事実か、それとも憶測なのか
「どうして……どうしてあの人が……!」
その問いの答えはどこにもない。あるのはただ一つ、どうにかしなければ『クロエは殺され、遺された娘が酷い目に遭わされる』という未来が待っているということ。
「……冷静になるのよ、クロエ。そうよ、お母様だって言っていたじゃない……。『事実と憶測を混同せず、見極めることが大切よ』と……」
クロエは自分の腕を強く抱きしめ、震える心を押さえ込むようにして深く息を吐き、亡くなった母の言葉を頭に思い浮かべた。帝国の皇女であった母は理知に富み、常に冷静沈着な人であった。クロエが噂に振り回されそうになったとき、そう言って落ち着かせてくれたのを覚えている。
そうだ。ここで取り乱していても何も変わらない。
まだこの未来が真実だと決まったわけじゃない
そもそも、ゲームだからこそ許される展開が実際に起こるだなんて、あまりにも非現実的過ぎる。
「……もしかしたら、これはただの妄想かもしれない」
ふと、鏡に映った自分と目が合う。
そこには確かにゲームのキャラクター、悪役令嬢の母親『クロエ』の顔があった。
でも、それでも――確証がない。
「まずは……確かめなきゃ。この記憶にある展開が事実となるのか、それとも杞憂で終わるのか。でも、何を確かめたらいいの……?」
恐れている出来事は数年後、二十五歳のクロエに起こる出来事だ。
今この時点で未来にそれが実際に起こるかどうかなど分かるはずがないし、確かめようもない。
ただ、ここで「確証もない未来に怯えていてもしょうがない」と楽観的になることは悪手だ。
何も出来ないし……と呑気に構えていては、最悪死ぬかもしれない。
なにか……今の時点で分かりそうなことは……
「あ……そうよ、ヒロインの母親! たしか……名前は『シェリー』で、街のパン屋に勤めていたはず……。その女が本当に存在するのかと、現時点でレオナルド様と恋仲になっているかなら調べられるはず」
頭を抱えていた手を下ろし、クロエは急いで立ち上がった。
震える膝を押さえつけるようにして背筋を伸ばし、深呼吸をする。
「まずは情報を集めないと……。そうしているうちに段々と分かってくるはず。本当にこの世界があの乙女ゲームの世界かどうかが……」
目に浮かんだ涙をぬぐい、クロエの体に気力が満ちた。
もし、本当にあの未来が現実になるのなら――何としてでも運命を変えてみせる。
それが杞憂であってほしい。けれど、もし現実なら黙って死を待つなどまっぴらだ。
決意したクロエは窓辺の厚いカーテンを閉め、部屋の扉に鍵をかける。誰にも気取られぬよう慎重に。
そして、壁際の燭台をひとつ持ち上げると――カチリと微かな音を立てて、壁の一部がわずかに開いた。
その先にあるのはカレンデュラ家の裏を支える影――密偵の一族への連絡手段。
「エーリヒ。出てきなさい」
囁くような声に空間がわずかに揺れたかと思うと、黒衣の男が空いた壁の隙間から音もなく現れる。
影のように沈んだ装束、顔の半分を覆う仮面。クロエ専属の密偵、エーリヒである。
「ご命令を、御主人様」
「……リンデン公爵令息レオナルド様の行動を極秘裏に調べてほしいの。屋敷での様子、彼の交友関係……すべて細かく。些細なことでも漏らさず報告して」
一瞬の沈黙。エーリヒの目が細くなり、問いかけた。
「婚約者様を、ですか。……警戒の理由は?」
「理由は問わないで。まだ“確信”はないわ」
彼の優しさが偽りだったとすれば。
妻を毒殺し、娘を虐げる未来が現実になるのだとしたら。
そうなる前に、手を打たなければならない。
「探ってほしいのは”事実”だけ。ああ、それと……秘密裏に女性と接触しているようなら、その女性の詳細も調査して報告してちょうだい」
「御命令、承りました。主君の御意を遂げるため尽力いたします」
言葉が終わると同時にエーリヒの姿はすでに闇へと消えていた。まるで最初からそこにいなかったかのように。
