不意に訪れた現実
カレンデュラ家を出てすぐのこと、リンデン家の騎士により捕獲されたレオナルドはそのまま屋敷へと連行され、今度は物置部屋ではなく地下にある牢へと押し込められた。勝手に抜け出したばかりか、よりもよってカレンデュラ家を訪れたことに夫人の怒りは頂点に達し、凄まじい迫力で責め立てる。烈火のごとき気迫にレオナルドは反論することもできず、ただ大人しく成すがままとなった。
そうして数日が過ぎ、ようやく牢から出された。湯で体の汚れを落とし、清潔な服に着替えてようやくひと息ついたところで今度は夫人の前へと連れて行かれることになる。夫人の彼を見る目は胸が凍りつくほど冷たい。そこには母親としての情など一片もなく、まるで他人か、それ以下を見るような光が宿っていた。
「レオナルド、お前とクロエ様の婚約は解消されました。お前の婿入り先は無くなりましたので、当主交代の時期になりましたら、お前をこの家から除籍します。以降は平民としてお過ごしなさい」
「は…………?」
母の言葉を即座に理解できずレオナルドは唖然と硬直した。しかし夫人はその反応を一瞥することもなく、冷ややかに言葉を続ける。
「住む場所と働く場所は用意してあげるから安心なさい。それと、もう結婚相手をこちらで決めることはしません。好きな相手を妻に迎えるといいわ。よかったわね? 望まない政略結婚をしなくて済んで……」
蔑んだ母の目に、そこでようやく我に返ったレオナルドは慌てた様子で詰め寄る。
「お、お待ちください、母上! 婚約解消とはどういうことですか!? それに……何故、僕が除籍されて平民とならねばならないのです……!」
「あなた、それ本気で言っているの? だったら凄いわね……」
息子の反応に至極呆れた様子を見せる夫人に、レオナルドは困惑しながら尚も詰め寄る。
「納得できません! どうして婚約を解消せねばならないのです!? クロエは僕を愛していたはず……。なのに、こんなのおかしい!」
「……婚約中に不貞を犯していると知って、愛が冷めないとでも?」
「えっ……? な、なぜ、それを母上が知って……」
母がすでにシェリーの存在を知っていたとは思いもせず、レオナルドはあからさまに動揺した。そんな息子に夫人は呆れたようにため息をつく。
「ここ最近のあなたの様子の変化におかしいと思わないわけがないでしょう? ただの町娘に随分と傾倒しているようね? それで、婚約者を蔑ろにして下賤な娘を寵愛する男を愛し続ける稀有な女性なんて、どれくらい存在すると思う? 少なくともクロエ様は“そう”ではなかったということよ。ゲテモノ趣味は父親譲りかしら……なんて情けない」
シェリーのことを愚弄されたことよりも、ゲテモノ趣味と言われたことよりも、クロエが自分を愛していないという事実を突きつけられたことが一番堪えた。何があっても、何をしても、クロエは自分を好きでいてくれるはず――そんな根拠のない自信に満ちていた。レオナルドはそれが理由で婚約を解消されたと知っても、とうてい現実を受け入れられなかった。
「そんな……貴族なら愛人の一人や二人いてもおかしくないではありませんか! そのくらいで婚約解消するなんて納得できません!」
「……あなたの立場でそれが許されるはずがないと、何故分からないの? こちらはお願いして婿入りさせてもらう立場なのよ? 丁重に扱わねばならないのに、そこまで蔑ろにして何故見放されないと思ったの? クロエ様は別にあなたでなくともいいのだと、何故分からないの?」
それを言われた途端、頭を殴られたような衝撃がレオナルドに走る。よくよく考えれば分かることだった。いや、レオナルド自身も婚約当初はよく分かっていたことだった。それなのに何故か今の今までそれを自覚していなかったのだ。
「あ…………」
不意に、頭を覆っていた靄が晴れたような不思議な感覚に襲われた。視界が開け、現実がはっきり見えた気がした瞬間、レオナルドの胸に湧き上がったのは激しい後悔だった。
不可解なことに、レオナルドは今になって初めて自らの言動の異常さを認識した。
それ以前はそれが当然の振る舞いであり、正当な判断だと信じて疑わなかったのである。
何故かは分からない。だが、何の根拠もなくそうすることが正しいと思い込んでいた。
母や兄から幾度となく諫められてきたはずなのに、その声は彼の心には届かなかった。
むしろ自分ではなく彼らの判断が誤っているのだとさえ考えていたのである。
