Ⅰ
灰色の空から、鉛のように重く冷たい雪が舞い落ちていた。
建国より七百年の長きにわたり、幾度もの戦火と風雪に耐え抜いてきた偉大なるグラン・ロヴェール王国の王城。その最も高く、最も古き東塔に位置するわたくしの私室は、分厚い堅牢な石壁と、一角獣の神話を織り込んだ豪奢なタペストリーに囲まれながらも、常に微かな、しかし決して消えることのない冷気を孕んでいる。
窓硝子の向こう側では、北の霊峰より吹き降ろす風が獣のように咆哮し、王都の華やかな街並みを白銀の闇へと沈み込ませようとしていた。
わたくし、エレノア・フォン・アージェント公爵令嬢は、青銅の縁取りが施された豪奢な姿見の前に立ち、己の姿を静かに見つめていた。
年老いた侍女たちが、震える指先でわたくしの漆黒の髪を複雑に結い上げ、代々アージェント公爵家の直系にのみ受け継がれる「氷涙石」のティアラを慎重に戴かせる。鏡に映るわたくしの姿は、夜の闇そのものを溶かし込んだかのように深く、重い。夜空を切り取ったような群青色のベルベット生地には、一族の紋章である「剣を抱く銀狼」が、精緻を極めた白銀の糸によって立体的に刺繍されている。そのドレスの重みは、そのままわたくしが背負うべき血と歴史の重みであった。
アージェント公爵家。それは、現在の王家であるロヴェール家よりもさらに古い血筋を持ち、「北方の絶対なる盾」として、この国の国境を数え切れぬほどの魔獣や蛮族の侵攻から守り抜いてきた武門の頂である。我が家の歴史は、血と鉄と氷によって綴られてきた。わたくしの身に流れる血は、単なる生命を維持するための赤い液体ではない。それは名誉であり、義務であり、先祖たちが玉座のために流してきた尊き犠牲の記憶そのものであった。
ゆえに、わたくしの氷のように青い瞳は、いかなる時も感情の揺らぎを見せることを許されない。それが、次期王太子妃として、そして何よりアージェント公爵家の長女として、物心つく以前よりわたくしの魂に刻み込まれた「軛」であり、同時に、何者にも侵しがたい「誇り」であった。
「……お嬢様」
わたくしの乳母でもあり、筆頭侍女であるマーサが、声を微かに震わせながら部屋に入ってきた。その手には、王室の印蝋が押された一葉の羊皮紙が握られている。彼女の深く刻まれた皺の奥にある瞳には、わたくしに対する深い同情と、王室への隠しきれない憤怒の色が色濃く浮かび上がっていた。
「王太子殿下より、今宵の降誕祭の宴席におけるエスコートは、辞退するとの使いが参りました」
「理由は?」
わたくしの声は、冬の湖面のように波一つなく、自分でも驚くほど平坦であった。そこに落胆や悲哀といった感情の起伏は一切存在しない。ただ、状況を把握し、次なる行動を決定するための「事実」を確認するのみである。
「……殿下は、昨日より体調を崩されているセリア・フォン・ローズ男爵令嬢を、御自ら介抱なさると……。ゆえに、今宵の宴席への入場は、後ほど彼女と共に行うとのことでございます」
その報告を聞き、わたくしの周囲に控えていた若い侍女たちが、一様に息を呑み、顔を青ざめさせた。
セリア・フォン・ローズ男爵令嬢。
半年前、王太后陛下の遠縁という名目で、突如としてこの宮廷に現れた少女。小動物のように愛らしく、常に誰かの庇護を求めるような怯えた瞳を持つ、そして、その裏に恐ろしく計算高い野心を隠し持った娘であった。彼女が、詩と音楽を愛し、厳しい現実と政務を嫌悪する王太子ユリアン殿下の脆い心を掌握するのに、さほどの時間はかからなかった。
「左様でございますか」
わたくしは静かに頷き、白魚のような細い手に、極上の絹で編まれた純白の手袋をゆっくりとはめた。
「お嬢様……! 殿下のあまりのご乱行、もはや目に余るものがございます。婚約者であるお嬢様という確固たる存在がありながら、あのような身分卑しき、ぽっと出の男爵令嬢に現を抜かすなど……! 公爵様にお手紙を書き、直ちに王家へ抗議なさるべきです!」
