エピローグ
あんな騒ぎがあっても、皇女は気を悪くする様子もなく祭りを存分に楽しんで帰って行った。
赤の他人から突然理解しがたい侮辱を受けたことよりも、彼女にとっては好きでたまらない婚約者に抱きしめられた喜びの方がはるかに大きかったらしい。急に訪れた甘い展開に、皇女は王子たちから向けられた侮辱の言葉の内容すら忘れてしまったほどだ。むしろ、密かに彼等を「よくやったわ」と褒めていたことをクロエは聞き逃さなかった。
しかしながら、皇女が怒っていないからといって事態を不問に付すわけにはいかない。
一国の王子が帝国の皇女を侮辱したのだ。これは立派な国際問題であり、対応を間違えると戦の引き金にもなりかねない。王家も事態を十分に理解していたのだろう。あの件の翌日早朝、王宮の使者が屋敷にやって来た。空がわずかに白み、朝靄が立ち込める中、王家の紋章が刻まれた登城要請の書状を持って。
「夜明けを待たずの非礼、どうかお許しを。陛下のご意向により、ただちにお届けせよとの仰せです」
事の重大さに国王もよほど焦ったのだろう。使者の言動からはわずかな焦りがにじみ出ていたが、それとは対照的にクロエは終始落ち着いた物腰で応じていた。
「申し訳ございませんが、当事者であられる皇女殿下が現在当家にご滞在中でございます。招待主の立場としては、いかに陛下のお召しとはいえ、大切なお客人を残して屋敷を空けるわけには参りませんの」
断られるとは想定していなかった使者は驚愕に目を見開いた。「陛下のご命令ですよ!?」と反論したものの、次の瞬間、クロエの鋭い視線に射抜かれ息を呑む。
「何も拒否しているわけではございませんの。ただ、今は大切なお客人を優先したいと申しているだけでございます。おもてなしが終わりましたらこちらから改めて出向きますゆえ、陛下にはそのようにお伝えくださいませ」
柔らかい口調だが、有無を言わせぬ威厳を漂わせるクロエに使者はそれ以上は口を噤んだ。
使者も知らないわけではない。いかに王家の命令であれ、カレンデュラ家には従わせることなど到底できないということを――。
「……かしこまりました。陛下にはそのようにお取り次ぎ申し上げます。このような朝早くにお時間を賜り、誠に恐れ入る次第にございます」
ただでさえ王子が無礼を働いた直後だ。ここで使者までもがクロエの機嫌を損ねれば、カレンデュラ家が王家を見限る可能性すらある。その危険性を理解していた使者はクロエの言葉に頷くしかなかった。
そうして皇女が帰還した翌日、クロエとエーリヒは揃って王宮へ赴いた。彼女の来訪を今かと待ち続けていた国王は王太子を傍らに立たせ、二人を迎え入れた。玉座に座す国王も、その傍らに立つ王太子も、見るからに疲れている。無理もない。第一王子があのような意味不明な言動によって皇女とカレンデュラ家に無礼を働いたのだから、彼等の心労はよほどのものだろう。
国王はゆっくりと立ち上がり、重々しく口を開き、謝罪の言葉を口にした。
「カレンデュラ女公爵、そしてエーリヒ卿。我が孫の非礼、統治者として、そして祖父として、深く詫びる」
そう言って国王は深々と頭を垂れた。国の頂点に立つ王が人々の前で頭を下げることなど、滅多にあることではない。その姿に周囲から小さなどよめきが起こった。
「王子には相応の戒めを与えるつもりだ。いかなる身分であろうと、礼を欠くことは許されぬ。そのことを改めて示さねば」
クロエとエーリヒは礼を崩さぬまま、国王の言葉を静かに聞いていた。
やがて国王から発言の許可が出ると、クロエは美しい青の瞳を真っ直ぐに向け、口を開く。
「陛下がこのようにお心を示してくださったこと、深く感謝いたします。どうか、この件が怨みとして残ることなきよう願うばかりです」
「そなたが余の心を汲み、深い理解を示してくれたこと、ありがたく思う。このことが遺恨となることのなきよう、余も努めよう」
「過分なお言葉にございます。わたくしはただ、陛下の治世が穏やかであることを願うのみでございます」
一見すると控えめに聞こえるクロエの発言の真意は「帝国とカレンデュラ家に禍根が残らぬよう、しっかりと対応しなさいよ。安心して玉座に座っていたいならな」と大分攻撃的である。その意味を理解した国王と王太子は、苦々しい表情で唇を噛みしめていた。
謁見の間に立つ国王も疲労の色は濃かったが、王太子はそれ以上に見る者が気の毒に思うほど憔悴しきっていた。
彼の立場を思えばそれも当然だろう。実の弟との跡目争いを経てようやくこの座に就いたにもかかわらず、今は息子の失態によって立場を危うくされている。つくづく苦労の絶えない方だ――クロエはそう思い、彼に同情の念を抱いた。
(……それは、わたくしも同じね)
令嬢時代には婚約者に悩まされ、今ではその元婚約者の娘が再び波風を立てている。
つくづくこちらの人生に厄介事ばかりを持ち込んでくる男だと、クロエはレオナルドに対してうんざりした思いを抱いた。
「皇女殿下におかれましては、慈悲深くも此度の件を穏便に済ませたいと仰せでございます。ですが、皇帝陛下は孫娘を侮辱された件について、決して軽く済ませるつもりはないと仰せです」
クロエはただ国王との謁見を引き延ばしていたわけではない。その間に皇女の意向を確認し、加えて皇帝の意向も使者を通じて探っていた。王家と帝国の間に立ち、調整役を務めるために。
