第1話:無職カップルの爆誕
目が覚めると、知らない天井があった。
無機質な白いクロス。シーリングライトのデザインはシンプルで、どこかモデルルームを思わせる。
体を起こそうとして、ガチャリ、と重たい音が響いた。
「……目が覚めた」
不意に、声がした。
驚いて顔を向けると、ベッドの脇にひとりの女が立っている。
長い黒髪。色素の薄い肌。整ってはいるが、生気を感じさせない顔立ち。
手には、包丁が握られていた。
「……あなたを……一生、ここから出さない」
彼女はボソボソと、独り言のように呟く。
その瞳は俺を捉えているようで、どこか虚空を見つめているような危うさがあった。
「私が……一生、養うから。だから……私のそばにいて……」
典型的な、ヤンデレだ。
見ず知らずの女に拉致され、監禁された。
常人ならパニックに陥り、「ふざけるな!」「出してくれ!」と喚き散らす場面だろう。
あるいは、包丁に怯えて命乞いをするかもしれない。
だが、俺の脳裏に浮かんだ感情は、恐怖でも怒りでもなかった。
(……一生、養う?)
その言葉が、疲弊しきった俺の脳細胞に、甘美な麻薬のように染み渡っていく。
俺はブラック企業に勤めて五年になる社畜だ。
月残業は百時間を超え、休日はサービス出勤で潰れ、上司には人格否定の罵声を浴びせられる毎日。
昨日も終電で帰宅し、泥のように眠ったはずだった。
それが、目が覚めたらこれだ。
会社に行かなくていい?
満員電車に乗らなくていい?
あのクソ上司の顔を見なくていい?
しかも、「一生養ってくれる」だなんて。
「……マジで?」
俺の口から漏れたのは、歓喜の声だった。
彼女がキョトンと目を丸くする。
「え……?」
「一生ってことは、食う寝る処には困らないってことだよな? 家賃も光熱費もお前持ちか?」
「あ、うん……私が、全部払う……」
「最高かよ」
俺はベッドに背中を預け、手錠をチャラチャラと鳴らした。
「わかった。喜んで監禁されよう。俺は大人しくしてるから、よろしく頼む」
「……え、あ……うん……わかった」
彼女は拍子抜けしたように頷いた。
包丁を持つ手が少し下がっている。
こうして、俺の夢のヒモ生活もとい、監禁生活は幕を開けた。
***
彼女の名前は、鳥羽すずめと言うらしい。
最初は近寄りがたい雰囲気を感じていたが、しばらく暮らしてみると、そんな印象は吹き飛んでしまった。
美人というより可愛い系の顔立ちで、表情がコロコロ変わって見ていて飽きない。何より甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
そんな彼女との最初の数ヶ月は、まさに地上の楽園だった。
食事は驚くほど豪勢だ。
朝は焼きたてのパンと、具だくさんのスープ。
昼はパスタやオムライス。
夜は分厚いステーキの日もあれば、特上の寿司桶がデリバリーされることもあった。
「おいしい……?」
「ああ、美味い。お前、料理上手いんだな」
「よかった……あなたに食べてもらうために、練習したの……」
彼女は俺が食べる姿を、飽きもせずにじっと見つめている。
その視線は重いが、害はない。
俺が「水」と言えば即座にミネラルウォーターが出てくるし、「漫画が読みたい」と言えば最新刊を買ってきてくれる。
「肩が凝った」と呟けば、華奢な指で一生懸命マッサージまでしてくれた。
彼女は毎日、朝になるときちんとしたオフィスカジュアルに着替え、「行ってきます」と出かけていく。
どこかの企業でOLをしているらしい。
帰宅は夕方六時頃。残業もほとんどないホワイト企業なのだろう。俺とは大違いだ。
(こんな生活が許されるなんて……)
俺は日中、誰もいない部屋でテレビを見ながら、罪悪感など微塵もなく思いに耽っていた。
社会人としての責務? 知ったことか。
俺はもう一ヶ月も無断欠勤している。会社側からすれば、完全に行方不明者か、あるいは死んだと思われているかもしれない。
当然、懲戒解雇されているだろう。
だが、それでいい。
俺にはこの娘がいる。彼女がいる限り、俺は安泰だ。
そう信じて疑わなかった。
異変の兆候が現れたのは、監禁から三ヶ月ほどが過ぎた頃だったと思う。
ある日の夕食。
メインディッシュが鶏胸肉のソテーだった。
それまでは和牛のステーキや、ブランド豚のローストが当たり前だったのに。
いや、鶏肉も美味い。高タンパク低カロリーで健康的だ。
俺は特に気にせず完食した。
「ごちそうさま」
「……うん。……足りた?」
「ああ、十分だ」
彼女はどこか不安げな表情を浮かべていたが、俺はそれを「俺の満足度を気にしている健気さ」だと解釈していた。
しかし、変化は止まらなかった。
翌週。ビールの銘柄がプレミアムから発泡酒に変わった。
その翌週には、第三のビールになった。
おかずの品数が減り、彩りが寂しくなっていった。
そして四ヶ月目に入った頃。
カレーライスの肉が、ゴロっとした角切り肉から、細切れ肉になった。
さらに数日後には、挽肉になった。
最終的には肉を探すのが難しいレベルの、野菜カレーになった。
(……節約か?)
