レオナルドの変わりように嘆く母と兄
カレンデュラ公爵が帰った後、リンデン公爵夫人はソファに身を沈め、絹のハンカチを握り締めたまま、嗚咽を押し殺せずにいた。震える肩を覆う薄手のショールが、零れる涙に濡れる。
重く垂れたカーテンの隙間から陽の光が細い糸のように差し込んでいた。部屋の空気は沈黙と涙の湿り気を帯び、香炉に残る香の煙が儚く揺れている。
「あの子は……なぜ、あんなにも愚かになってしまったの……」
その声は壊れかけた楽器のように掠れている。
帰宅早々、執事に詳細を聞いた長男は夫人の傍らに静かに膝をついた。
「母上……」
長男は母親に慰めの言葉をかけようとしたが、上手く言葉が出てこない。
彼もまた、弟の言動を理解出来ずにいたからだ。
「もう、お終いよ……。この婚約だけが、我が家の権威を回復させる唯一の手段なのに……公爵様にまで呆れられてしまったわ」
夫人は涙を溢れさせると、その場に泣き崩れた。そんな夫人の傍で長男は弟の信じがたい言動に頭を抱える。
「婚約者を蔑ろにするばかりか、その父親にまで婚約を望まなかったと発言するとは……あいつは頭がおかしくなってしまったのか? 昔はそんな奴じゃなかったのに……」
彼が知る限りのレオナルドはそんな愚かな男では決してなかった。どちらかといえば優秀な方で、紳士としての立ち振る舞いも完璧だったはず。それがいったいどうしてこんな風に男としても人としても最低な部類にまで堕ちてしまったのか。
「母上、こうなればすぐにでもレオナルドを当家から除籍し、親類から養子をとって婚約者の挿げ替えを致しましょう」
ここまでやらかした弟にまだ何かを期待するより、早々に別の者を養子にして新たなクロエの婚約者とした方が早い。そう提案する長男だったが、夫人は力なく頭を横に振った。
「……そうまでして当家と婚約を結ぶ利益はあちらにはないわ。それに、ここまでやらかした者の血縁者と婚約したいと思う?」
その質問に、長男は頷くことが出来なかった。確かにそうまでしてカレンデュラ家がリンデン家と縁を結ぶ利益はない。それより他家のまともな子息と婚約を結ぶ方がよほど有益だ。
一体なぜこんなことになってしまったのか……と、長男は頭を悩ませた。レオナルドが婚約を結んだ時には何の不安も懸念もなかったのに。それどころか弟ならばきっと婚約者を大切にするだろう、という信頼すらあった。少なくとも婚約者を蔑ろにするなど想像すらしていなかったのだ。
「あいつがこんな奴だと分かっていれば、婚約させなかったのに……」
後悔の言葉をぽつりと呟く長男に、夫人は涙を拭きながら答えた。
「……きっと、わたくしの育て方が悪かったのだわ。自分ではそのつもりはなくとも、甘やかしてしまっていたのよ。そうでなければ、あんな非常識で幼稚な子に育つわけがないわ……」
「いいえ! そんなことはありません。母上は私にも弟にも貴族としての責務がなんたるか、誇りとはなんたるかを厳しく指導してくださったではありませんか……」
母は兄弟のどちらかを差別することなく、無駄に甘やかすことなく、厳しく貴族としての責務を説いてくれた。
実際、レオナルドは貴族の子息として申し分なかったはずだ。礼儀正しく、賢かった。なのに、今の弟はまるで知性をどこかに置き忘れたかのよう。そんな頭の悪い言動をする奴では決してなかったはずなのに……。
(何か、変わるきっかけがあったとしか思えない。それに……以前もどこかでこんな感覚を味わったような……)
普通だと思っていた人が、いきなり言葉の通じない獣のように変わってしまった経験を、以前どこかで味わったはず。そう考えた長男は必死に記憶を辿った。
「そういえば……父上」
「え? 何です?」
はたと気づいた長男が呟いた言葉に夫人は反応して顔を上げる。
するとしばらく沈黙が続き、次の瞬間、長男は何か思い出したかのようにハッとした
「この状況……かつて側妃に誑かされ、信じがたい程愚かな男に成り果てた父上の時とよく似ております。もしや……レオナルドの傍には良からぬことを吹き込む不届き者がいるのかもしれません」
「なんですって……⁉」
長男が示した可能性に夫人は声を荒げるほど驚いた。
*