(どうして、僕はこんな可笑しなことを正しいと信じ込んでいた? 婚約中に不貞を犯すような男を婿に迎えたいと思う家など、常識で考えてあるわけないじゃないか……! おまけに夜会前にドレスを贈るという基本的なこともせず、あろうことかゴミ同然のガラクタまで贈りつけて……)
カレンデュラ家とリンデン家の家格の差はもちろんのこと、こちらはお情けで婚約してもらっている立場だ。その恩義を忘れてクロエを蔑ろにし、無礼な態度をとっていれば婚約が無くなるのも当然である。
どうしてそんな単純なことすら見失っていたのか。
そんな自分を思うと恥など通り越してむしろ背筋が寒くなるほど気味が悪かった。
(おまけに結婚後にクロエを病死に見せかけて始末しようと考えていたなんて……正気の沙汰じゃない。入り婿の自分が、妻が亡くなったとはいえ後添えをカレンデュラ家に迎え入れるなんて出来るわけないじゃないか! しかも……平民のシェリーを。貴族と平民の婚姻は法で禁じられているのに、何故それが可能だと思っていた? 妻の殺害といい、お家乗っ取りといい、とんでもない重罪だぞ……。発覚すれば死罪は免れないのに、どうして平然とそれを行おうとしていたんだ……)
こんなことを何の罪悪感もなく行おうとしていた自分が恐ろしく思えた。
貴族の身分と特権を享受したまま愛する女性と夫婦になりたい。そんな傲慢な欲望を叶える為だけに、何の罪も無いクロエを犠牲にする計画を企てた過去の自分が悍ましく思えてならない。
(というか、そもそも僕はどうやってこんな荒唐無稽な計画を思いついた? こんな常識では思いつかないほどの馬鹿げた計画を、どうして実行しようと考えた?)
こんな荒唐無稽で馬鹿げた案を自分が考え付くとは到底思えない。
そうして記憶を辿っていくうちに思い出した。――そうだ、これはシェリーから聞いた物語の一節ではなかったか。
(そうだ……シェリーが話してくれた、とある恋愛物語の一節。貴族の父と平民の母から生まれた庶子が、貴族令嬢となって王子と結ばれるという物語。その父親が恋人とその庶子を屋敷に迎え入れる為に、妻を病気に見せかけて殺害したという設定。犯罪じゃないかと引いたものだが、シェリーは庶子であるヒロインが貴族となる為に必要なことだと熱弁していたな……。ヒロインが貴族令嬢にならないと、物語の幕も上がらない、と……)
それを思いだした瞬間、背筋がゾクリと震えた。その父親の行動を有り得ないと引いていたのに、いつしか自分もシェリーと結ばれる為に同じことをしようとしていた。不思議と何の疑問を抱くことなく、まるで自分が思いついたかのように錯覚し、シェリーに「いつか必ず君を妻に迎える」などと言って。
まるで何らかの意思に誘導されるかのように、自分もその物語の父親と同じ行動をとろうとしていたと気づき、愕然とした。その瞬間まで胸を支配していた熱がスッと消え、シェリーへの気持ちも同じようにふっと冷めていく。
(あれ……? 僕はどうして、あんな下賤な女を好いていたのだろう……)
他人の目も気にならないほど溺愛していたシェリーのことが、何故か急にその価値がないほどつまらない女に思えてきた。下賤な身分の、無教養で我儘で下品な女にあれほどまで夢中だったか、自分でも理解できない。そのせいで全てを失ったことが耐えられず、レオナルドは顔面蒼白のままその場に崩れ落ちた。
(い……嫌だ! あんな女のせいで貴族の身分を失い、平民として生きるなんて耐えられない! どうして僕がそんな惨めな人生を歩まなければならないんだ……。女で落ちぶれた父上だって貴族の身分を失っていないのに、どうして僕だけがこんな目に……!)
この時、レオナルドの頭にあったのは、どうにかしてクロエに許してもらわなくてはという浅はかな考えだった。
既にシェリーのことなど頭になく、彼女が行方不明になっていることもどうでもよかった。そんなことよりも、今後の自分の立場の方がよほど大切だから。
「母上……せめて、一度だけでもクロエに会うことは叶いませんか? これまでの数々の非礼を直接謝罪したいのです……」
殊勝な態度で請うと、夫人はその姿を受け止めるように視線を向け、静かに口を開いた。
「……いいでしょう。クロエ様もあなたが一度謝罪したいと言うのであれば、会ってくださるとおっしゃっておりましたし……」
その言葉にレオナルドは密かに拳をグッと握った。彼は浅はかにも、誠心誠意謝罪すればクロエとやり直せると信じていた。それまでシェリーに盲目だった彼は気づいていない。クロエが彼にどれだけの怒りを溜めているのかを……。




