九 不気味な老人
賭の虫
九 不気味な老人
至福に満ちた笑顔の幸子思い出す。隆夫目の前幸子いるかのよう話しかけた。
いつの間にか外どしゃ降り雨。大粒雨激しく窓叩きつけ、部屋のなか大きな音響かせる。幸子死んだ晩と同じ。
「せや、わい、あの日の昼も競輪行っとった。変なおっさんに絡まれたときやった」
―――――
幸子が亡くなる日の昼、隆夫はいつものように競輪場にいた。
浮いたり沈んだりしながら迎えた最終レース、隆夫は金子という新鋭の選手に目を着けていた。金子の太ももは電信柱ほどの太さがあった。その脚で蹴ったときの加速のすごさに、隆夫は、「こいつはやる」と読んだのだった。隆夫は、金子を頭に車券を買った。
レースがスタートした。各選手が自分の思うポジションにつけようと静かな戦いをはじめた。一段落着くと九台の自転車は一列になってコースを周回していく。金子は四番手についていた。
「よし、ええぞ。そのまま行け」
逃げきり型の選手としてはまずまずの位置だった。おそらく最後の周回のとき一気に加速する脚がものを言う。そうなったら楽勝や、と隆夫は踏んでいた。
各選手は小競り合いを続けながらも淡々と自転車を走らせていた。徐々にスピードが上がっていく。八、九位につけていた選手が外からじわっと追いあげてきた。最下位の九位につけていた古川という選手は、六十歳まぢかの選手だった。周回が進むにつれ緊張感が高まっていった。あと二周。コースのなかにいる係員がジャンを鳴らした。少しおいてジャン、また少しおいてジャン、次第にジャンのテンポが速くなっていく。つられて選手のスピードも速くなっていった。最後に鳴らされたひときわ大きいジャンが鳴りやんだとき、金子が先頭に躍り出た。最後の周回に入った。
「よしいけ、そのままいけ。逃げてまえ」
観客の喚声と一緒に隆夫も大声で叫んでいた。いよいよ最後の三、四コーナー、後ろのほうにつけていた選手が一気にバンクに駆けあがる。まくりをしかけてきた。
波乱は起こった。最下位だった古川がバンクを駆けあがる勢いは、金網を飛びこえてくるのではと思えるほどすごいものだった。頂上まで駆けあがった古川が、今度は一気にバンクを駆け下りていく。一瞬、ほかの選手が止まって見えた。
「うおーっ!」
すさまじい喚声があがった。金子が逃げる。古川が追う。四、五人の選手がだんごになってゴールに突っ込んだ。
レースは写真判定となった。二分後、異常な静寂のなか着順が発表された。一着になったのは、予想を超えたすごさでまくりきった六十前の古川だった。隆夫が買っていた金子は三位だった。大穴中の大穴だった。
観客席の興奮さめやらず、ざわざわしたため息ともいえる声が響くなか、久々に一着となった古川選手は、静かにコースを周回していた。このレースに残りの金すべてをつぎ込んでいた隆夫は、ゆっくり走ってくる古川に金網越しに腹立ちまぎれの罵声をあびせた。
「こら古川、おんどれ、よけいなことすんな。年寄りはな、茶でも飲んでこたつに入っとったらええんじゃ」
そう叫んで「ちぇっ」と舌打ちしたときのことだった。突然、隆夫の後ろから声がした。
「だれが、年寄りやねん」
振り返って声の主を見る。顔に大きなやけど痕のある老人が、隆夫をにらんでいた。老人は、片足でぴょんぴょん跳ねながら隆夫に向かってくる。
「だれが年寄りやねん。もういっぺんぬかしてみい」
老人は隆夫の胸ぐらをつかんできた。隆夫は老人の手を払いのけ、
「ちゃ、ちゃうがな。おっさんのこと、言うたんとちゃうがな」と弁解した。
だが、老人はなおも迫ってくる。隆夫に目をむいてつかみかかってくる。
「だれが、だれが年寄りや言うねん。もいっぺん、ぬかさんかい」