レオナルドの父、リンデン公爵は特に秀でたところも欠点らしい欠点もない、どこにでもいるような平凡な男だった。公爵家を継ぐのに支障はないと評される程度の及第点の人物である。夫人と結婚し、二人の子宝にも恵まれ、穏やかな暮らしを送って来た。
そんな彼が人生において犯した最大の過ちが側妃に傾倒したことだ。それまで常識的だった彼の言動は、誰もが眉を顰めるような非常識なものに変わっていった。
第二王子の派閥形成の資金として側妃の望むままに公爵家の財を注ぎ込み、側妃の気を引く為に積極的に敵対する第一王子の悪い噂を社交界へと流す。その結果、リンデン家の名声は瞬く間に地に落ち、王太子となった第一王子には目の敵にされることとなる。
どう考えても見えていた結末で、そうなるのも必然であった。
もとより第二王子の王たる資質を見込んでのことではなく、側妃の色香に惑わされた者たちの集まりなど脆い。崩れるのも時間の問題だった。
平凡で争いを好まない穏やかな男は、一人の女によって非常識で敵に回してはいけない者の区別もつかない愚かな獣以下の存在にまで堕ち、家名と家族を窮地に追いやってしまった。リンデン公爵の名は愚か者の代名詞とまで言われていたほどだ。もはや没落は目前――そんな時に、家の名誉を取り戻そうと奮闘したのが夫人だった。
元凶である夫から権限を取り上げ、金策に励み、空になった財を立て直す。
失った名誉を回復させるため、権威ある家──カレンデュラ家と息子との婚約を結ぶ。
必死の努力によって没落こそ免れたものの、夫人はあの時の苦難と夫へのやるせなさを思い返すたびにはらわたが煮えくり返りそうだった。
自分という妻がいながら他の女──しかもよりにもよって国王の妻に現を抜かし、傾くはずのなかった家を没落寸前まで追い込んだ。この時の屈辱と、頭が沸騰しそうなまでの怒りは今も忘れない。特に、平凡だった夫を愚かな害悪にまで変えてしまった側妃への憎しみは今も健在だ。
もし、あの時の夫のように、息子が誰かの影響で良くない方向へと変わってしまったのなら──そう考えた夫人は全身に煮えたぎるような怒りを覚えた。
「それは……レオナルドを誑かした存在がいるということ?」
「……断定は出来ませんが、その可能性はあるでしょう。あいつが父上に似て他人に影響されやすい性質だったとしたら、あそこまで愚かになるのも納得できます」
長男がそう言うと、夫人はハンカチを静かに握りしめ、その布がくしゃりと音を立てた。
「まさか……クロエ様という婚約者がいながら、他の女に現を抜かしたというの……?」
夫人の脳裏にあの時の夫の姿──側妃に鼻の下を伸ばすみっともない姿が蘇る。
息子にも側妃のように、男をろくでもない道に落とす阿婆擦れが近づいていたのだとしたら……と考えるだけで殺意が湧いた。
「いえ、もしかすると男かもしれません。クロエ様の婿の座を狙うある令息が、レオナルドを貶めようと、わざと愛想をつかされるような非常識な振る舞いをするように仕向けた可能性は十分あります」
この段階で既に二人の間ではレオナルドを誑かす存在がいると断定していた。
あくまで想像に過ぎない――だが、勘は当たっている。実際にその人物は存在するのだから。
「その人物から引き離せば、元のレオナルドに戻るかもしれません」
「そうね……。そうなれば、もしかすると婚約破棄も免れるかもしれないし……」
二人の頭にあるのはレオナルドに非常識な言動を吹き込んだ悪しき者を排除し、元の状態に戻すこと。
成功の見込みは薄い案ではあるが、追い詰められた者にとってはたとえ現実味のない方法であっても縋るしかなかった。
「そうと決まればあいつに話を……」
「お待ちなさい。本人に問い質してもはぐらかされる可能性があります」
あの時、いくら問い詰めても夫ははぐらかすばかりで、気づけば手遅れになっていた。その記憶を夫人は苦々しく思い出し、長男を止める。
「問い質すならば従者です。レオナルドの従者をここへお呼びなさい」
常に行動を共にしている従者であればレオナルドの交友関係も把握しているはず。
そして、はぐらかそうとしても従者ならば実力行使をしてでも吐かせることが出来る。
夫人の涙が止まり、その瞳に決意の光が宿る。執事に向かって凛として声で命じた。