さすがの俺も、鈍感な頭で考え始めた。
彼女の会社が業績不振なのかもしれない。ボーナスがカットされたとか。
まあ、今までが贅沢すぎたのだ。
俺はタダ飯を食わせてもらっている身分。文句を言う筋合いはない。
多少グレードが下がっても、働かずに食える飯は美味い。
そう自分に言い聞かせていた。
だが。今の状況は、さすがに多少のレベルを超えている。
現在、監禁四ヶ月目のとある夜。
目の前のテーブルに置かれた皿を見て、俺は言葉を失っていた。
「……これは?」
「もやし炒め……です……」
「……昨日の晩飯は?」
「もやしと卵の……スープ……」
「その前は?」
「……もやしの、ナムル」
俺は皿の中身を凝視した。
白く、細く、しんなりとしたそれ。
もやしだ。紛れもなく、もやしのみだ。
肉は? 野菜は?
いや、よく見ると焦げた葱の破片のようなものが混じっているが、これは野菜にカウントしていいものか。
「……いただきます」
俺は箸をつけた。
シャキシャキとした食感。味付けは塩とコショウのみ。シンプル・イズ・ベストと言うには、あまりにも侘しい味がした。
ふと、向かいに座る彼女を見る。
出会った当初はミステリアスな美女に見えたが、今はどうだ。
頬はこけ、目の下のクマはどす黒く、肌はカサカサに乾燥している。
幽霊のような儚さは、リアルな栄養失調の相へと変わっていた。
彼女の手元には、白米のみが盛られた茶碗がある。もやしすら、俺に譲っているのか。
さすがに、まずい。
これは節約とかいう次元ではない。
根本的に破綻している気配がする。
「なあ」
俺は意を決して声をかけた。
彼女がビクリと肩を震わせる。
「……なに?」
「もしかして、金ない?」
ストレートに聞いた。
彼女の動きが止まる。
箸を持ったまま、凍りついたように固まった。
長い、重苦しい沈黙がリビングを支配する。
聞こえてくるのは、冷蔵庫のモーター音だけ。
その冷蔵庫の中身も、おそらく空っぽだろう。
「……なくなった」
蚊の鳴くような声だった。
「えっ」
「貯金……全部、なくなった……」
「全部!?」
俺は思わず大声を出してしまった。
彼女がさらに身を縮める。
「盗聴器とか……この手錠とか……初期投資にお金かかって……」
「なんでそこで金使い果たすんだよ! ランニングコストの計算は!? お前、元OLだろ!?」
俺は頭を抱えた。
見通しが甘い。甘すぎる。
ヤンデレ特有の「愛さえあればなんとかなる」という思考回路なのかもしれないが、愛では腹は膨れないのだ。
「でも、仕事してるんだよな? 給料が入るだろ?」
「…………」
「おい、なんで黙る」
「…………クビに、なった」
「は?」
彼女は視線を逸らし、ボソボソと告げた。
「三ヶ月前に……クビになった」
「三ヶ月前!?」
「うん……」
俺は計算する。
今は監禁四ヶ月目。つまり、俺を監禁してわずか一ヶ月で、彼女は職を失っていたことになる。
それからの三ヶ月間、無職のまま、貯金を切り崩してあの豪華な食事を提供し続けていたのか。
バカなのか? マジで?
「なんでクビになったんだよ」
「だって……あなたの寝顔を見てたら……出勤するのが辛くて……」
「……」
「あと……早く帰ってあなたのご飯作らなきゃって思ったら……早退しちゃって……」
「……」
「そしたら……席がなくなってた」
彼女は目からボロボロと涙を流し始めた。
「社会人として終わってるな!」
俺はツッコミを入れたが、同時に絶望した。
おい、俺を養うんじゃなかったのか!