「なに、さらすねん!」
隆夫は、今のレースで完敗した腹立ちもあって、老人の手をつかみぐいっとひねって突き放した。老人は抵抗もできないままごろんとあお向けに倒れた。倒れてもなお「だれが、だれが……」と怒鳴っていた。恐怖と激しい憎悪が混ざった表情で隆夫をにらみ続けていた。老人の横には松葉杖が転がっていた。
隆夫は「ちぇっ」と言ってその場を離れた。
幸子が死んだのはその日の夜中だった。病院のうす暗い霊安室で、一輪の花とろうそくと線香だけがおかれた小さな祭壇の前に、顔に白布をかぶせられ、両手を胸の前で組んだ幸子が寝かされていた。ふと、昼に競輪場でつかみかかってきた老人の顔が浮かんだ。尻もちを着いてもなお隆夫をにらみつけていた老人の顔、隆夫に怯えながらも憎しみを顔一面にあらわして、欠けた前歯をむき出しにして隆夫をにらむ老人の表情は、異様で不気味だった。隆夫の頭のなかから老人の表情はなかなか消えなかった。
―――――
「あのおっさん、なんでわいに突っかかってきよったんや」
篠つく雨部屋の窓激しく叩く。隆夫三十六年前老人思い出した。腹立ちまぎれ年とった競輪選手けなした自分のことと勘違いしたのか。単なる勘違い違う別のなにかある。そんな気してならない。もはや身動かせず衰弱した隆夫、その老人の表情まぶた奥残る
どしゃ降りの雨窓ガラス叩く騒音、隆夫に死期近づいていること告げる死神の声のよう。
陽はいつしか暮れ、夜。いやまだ昼かも。
隆夫昼か夜か関係ない。すでに死への覚悟決めていた。
「何日たったやろ」
汗腐った匂い漂うぺたんこ布団寝ころび隆夫右目開けぼんやりながめた。部屋唯一小窓から入る鈍い光ぼおっと照らされた天井木目。来たげたでえ、霊界の声聞こえる。寝返りうつ力残っておらずただあお向け。はじめむずがゆかった背中、つぎに鈍い痛み、痛み徐々に大きく頂点過ぎるとしびれに変化して、最後しびれも感じなくなった。
「何日たったやろ」
顔、腹、ぼこぼこ殴られ蹴られ、からがらアパート逃げ帰ってきてから七日八日九日目かもしれない。
アパート逃げ帰って何日たった、七日か八日かそれとも九日か、「お前まだ、この世に未練あるんか」地獄の閻魔大王ささやきかける、マンガのようなエンマ様が、おいエンマ、わいはいったいどこへいく、地獄のなかの火の海か、叫喚地獄かそれとも阿鼻か、地獄の沙汰も金次第、金さえはろたらええんやろ、せやけどその金あれへんわいおいこらエンマそこで偉そにしとるやつせやせやお前やお前のことや金があるならちょっと貸せ競輪競艇一発当てて倍にしてから返したるおいこらエンマこのわいうまれかわってなんになるさるうまうしぶたはとうさぎねずみかはえかごきぶりかそれともかえるかだんごむしもしももいちどにんげんにうまれかわるができたなら幸子もいちどしょたいもとおまえはいえにおるだけでめしたきせんたくそうじしてしょういちのめんどうみるだけでわいがまいにちかせいできたるこうわんけんちくどぼくせいそうとにかくなんでもはたらくでボートやけいりんいかへんでおいこらそこのひげじじいなんで幸子くどいとるなんでわいをにらむねんじじいはこたつでちゃのんでみかんかもちでもくうとけやみかんもちもちちひみたドかにたタにょ&にひげとbとれわうQをプにとんを#りかずかずこかずこねえさんこれからかねはせびらへんさきにめいどでまっとくできみょむりょじゅにょらいなもふかしぎこなむあみだぶつなむあみだぶつなんまいだなんまいだまんさつなんまいだわいは、今に、なっても、金、金か、ところで、何日、たった…や…ろ……
隆夫目閉じ眠った。二度と目覚めないかも思いながら……。
どしゃ降りの雨はまだ続いていた。
(つづく)