそれと対峙していた。
「貴様… 何の用だ。」
『我、黄泉の淵より蘇る。人間の信仰に用はない! 用はないのだ!』
人影が大きな刀を抱え飛びかかってくる。
「真理の影か!? ガンダールヴ!?」
『いかにも。我は真理の影にしてガンダールヴその人、またその怨念。人間はその罪を償う時が来た!』
真理の影… それは昔に救世主として存在したガンダールヴの怨念が形となったものだった。「真理の影」が刀を振り下ろすと曇っていた空は星を映し出す。彼の一撃は空をも割るのだった。
間一髪のところで孤児院の男はそれをかわし、両刃の剣を取り出す。どうやら孤児院から走り出した時に持って来たらしい。
男がそれを振り下ろすと鋭い金属音を立てて真理の影の刀に当たった。
「なぜ今やってきた!?」
『奴隷とされた少女に、ひどい傷を負った男を見た… この世界は救いようがない! この世界は私がまた脱構築せねばならない!』
「滅ぼすということか!」
『そうだ!』
真理の影は乱暴に刃を振り、それをかろうじて孤児院の男が受け流している。
「ここはエル・トポ…! 償いの街だ、人々は自らの罪を贖おうとしている。それでも貴様は世界を滅ぼすというか!」
『そうだ! エル・トポと言ったな、それでは世界は安寧にたどり着けない。私が完全なる平穏を完全なる信仰によって与えてやろう!』
男は信仰という言葉を聞いて一瞬たじろぎ、そこに真理の影の一撃が入り込んだ。男がうめき声を上げる中真理の影は無慈悲に刀を振るい男を切り刻んでいく。
「貴様… それでも神か… 救世主か…?」
『貴様らが神を求めた以上神ではない。』
男の体に鋭い一撃を加えたことを確認し、真理の影は姿をくらます。真理の影は救世主ではなく救世主の怨念であった…
それを男が神と見まごうことはリリルアにとっても理解できることであったが、今の光景はむごすぎる。これが救世主の姿であっていいはずがない。
生ぬるい血が孤児院の男の体からおびただしく流れ出ている。
真理の影は風と共に消えた。
「メフィストフェレス!」
「メフィストフェレス!」
「メフィストフェレス!」
倒れた男の元へプラレスが叫び、駆け寄り名前を呼ぶ。孤児院の男の名は悪魔の名前、メフィストフェレス。
「うる…さいっ!」
「メフィストフェレス」は駆け寄ったプラレスの体を薙ぎはらう。プラレスの体が地に堕ちると共によぼよぼと歩いていく。
リリルアの目の前に真理の影との戦闘を終えたメフィストフェレス。その血は優しく地に落ち、あとを残して体は視界から去っていくのであった。
プラレスが後を追おうとするが、リリルアが衝動的に彼女の体を抑えた。
「俗物! 俗物! 貴様ぁぁ!!」
「黙って! 彼は…! 彼は…! そんな簡単なこともわからないの、世界との告別が必要なのよ、これは死よ!」
——死
飛びかかってくるプラレスをまたリリルアが抑える。
リリルアにはメフィストフェレスが死ぬことが分かっていて、プラレスにその瞬間を見てほしくないと思う。
やがてメフィストフェレスの体はリリルアとプラレスの視界から消えて行った。彼の体は血痕を地に残しながらエル・トポの裏路地へと消えていく。
◇
メフィストフェレスは街の教会へ来ていた。
教会は、街頭に照らされて金色の色をしている。教会というより、街中に忽然と屹立する聖堂。
その大聞い扉を朦朧とする意識の中開けて入っていった。
——もしかして、聖域の雰囲気というのは自我の芽生えや、社会に生きる人間でないと感じることができないかもしれない。それに、付き合うのは少し気が重かったけれど…
生の衝動がそれを打ち消してくれた。メフィストフェレスは今に及んでも生きたいと願っていた。
内装も黄金色で派手だ。
中は綺麗に整備されている。また、とりわけてステンドグラスはまるで多くの清掃員を雇って毎日拭き掃除でもしているかのように輝いている。人位の人間が死ぬには立派すぎる聖堂だ。
聖堂の中は電気の明かりも感じられたけれど、多くの明かりが蝋燭によるものだった。まるで煩悩でも払う日本の大きな祭りのクライマックスかと思われるほど無数の蝋燭が灯っている。しかし、聖堂の大きさのせいで眩いほどの明るさは感じない。
蝋燭は風に揺れた。
今にも消えそうだ。メフィストフェレスが扉を開けた時風圧で幾らかの蝋燭が消えた。
夜灯すのだろうか、あまり溶けていない蝋燭だ。消えてすぐの、蝋が垂れるのを見て不思議なほど感動した。
内部の光加減は荒廃した廃墟のよう。その雰囲気と、整備された目の前の雰囲気は心のうちに一抹の気持ち悪さを残す。
大きな空洞。
遠い天井。
ぽつんと、奥に見える一つの影。
——…真理の影?
宇宙の真ん中に身投げしたような気持ちだ。
会わなければならない人の影が遠くの遠くに見えている。
しかし、遠い天井が恐ろしい。途方もなく広い空間に一人でいるのはなんだか悲しいし、怖い。広大な世界の内の悲しみを全て内包した感じがする。
天井は今にも落ちてきて、膨大な数の小さい、牙を持つ口を開けてメフィストフェレスを貪ってもおかしくはないのである。
小さな奥の方の影はこちらに気づいていないのか、依然と動こうとしない。
その人に話しかけるのは、無限の道のようだ。だって真理なのだから。
教会の中央に敷かれた長すぎる赤いカーペットがその感を強調している。そして、蝋燭の明かりがそこへ落ち、揺れる様。星屑を集めてできた川の中の小石を跳び回っていかなければならないようなカーペット。
一生かかっても、あの影の元へは届かないかもしれない…
この聖堂は記憶と、夢の本質。
突然エル・トポの街に嵐が吹き荒れる。
雷が鳴ってメフィストフェレスは感覚の海から脱した。稲光が聖堂のステンドグラスや装飾の黄金色を一層輝かせる。メフィストフェレスの朦朧とした目の中に強い焼き跡が残った。彼の目は眩む。
メフィストフェレスの歩く姿は勇気の色を帯びて見えた。
それは、怯えない赤子というシュルレアリスムの現実。彼はこの聖堂に入ってから一人の赤子のように見えている。
そんなものを見るということは、もう夢の中へ深く迷い込んでしまって抜け出せないのかもしれない。
泣き顔。勇気。
神聖さ。脆さ。
不自然である。
メフィストフェレスは誘惑されるようにして、聖堂の奥へ少し足を踏み入れた。
その時、エル・トポの街に大きな雷が落ちた。強い風が吹いて、すべての蝋燭は消え、街灯や教会の中の少ない電球も消えた。停電が起きた。
真っ暗。
時折落ちる雷の光だけを頼りに、祭壇の前へたどり着く。
かがみ、膝をカーペットにつけて祈る。目をつむって祈祷の時間にふけった。
「母さん、汚れて…」メフィストフェレスの声。彼はポケットの中から一本のタバコを探り出しそれにマッチで火をつける。
——美味しいなあ。行きたいなあ… 争いのないところ…
「プラレス…」
少し、まぶたの裏でも明かりが見れた。蝋燭が何本か残っていた火の粉を頼りに灯ったのだろう。
聖堂の中はとても静かで、静かと言うより本当の静けさに近かったけれど、その時雨脚が途絶え始めたのが聞こえていた。
孤児院の男、メフィストフェレスは死ぬ。




