自覚と後悔
それからどれほどの時が流れたのか。おそらく一時間ほどだったに違いない。だが、トマスにとっては永遠にも思えるほど長い時間だった。扉の外から足音が近づき、次いでギイッと鈍い音を立てて扉が開かれる。
「待たせたな、トマス」
入って来たのはレオナルドの兄であるこの家の嫡男と、その従者が一人。従者の手には棍棒が握られている。
(な、なんだ、それは……⁉)
棍棒を目にしたトマスは驚愕のあまり目を大きく見開いた。何故そんな物を携えてきたのかと思った瞬間、最悪の想像が頭に浮かぶ。
(それで俺をどうする気だ⁉)
暴力とは無縁の世界で生きてきたトマスにとって、その行為は恐怖でしかなかった。
嫡男はトマスの考えを手に取るように見抜き、唇の端をゆるやかに吊り上げる。
「お前の考えている通りさ。どうしても答えない場合は、これで打つ」
平然と恐ろしい言葉を告げた嫡男に、トマスは床に転がったままビクリと体を震わせた。
止めるよう言おうとしても、猿轡のせいで上手く言葉が紡げない。
「ああ、そのままでは話せないか。おい、猿轡を解いてやれ」
従者にそう命じると、彼は「畏まりました」と礼をし、それを解くためにトマスの傍へと行って膝をついた。
「……トマス、さっさと話した方が身の為だぞ。若様はレオナルド様と違って甘くはない」
ぼそりと従者がトマスの耳元で呟くと、トマスは顔面蒼白となった。そして猿轡が外された瞬間、嫡男に向かって慈悲を請う。
「お許し下さい、若様! 私は何も知らないんです! 隠していることもございません! 信じて下さい!」
トマスの必死の叫びに嫡男は顔色ひとつ変えず、従者に話しかけた。
「な? 分かりやすいだろう? 嘘がすぐに顔に出るんだよ」
「本当でございますね。こんなにも表情に出してしまう者がレオナルド様の従者を務めていたとは……情けのうございます」
二人の会話にトマスは愕然とした。嘘が顔に出ている、と言われて思わず顔を伏せる。
その態度が余計に嘘をついているという証明になるというのに。
「お前は分かりやすいな。口では嘘をついても、顔には真実が現れる。それで? いるのだろう、レオナルドを誑かし、人格を変えてしまった悪魔のような存在が……」
地を這うような低い声音がトマスの頭上に降り注ぐ。彼の頭の中は混乱状態で、どうやってこの場を切り抜けたらいいのかと焦るあまりに余計なことを口走る。
「いいえ! 違います! シェリー様はそのような方では……」
「……シェリー? ……そうか、そいつがレオナルドを誑かして人格まで変えてしまった元凶か」
トマスは咄嗟に口を結んだが、出してしまった言葉は戻らないし、聞かなかったことにもならない。
嫡男はその場にしゃがみ込み、トマスと目線を合わせて話し始めた。
「そいつについて洗いざらい喋ってもらうぞ。まず、そいつは何処の誰だ?」
「お、お許しを……! お許しください、若様……!」
「……困ったな。まだ自分の立場を分かっていないようだ。喋らないなら、喋りたくなるようにするまでだぞ? なあ?」
振り向いて従者に同意を求めると、彼は「その通りでございます」と頷く。
「言っておくが、コレで打たれたらかなりの重傷になるぞ。そしてそのまま手当てもせずに放置すれば、最悪死ぬかもしれんな? 知っているか、高位貴族が使用人を無礼討ちして死なせたとしても罪にはならん。……お前は、こんなことで今世に終わりを告げたいか?」
恐ろしいことを囁かれ、トマスはそこで初めて自分が置かれている状況がどれだけ危険なのかを悟る。
自分を見下ろす二人の目は本気だった。そこには冗談やハッタリなどは一切感じられない。
「お許しを……! どうか、お慈悲を……若様……!」
「慈悲をかけてほしくば、私の質問に嘘偽りなく答えることだな。そのシェリーという者は何処の誰だ? 答えろ、トマス」
再度質問され、トマスは答えるべきかどうかを混乱する頭で考えだした。
言ってしまえば、主人は最愛の恋人と引き裂かれてしまい、ひどく悲しむことになる。
だが、このまま黙秘を続ければ自分の命が危ない。時間にしてわずか数秒だが、トマスは自問自答を繰り返した結果、話すという選択肢をとった。
「シェリー様は……レオナルド様が懇意にされている方です」
「それは分かった。聞きたいのは何処の令嬢だということだ」
「い、いえ……シェリー様は、貴族のご令嬢ではなく……市井の娘でして……」
「……なんだと?」
トマスの発言に嫡男のこめかみが不快げにぴくりと跳ねた。
「平民だと……? 何故、弟が平民と懇意にしている? 答えろ、トマス」
弟が懇意にしている相手が平民だと知るや否や、急に語気を荒くする嫡男。トマスはその迫力に恐れ、しどろもどろになりながらも話し出す。
「えっと、それは……街を散策していたレオナルド様がパン屋で働くシェリー様を偶然見かけ、その可憐さに惹かれて声をかけました。そして、それがきっかけでお二人は恋仲に……」
「は? 恋仲だと……? トマス、お前はどうして主人が平民と恋仲になるのを黙って見ていた?」
「え? いえ、それは……」
主人に想う相手が出来たことが単純に嬉しかったから。というのが本音だが、それを言ったら間違いなく怒られてしまう。嫡男の従者なんかはこちらを射殺さんばかりの鋭い目で見ているし、手に持った棍棒を構えている。主の命令があればすぐにでもそれをトマスに振り下ろすことは想像に難くない。