「お黙りなさい、マーサ」
わたくしの静かで、しかし絶対的な命令を含んだ冷たい一瞥に、激高していたマーサはハッと息を呑み、深く頭を垂れた。
「わたくしは、エレノア・フォン・アージェント。王家を支える第一の柱の娘です。王太子殿下が、いかなる未熟な振る舞いをなされようとも、わたくしがそれに感情を乱し、王家の威厳を自ら損なうような真似をすることは断じて許されません。抗議などという下世話な真似は、我が公爵家の矜持に反します。わたくしは、一人で大広間へ向かいます。皆の者、道を開けなさい」
重厚なベルベットのドレスが、磨き上げられた石の床を擦り、衣擦れの重い音を立てる。わたくしは己の背筋を天に向かって真っ直ぐに伸ばし、嵐と悪意の待つ大広間へと、ただ一人、静謐なる歩みを進めた。
─
大広間へと続く長い回廊には、数百年前に描かれたフレスコ画が、壁の両側を隙間なく埋め尽くしている。建国の英雄たちが炎を吐く竜を討ち、闇の眷属を退ける姿。その英雄たちの背中を守り、最も多くの血を流したのは、常に我がアージェントの祖先たちであった。薄暗い蝋燭の光に照らし出されたその凄惨にして美しい歴史絵巻の間を抜けていくわたくしの足音は、まるで過去の英霊たちとの静かなる対話のように、規則正しく、そして力強く石畳に反響している。
回廊の巨大なアーチ窓の外では、夜の闇と同化した吹雪が、王都の街並みを容赦なく打ち据えていた。この国は今、平和という名の、甘く腐臭を放つ泥沼の中に沈み込んでいる。宮廷に集う貴族たちは、かつて先祖たちが抱いていた魔獣への警戒も、領民が直面している飢餓の恐怖もとうに忘れ去り、ただ甘美な異国の毒酒を煽り、権力闘争と色恋沙汰という名の、ひどく低俗で空虚な遊戯に耽溺しているのだ。
わたくしが王太子ユリアンの婚約者として選ばれたのは、まさしくその腐敗の進行を食い止め、王室に失われた「武の精神」と「厳格なる規律」を取り戻すための、現国王陛下の苦肉の策であった。ユリアン殿下は、大理石の彫刻のように美しい容貌を持たれているが、その精神は硝子細工のように脆弱であった。彼は、己を律する厳しさを憎み、ただ甘やかしてくれる者だけを周囲に置きたがる。彼にとって、常に王族としての義務と責任を説き、微塵の隙も見せないわたくしという存在は、己の至らなさと矮小さを容赦なく突きつけてくる「冷酷なる鏡」に他ならなかったのだろう。ゆえに彼は、わたくしから逃げ、あの男爵令嬢の作り物の涙に溺れたのである。
やがて、回廊の終端にそびえ立つ、重厚な黒檀と黄金で作られた大扉の前に辿り着いた。
わたくしの姿を認めた二人の近衛兵が、弾かれたように姿勢を正し、恭しく重い扉をゆっくりと押し開く。
途端に、むせ返るような薔薇と乳香の匂い、そして数百人の貴族たちが発する熱気と、弦楽器が奏でる軽薄で華びやかな旋律が、暴力的なまでの質量を持ってわたくしの全身を打ち据えた。
降誕祭を祝う大広間は、天上の楽園を模したかのような絢爛豪華な装飾で埋め尽くされていた。高い天井からは、何万ものクリスタルグラスを連ねた巨大なシャンデリアが眩いばかりの光を放ち、壁沿いに並べられた黄金の燭台からは、高価な香料を含んだ乳白色の煙が立ち昇っている。長大なテーブルには、孔雀の丸焼きや、黄金の粉をまぶした果実、そして血のように赤い葡萄酒が惜しげもなく並べられ、享楽の極みを示していた。
しかし、わたくしが大扉の敷居を跨ぎ、大階段の上部に姿を現したその瞬間。
広間を満たしていた喧騒が、まるで巨大な刃で断ち切られたかのように、不自然なほど完全に鳴り止んだ。
楽師たちの手は止まり、談笑していた貴族たちは杯を口元で止め、着飾った婦人たちは扇を下ろした。
何百という視線が、一斉に大階段の上のわたくしへと突き刺さる。そこにあるのは、次期王妃に対する敬意などではない。下世話な好奇心、嘲笑、そして他者の不幸を貪ろうとする、暗く淀んだ愉悦の色であった。




