予想を越えた展開
昼下がりの陽がサロンに金色の揺らめきを落としていた。クロエは淡い琥珀色の紅茶を口に運びながら、その香りを楽しんでいる。銀のティースプーンがソーサーに触れたその瞬間、クロエは顔を上げる。
「……入って」
扉がきしむこともなく滑らかに開き、影のように軽やかな足取りでひとりの男が現れた。
黒い外套に身を包んだエーリヒである。彼は恭しく礼を取り、低く囁くように短い言葉を落とした。
「御主人様、リンデン家で動きがございました」
「そう。聞かせてちょうだい」
クロエは紅茶のカップをソーサーへと戻し、エーリヒの方へと顔を向けた。
「はい。まず、婚約者様の愛人シェリーの存在をご一家が知ったようです」
「え……? ……むしろ今まで知らなかったの?」
「ええ、そのようですね」
意外な事実にクロエは少し驚いてしまった。同じ家の者ならば気づきそうなものだが……。
「おそらく従者が意図的に存在を隠していたのかと。今回の発覚も、その従者への尋問によって判明したようですし」
「へえ……あの従者が」
レオナルドの従者は確か名前をトマスと言っただろうか。取り立てて変わったことのない人物で、言葉を交わした覚えも無いのであまり記憶にない。
「……主人に素性も分からない人物を近づけている時点で、従者としてあまり優秀とはいえないわね。おまけに、家の存続がかかった婚約をしていると知っていながら愛人を黙認するなんて、仕える家に対する裏切りだわ」
「おっしゃる通りです。大切な婚約を控えた主人を悪い虫から守れぬなど従者としては失格にございます。この裏切りに夫人も小公爵も非常にお怒りのようで、近いうちにこの従者は身一つでリンデン家を放逐されることになりそうですね」
「……それは、当然そうなるわよね」
使用人が仕えるのは個人ではなく家である。ゆえに、家に不利益をもたらすような行動を取る者をそのまま雇い置く家など、極めて稀であろう。このトマスという従者は自身が解雇されたとしてもレオナルドの恋を守りたかったのか。それともそうなるとは予想していなかったのか。普通ならば分かるものなので後者だとは考えにくいが……あのレオナルドの従者ならばそれも有り得るかもしれない。
「それで、小公爵が愛人に接触したようなのですが……」
そこまで言うとエーリヒは戸惑ったように表情を曇らせ、言葉を詰まらせる。それを見てクロエはごくりと息を呑んだ。
(その表情……まさか、小公爵がシェリーを見初めてしまったんじゃ……)
ヒロインの母親ということもあり、シェリーにも男性を魅了する何かがあるのかもしれない。
そんな想像を巡らせたクロエは、エーリヒの次の言葉を神妙な面持ちで待ち構えた。
「愛人と直接話した結果、婚約者様がリンデン家の家督を狙っていたことが発覚したようです」
「……はい?」
予想とは斜め上どころか遥かそれを飛び越えた回答にクロエは理解するのに時間を要した。
「…………ん? え? レオナルド様が、リンデン家の家督を……?」
へえ、自分の家の家督を狙っていたのかー。……と納得しかけたが、彼が狙っているのはこのカレンデュラ家ではなかったかと思い直す。だから一瞬聞き間違いかと思ったクロエは「カレンデュラ家ではなくて?」と尋ねると、エーリヒは首を振って「いえ、リンデン家です」と答えた。
「ええ? どうしてそんな話になるの……?」
小公爵までもがシェリーを見初めておかしな三角関係になるよりは断然いいのだが、なんでそんな話になっているのか分からない。
協力者であるレストランの店主の妻から得た情報によると、レオナルドがカレンデュラ家に婿入りした後にシェリーを迎えると発言していたことは間違いない。そうなると、狙っているのはカレンデュラ家の家督のはず。それがどうしてリンデン家の家督を狙っているという話になるのか。
「どうやら愛人の話を聞いているうちに、そういう結論に至ったようで……」
「ええ……一体何を話したのかしら。 でも、シェリーはレオナルド様から我が家に婿入り後に迎えに行くようなことを聞かされていたはずよ」
「はい、私が調査した限りでも、婚約者様が自分の家を継ごうと企んでいるといった情報はひとつもありませんでした。何がどうなってそういう結論に至ったのかは不明でございます。愛人は婚約者様がカレンデュラ家に婿入りする予定にあることを知っているはずですし……」
訳の分からない話にエーリヒも不思議そうに首を傾げていた。
「いずれにせよ、ご主人様に悪い影響は出ないかと思われます。些細な情報も漏らさずお伝えしたかったので」
「ありがとう、エーリヒ」
おそらくは小公爵の誤解なのだろう。レオナルドは自分の家よりも婿入り先の家督の方を奪う気満々なのだから。
(…………ん?)
「御主人様? どうされましたか?」
ふと胸に浮かんだ疑念にクロエは訝しげに眉を寄せた。
「いえ……なんでもないわ。報告、ご苦労様。下がってよくてよ」
「はい。それでは御前を失礼いたします」
音もなくエーリヒが立ち去った後、クロエはひとり思案に耽る。
(その状況下で、レオナルドの自室にある毒物が見つかれば……かなりの騒動になりそうね)
結婚後にクロエに使う予定の毒物だが、家督を奪われると疑心暗鬼になっている小公爵がそれを見つけたなら、自分を殺す気だと勘違いしてしまってもおかしくない。そもそもクロエに使う、というのもゲームの知識だからレオナルドの真の目的は不明だが──多分それで間違いないと思う。クロエがこの世からいなくならない限りは、愛しいシェリーを後添えに迎えることは不可能なのだから。
人の心に一度芽生えた疑念というものは、なかなか消えないもの。相手の言動全てをそれに結びつけてしまう。
今の小公爵はレオナルドの言動すべてをを家督簒奪の企みと見なすだろう。
そんな時に彼の自室にある毒物を見つけてしまったら──
「……大変なことになりそうね」
クロエはまるで他人事のような口調で呟くと、紅茶をゆっくりと飲み干した。