クロエはふっと息をつき、椅子に身を沈めた。
背筋を支えていた力が抜けて体が重くなる。
「お願い……どうか、全部……杞憂であって……」
けれど、彼女の胸にはもう迷いはなかった。
真実を知るまでは、何があっても止まらない。
たとえそれが、婚約者の優しい微笑みの裏に隠された、残酷な真実だったとしても――。
それから数日が経ち、クロエは自室の窓辺に立ち、カーテンの隙間から雨粒を見つめていた。
灰色の雲が空を覆い、屋敷の庭は黒く沈んでいる。時計の針が深夜を指し示すころ――
「……御主人様」
その声は、空気を割るように静かに届いた。
「ただいま戻りました。御下命の件、滞りなく遂行いたしましたこと、謹んでご報告申し上げます」
振り返るとそこには黒衣の男――密偵エーリヒが静かに膝をおり、首を垂れている。
雨粒ひとつついていないその姿は、まるで影そのもののようだ。
クロエは軽く顎を引き、小さく頷いた。
「……報告を」
エーリヒは革の手帳を広げ、淡々と報告を始める。
「リンデン公爵邸にて数日監視を行いました。婚約者様は日中、婿入りの為の教育を受けられた後、毎日のように市井に足を運んでおられました」
その瞬間、クロエの眉がぴくりと動いた。
「市井に毎日……?」
「はい……。市井のとあるパン屋に、毎日のように」
「……ッ‼」
息が詰まりそうになる。
そんなクロエの様子にエーリヒは続けて報告をすることをためらってしまった。
「いいわ、続けてちょうだい……」
「御主人様……はい、仰せのままに。そのパン屋で働く娘、名を『シェリー』というのですが……婚約者様は、その……この娘と寄り添いながら店を出て、そのまま彼女の家に……」
クロエは静かに目を閉じ、唇を引き結び歯を食いしばった。
「……そう、レオナルド様とその娘は恋仲ということ?」
「……はい。そのようでございます」
覚悟はしていた。しかしその言葉を耳にした瞬間、胸の奥で何かがひどく軋んだ。
頭ではそうじゃないかと思っていたけれど、だけど認めたくなかった。ただの杞憂であってほしかった。
不思議と涙は出ない。ただ、冷たくなった体の芯にぽっかりと穴が開いたような空虚さに包まれる。
クロエの痛ましい表情にエーリヒは胸を痛めながら視線を向ける。言葉を絞り出すように報告の続きを告げた。
「……また、もう一つ気になる点が。婚約者様の従者が薬草商と頻繁に接触しています。
記録には残っておりませんが、屋敷内に当主の許可を得ていない薬品の持ち込みがあった可能性がございます」
「許可を得ていない薬品って……まさか、毒?」
相次ぐ衝撃的な報告にクロエは言葉を奪われた。
『シェリー』という名の恋人、そして『毒』。あまりにもゲームのシナリオ通りの展開に頭が真っ白になる。
「断定はできません。けれど通常では必要のない取引です。少なくとも、日常で使うようなものではないかと」
クロエは爪が食い込むくらい強く拳を握った。
優しい笑顔の裏で、密かに“準備”が進められている――
まだ決定的ではない。だが、火種は確かに存在する。そのことに無性に怒りが湧いた。
「……よくやってくれたわ、エーリヒ。今後も引き続き監視を。毒について詳細が分かればすぐに報告して。それと、その市井の娘についてもう少し詳しく調査を」
「かしこまりました」
「エーリヒ……わたくしにとって、お前ほど頼れる者は他に存在しなくてよ。……お前の働き、わたくしは深く感謝しております」
「もったいなきお言葉……その御信頼に報いられますよう、今後とも命を懸けて務める所存にございます」
影の男は再び姿を消した。部屋の中にはクロエの息遣いだけが残る。
「ゲームのシナリオが……本当に動き出している」
ありえないと思っていたことがにわかに現実味を帯びはじめ、クロエの顔から静かに血の気が引いていった。