「……呆れたな。これでは何のために従者をつけているのか分からん。主人に下賤な者が近づかぬよう阻止するのがお前の役目だろう? 仕える家の者に職務放棄を堂々と話すお前の神経が理解できん」
「い、いえ! 職務放棄などとはとんでもない! 怪しい人物が近づかないようにきちんと注意して……」
「してないだろう? 公爵家の子息に得体の知れない平民の娘を近づけるなど、言語道断だ」
「いえ、シェリー様は決して怪しい方ではありません!」
「お前は何故、平民の娘に敬称をつけている? お前は貴族だろう? 貴族が平民に敬称をつけるなど……お前には貴族としての矜持がないのか?」
もうこの時点で嫡男のトマスにおける評価は地の底に落ちていた。
身分制度が絶対のこの国において平民が貴族の上に立つなどあってはならない。それを許せば身分制度そのものが崩壊するからだ。貴族は平民を支配する立場だと区別することにより反乱が起きにくくなる。だからこそ、トマスが平民の娘に敬称をつけてへりくだっている様が嫡男には到底理解できなかった。特権階級を何だと思っているのか、と詰め寄るとトマスはしどろもどろになりながらも反論する。
「いえ、ですが……レオナルド様の想い人ですし……」
「だから何だ? どれだけ愛し合おうとも平民は貴族の妻になれぬ。だから立場も身分も変わらぬままだ。貴族のお前が平民にへりくだっているという事実は変わらない。……これが異常なことだと自覚のないお前達はどうかしている」
誇り高いリンデン家の子息とその従者が、平民をまるで貴族の令嬢のごとく扱っている。
それは嫡男にとってなんとも許しがたい行為であった。貴族の最高峰の身分である公爵家の一員が、最下層の身分である平民に恭順しているなど頭がおかしいと思える所業。とてもじゃないが、このまま放っておくわけにはいかなかった。
「お前もレオナルドもどうかしている……。下賤な女に誑かされおって……情けない」
蔑んだ目で見下ろす嫡男に何か言おうとしても、隣の従者が手に持った棍棒を鳴らして威嚇してくるので何も言えない。その従者もまるで汚らわしい者を見るような目でトマスに向けていた。
「……とにかく、その娘についての詳細を全て教えろ。外見の特徴、住まい、そして勤め先もだ」
「そ、それは……お聞きしてどうなさるおつもりですか?」
「お前こそ、それを聞いてどうする? まさかと思うが口出しするつもりじゃないだろうな? この家の次期当主であるこの私の行動に……いち使用人のお前が口を挟めると思っているのか?」
鋭い目で睨みつけると、トマスは小声で「申し訳ございません……」と呟く。
「ですが……シェリー様、い、いえ……その女性に何かありますと、レオナルド様が悲しみます……」
「だから何だ? 愚弟が悲しもうとどうでもいい。リンデン家を守ること以上に大切なものなどない。お前達のくだらんお遊戯に付き合っている暇などない」
「そんな……若様は弟君が大切ではないのですか……!?」
「この期に及んでそのような戯言を吐けることが驚きだ。愚弟の気持ちよりもお前は自分のことを心配したらどうだ?」
「え……? どういうことですか?」
「……本気で分からないのか? 呆れた奴だ。仕える家を裏切った使用人が、何のお咎めもなしにそのまま勤め続けられると思うなよ」
怒気のこもった声で告げられ、トマスはヒュッと喉を鳴らして身をすくめた。
「え、そ、そんな……。だって、私はレオナルド様の従者で……」
「愚弟の従者を誰にするかの決定権は母上にある。主人が下賤な女に誑かされるのを黙認していた裏切り者を、あの母上がそのままにしておくと思うか? 解雇は勿論のこと、裏切りの代償として百叩きかお前の実家を潰すか……そのくらいはなさるだろうよ」
「……ッ‼ そ、そんな……! どうして家族まで……?」
「それが貴族というものだ。一人の過ちが家に影響する。ゆえに、言動には細心の注意を払う。……こんなことは貴族ならば誰もが理解していることだ。平民の女に感化されて、貴族の常識まで忘れたのか?」
嫡男に指摘されたことでトマスは頭を強く打たれたような衝撃を覚えた。
自分が正しいと信じていた行動が、何の罪もない家族を破滅させる結果を招いてしまった。
今更になってそれを自覚したトマスの顔から血の気が引いていく。
「あ、あ……私は……」
家族の顔が脳裏に浮かび、トマスの胸に怒涛のような後悔が押し寄せる。
公爵家の令息の従者に選ばれたことを大層喜んでくれた両親は彼に「誠心誠意仕えなさい。決して裏切ることのないように」と言い聞かせたうえで送り出してくれた。それは主人であるレオナルドに対しては勿論のこと、リンデン公爵家に対してもだ。主人を第一に考え、リンデン家のことなど一切考えなかった行為は裏切りも同然。いつの間にか、仕える家への忠義を捨てていた。
そんな使用人、罰せられて当然だと今更ながら理解する。そして、貴族の立場にある以上、家族も連座となるのはおかしくない。そんな当たり前のことを忘れていた自分にゾッとした。
「若様! 悪いのは全て私です! ですからどうか、家族にはお慈悲をお与えください……!」
家族を引き合いに出されて目が覚めたトマスは必死に許しを請う。
しかし嫡男には「それは母上がお決めになることだ」とすげなくあしらわれ、絶望に顔を青く染めるのだった。