国力の差は圧倒的に帝国の方が上だ。仮に戦が起きれば間違いなく帝国側の圧勝となることは分かり切っている。
だからこそ、王家は帝国との関係において慎重な態度を取らざるを得ないし、帝国皇帝と縁戚関係を築いたカレンデュラ家に頭が上がらない。特に皇帝と同じ血を引くクロエの存在は戦の抑止力ともなる。身分は公爵だが、この国では王族よりも大切で重要な存在。そんな相手に第一王子はとんでもない無礼を働いたのだ。父親である王太子がここまで憔悴するのも無理はない。
「……ああ、こちらも出来る限り誠意を尽くすつもりだ。それとは別に公爵の意向を聞かせよ。そなたは第一王子をいかなる処遇とすべきと考える?」
国王が王族の処遇を一介の貴族に委ねるのは異例だが、それだけクロエの立場と影響力が大きいということでもある。騒動の原因となった王子の処遇を彼女に決めさせることで国王はその機嫌を損ねまいとしているようだった。
「それは陛下の御判断に委ねます。ですが……ひとつだけ叶うなら、側近は全員解雇なさった方がよろしいかと存じます。此度の騒動はあの平民の娘が虚偽の言を王子殿下に吹き込み、殿下がそれを信じられたことに端を発していると聞いております。王子殿下に素性怪しき者を近づけないことが、側近としての重要な役目。それを放棄している時点で側近失格でございます」
「そうだな……。其方の言う通りだ。あの者達には解雇を言い渡そう」
ゲームで側近がヒロインが王子に近づくことを黙認することは最早様式美だが、それはそうしないと物語が進まないから仕方ない。だが、現実は違う。素性怪しき者を王子に近づけては側近としての職務放棄となる。しかも、ゲーム内でのヒロインは公爵令嬢だったが、あのヒロインもどきは平民。平民が王族に近づくなど常識では考えられないことである。あの、レオナルドの娘がどうやって王子に近づいたのかというと、どうやら王子の取り巻きである大商会の子息が手引きしたそうだ。
あの日、捕らえた側近たちや少女を各家に知らせて引き取らせたが、その過程で少女の実母から事情を詳しく聞き取ることができた。少女は、商人である母親とクロエの元婚約者レオナルドの間に生まれた子で間違いない。それなのに、頑なにクロエを”母”と呼び、自分はクロエに捨てられた子だと主張したのは、驚くべきことに父親であるレオナルドが彼女にそう言い聞かせていたため、そのように思い込んでしまったらしい。
なぜ、レオナルドがそんな可笑しな嘘を娘に吹き込んだのかは知らないが、少女の母親の話によると彼は平民に落ちた自分が認められず、徐々に可笑しな言動を繰り返すようになっていたそうだ。
少女の母親が気づいた時には既に娘は実の母を”偽物”だと信じ切っていて、修正がきかなくなってしまったらしい。母親の顔には苦労が刻まれており、娘の無礼を床に額をつけて謝る彼女の姿を見ていたらクロエもそれ以上責める気にもなれなかった。
あの”悪役令嬢”という台詞もレオナルドが娘に吹き込んでいたらしい。
彼の中では、少女はクロエとの間に生まれた娘で、それとは別にカレンデュラ公女としてカレンデュラ家で生活する父親違いの”姉”がいるとも教え込まれたとか。彼が何を思ってそんな嘘を吹き込んだのかはさっぱり分からないが、あの少女がその嘘を信じてヒロイン気取りで王子を誑かしたことは確かだ。信じる王子も大概だが、側近達もおかしいと思わない方が変だ。
(今更になってゲームの”強制力”でも働いたのかしら……)
もはやそうだとしか思えないほど可笑しな事件だ。
王子が平民の娘に唆されて公爵と皇女に無礼を働くなど、物語でしか聞かない話である。現実にそんなことがおきるなんて、誰が予想できただろうか。
諸々の話を終えて謁見の間を後にしたクロエはエーリヒのエスコートを受けつつ、回廊を歩いた。
「エーリヒ、貴方は今回の件についてどう思う?」
クロエが夫にそう問いかけると彼は遠くへと視線をやり、口を開いた。
「個人的には許しがたいですね。クロエが私以外の男の子を成したなど……冗談でも口にしていいことではありません。許されるなら王子もその小娘もまとめて始末してしまいたいくらいです」
怒りを必死に押し殺した夫の声から彼の怒りの深さがはっきりと伝わってきた。
そんな夫の手をそっと握り返し、じっと顔を見つめた。
「わたくしがこの身を許すのは、生涯貴方一人だけよ」
「クロエ……! ええ、もちろん貴女を疑っているわけではありません。ただ、あの王子と小娘の発言が不愉快だというだけです。二度とそんな口を利けぬようにしてやりたい……」
夫の悔しそうな顔を見ると胸が痛む。もちろん、クロエも彼等をこのままで済ますつもりはない。
穏便に、とは言ったが何の報復もしないとは言っていない。王子も、あの少女も、やったことの責任は取ってもらわねば。
あの不可解な言動がゲームの強制力だろうと知ったことではない。
この世界が再び乙女ゲームを始めようとしているのかもしれないが、それは無駄だと思い知らせよう。
物語の幕は上がらない──そう、何度だってこの世界に証明してみせる。
これにて完結です。
ここまで長い物語をお読みくださり、本当にありがとうございました!
最後までお付き合いいただけたこと、とても嬉しく思います。
また次回作もお読みいただけましたら幸いです。




