シェリー
パン屋から出て自宅に戻ったシェリーは外出着のまま寝室へと直行した。
部屋着に着替えることもせず、そのまま寝台へと体を沈める。
「は~……疲れた。てか、レオのお兄さん話長い! 顔はレオに似てイケメンなのに、中身は真面目でつまんないわー。身分が釣り合わないから別れろって、いい年した弟の恋愛に首突っ込むとかないわー」
先ほど、馬車の中でレオナルドの兄に「弟と別れろ」と言われたシェリーだったが、聞く気は毛頭なかった。
平民が貴族から命令されたのなら大抵は怯えて言う事を聞くものなのだが、シェリーはそんな感情すら抱かない。
それはレオナルドを愛しているから、というものではなく、彼女は二人の恋がこの世界に望まれていると信じ込んでいるからだ。
「モブのくせに偉そうにしちゃってさ、私の娘が王妃になったら覚えてなさいよ! 国外追放にしてやるんだから!」
香ばしい発言を寝台でひとり叫ぶシェリー。
この世界に存在しない単語を紡ぐ彼女はクロエと同じ”転生者”である。転んで頭を打ったことがきっかけで前世の記憶が蘇り、この世界が”乙女ゲーム”の舞台であると知った。
「身分差とかそんなの私には関係ないのよ。だって、私こそがヒロインの母親よ? 私とレオが結ばれなきゃヒロインは産まれないの! ヒロインがいなきゃゲームはスタートしないのよ。だから、私達が結ばれることは正しいことなの!」
シェリーはこの世界が乙女ゲームのシナリオ通りに進むと信じて疑っていない。
ヒロインがゲームの設定どおりにシェリーとレオナルドの間に生まれ、カレンデュラ家の令嬢となり、攻略対象達と出会っていく。それは何があっても変わらない運命だと信じている。その証拠に彼女は運命の相手であるレオナルドに出会った。貴族が絶対に訪れることはないであろう市井のパン屋で。互いに一目で恋に落ちた瞬間、シェリーはこの世界はやはり乙女ゲームの世界なのだと確信した。
「この後、何年も平民の暮らしをしなきゃいけないってのはかったるいけどね……。はあ~……早く大きなお屋敷に住みたいな。そんで召使いに身の回りのこと何でもしてもらいたい。家事も炊事もダルくてやってらんないわ~」
前世の記憶を取り戻してからというもの、それまでの真面目で働き者だったシェリーは不真面目で怠惰な性格となった。まるでそれまでの”シェリー”が”前世の人格”に上書きされてしまったかのように。
パン屋の女将もそうだが、それまでのシェリーを知る者であれば皆口をそろえて「人が変わった」と言うであろうほど、彼女は変わってしまった。
それは、何もしなくともレオナルドの庇護の元に楽な暮らしが出来ると知ってしまったからだ。
レオナルドさえいれば将来は安泰なのだから、真面目に努力する必要性などどこにもない。ついでに言えば自分やレオナルド以外の人間はゲームに必要ない存在なのだから、たとえどれだけ身分が上だろうと恐れる必要はないと思っている。
だって、ヒロインの母である自分と父であるレオナルド以上に世界が必要としている存在などいないから。
世界に優先されるべきは、メインキャラである自分達なのだから、”モブ”に害されることなど有り得ない。そんな、何の根拠もない妄想を信じて疑わない。
同じ転生者であるクロエと違うのは、自分の置かれた状況や立場を顧みずに思い込みだけで動いていること。
その結果、自分は絶対に安全だという根拠のない自信のもと、その妄想がどれだけ危険な思想であるかも理解せず、よりもよってリンデン家の嫡男という権力を有した相手に語ってしまった。
平民の自分が公爵夫人となり、次男であるレオナルドが公爵となる。これが嫡男から家督を奪う簒奪を企てている発言に成り得ると、前世を思い出す前のシェリーならば気づいていた。それが、自分とレオナルドにどんな結果をもたらすのかも。
そして、平民である自分が産んだ娘が王太子の妃になる。これが王家へのとんでもない不敬にあたるとは、今のシェリーは全く分かっていない。平民の血が混じった娘を宛がうことなど、選民思想の強い王族にとってはかなりの侮辱にあたる。それは言外に「お前の相手など平民で十分だ」と蔑んでいるも同然の行為。
すでに王太子の不興を買っているリンデン家は、これ以上の不敬は許されぬと慎重になっていた。
そんな状況下で、無礼を企む者たちを野放しにしておくはずがない。
シェリーは自分が知らぬ間に、破滅へと続く道を踏み出していることにこの時点ではまったく気づいていなかった。