こんな何ヶ月も食っちゃ寝生活させたんだ、一生責任を取ってくれないと困る。
「じゃあ、この三ヶ月間、毎日スーツ着て出かけてたのは何だったんだ?」
彼女は毎朝、定時に家を出ていた。
俺に「行ってきます」と笑顔見せて、どこかへと出勤していたのだ。
「……公園」
「公園?」
「近所の公園で……ベンチに座って……」
「座って?」
「ハトに……パンの耳あげて……時間潰して……定時になったら帰ってきて……」
俺は天を仰いだ。
昭和のリストラされたお父さんかよ。
「ハトにパンやる金があるなら、俺に肉を食わせろよ!」
「ううっ……ごめんなさい……あなたに心配かけたくなくて……」
「心配も何も、このままじゃ二人して餓死だぞ!」
俺の剣幕に押され、彼女は床に這いつくばって泣き崩れた。
俺は深いため息をついた。
怒鳴ったところで状況は好転しない。
冷静になれ。現状を整理するんだ。
俺:無職。貯金なし。
彼女:無職。貯金なし。
……詰んだ。
完全に詰んだ。
これからどうする?
ここから逃げ出すか?
いや、逃げたところで俺には行く当てがない。
実家には俺を養う余力はないし、友人とも疎遠だ。
何より、社会的に死んでいる俺が、今さらシャバに戻ってまともな生活ができるとは思えない。ホームレス一直線だ。
それなら、雨風しのげるこの部屋の方がまだマシだ。飯さえなんとかなれば。
「……うう、ごめんなさい……あなたのこと、幸せにするはずだったのに……」
足元で、彼女が嗚咽を漏らしている。
その姿は、あまりにも惨めで、哀れだった。
誘拐犯のくせに、被害者以上に追い詰められている。
こんなポンコツに、俺の人生を握られていたのか。
ふと、奇妙な感情が湧いてきた。
怒りではない。呆れでもない。
ここで彼女を見捨てたら、こいつは本当に野垂れ死ぬだろう。
俺を監禁するために全財産を使い果たし、社会的地位も捨てて、結果がこのザマだ。
あまりにも不憫すぎる。
「……泣くな」
俺は声をかけた。
「泣いてても金は湧いてこないぞ。顔を上げろ」
「うう……でも……もう、終わり……」
「終わってない。まだ生きてるだろ」
俺はソファに座り直し、彼女を見下ろした。
彼女が恐る恐る顔を上げる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔だ。美人台無しである。
「いいか、よく聞け」
俺は努めて冷静に、諭すように言った。
「俺はもう会社には戻れない。お前のせいだ」
「……はい」
「俺の人生計画はめちゃくちゃだ。慰謝料を請求したいくらいだが、お前には金がない」
「……はい」
「だから、身体で払ってもらう」
彼女がハッとして、自身の身体を抱いた。
少し頬を染め、潤んだ瞳で俺を見る。
「……身体……? 私、なんでもする……あなたの好きなこと、していいよ……?」
「違う、そういうことじゃない」
俺は即座に否定した。
「生産性を持て。お前が俺の手足になって稼ぐんだよ」
彼女がポカンと口を開けた。
理解が追いついていないようだ。
「お前は頭が悪そうだし、計画性も皆無だ。お前に任せてたら、俺まで共倒れになる」
「……頭悪くて、ごめんなさい……」
「だから、俺が考える」
俺は自分の頭を指差した。
「俺が稼ぐ方法を考える。ビジネスプランを立てる。マニュアルも作る」
「……あなたが?」
「そうだ。俺は楽がしたいんだ。元の生活水準……いや、せめて週に一度は肉が食える生活に戻りたい」
俺は手錠のかけられた両手を、彼女の前に突き出した。
「俺を一生養うんだろ? だったら、意地でも俺を食わせてみせろ」
それは、被害者が加害者を脅迫するような、奇妙な構図だ。
だが、彼女の反応は劇的だった。
死んでいた瞳に、光が宿ったのだ。
「……はい!」
彼女は俺の足にすがりついた。
「やる……! 私、あなたの手足になる! あなたの言うことなら、なんだって聞く!」
「よし。契約成立だ」
俺は小さく息を吐いた。
とんでもないことになってしまった。
ヤンデレ監禁生活改め、無職カップルの起業サバイバルの始まりだ。
「まずは現状把握だ。家にある換金できそうなものを全部リストアップしろ。あと、ネット回線は生きてるか?」
「うん、ネットは大丈夫……」
「よし。じゃあパソコンとノートを持ってこい。作戦会議だ」
俺が指示を出すと、彼女は「はいっ!」と元気よく立ち上がり、寝室へと走っていった。
その後ろ姿は、地面に崩れ落ちていた時の哀愁とは別人のようだった。
……本当に大丈夫なのか?
不安しかないが、やるしかない。
俺は皿に残った最後の一本のもやしを口に放り込み、覚悟を決めて飲み込んだ。




