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プロローグ 家出しますわ

 ノブレスオブリージュという言葉がある。高い社会的地位を持つ者は、それに見合った社会的責任を負うべきであり、社会的全体に貢献する義務があるという意味だ。それは、私の嫌いな言葉だった。


 そこは豪勢な部屋だった。勉強部屋、という質素な名前の割に室内はそこらの一般家屋を越える容積を誇り、中央の大机を起点に四方に本棚の列が伸びている。上部から見下ろすとプロペラ状になる配置の部屋の中央で、カレンは唸っていた。左手で背表紙に『クルシア戦史』と刻まれた分厚い本のページを抑え、右の手はペンを握ってはいるが先程から動きが止まっている。


「爺や、これ欠片も頭に入ってこないんだけど」

「頭に入るまで繰り返しましょう、お嬢様。幸い御昼食の時間まであと30分でございます故」

「そのあとは?」

「昼食後はバレエのお稽古を。休憩を挟んで作文と魔法演習を行いまして、夕方はまた歴史のお勉強でございます」

「……いつまで続けるの?」

  主人の気怠げな問いかけに、執事は淡々と続ける。


「は。先日は百年戦争の開幕近くまでを行いましたので、本日はクルシアが中央大陸を如何にして攻略したのかを学ぶ回となりますな。お嬢様の曽祖父の代、先先代国王の治世にございます」

「違う!それはクルシアの歴史でしょう。私が言いたいのは違う!この勉強と稽古漬けの生活がいつまで続くのかってことよ!」


 背筋の伸びた老執事は困り眉を作って口をつぐむと、持っていた教科書を卓に置いて口元の白髭を3度撫でた。あ、まずい。カレンは執事の憤りを察した。不満がある時に髭を何度も撫でるのは彼の癖だ。そして彼が何に怒り、どこにそれを向けるかと言ったらカレン自身しかいない。


「……お嬢様。このやりとりを何度繰り返したことでしょう。実利の伴わない議論を同じように繰り返すことに、一体何の得がありましょう。我々は舞台役者ではないのですから」

「そうとも、実利はまだ得られてない。なんたって私の納得が伴っていないんだから」

「お嬢様はいずれ国王を夫に迎え女王としてクルシア帝国を継ぐお方。今は成人に向けてその下準備をしている期間なのです……と、何度申し上げたか、最早記憶しておりません」

「私が国王の娘だからってこんな勉強漬けの毎日を強いられるのは筋違いじゃない?」

「そんなことはございません。お嬢様は第一王女として豪勢な日々を過ごし、帝国の庇護を一身に受けてその恩恵を享受している立場の筈。なればこそ、受けた恩恵を国家の担い手として国民に還元する必要が生まれます。今は執政に加わる立場ではありませんので、こうして知恵を蓄える時間を取らせて頂いている訳でございます」

「爺やにはもううんざりするほど聞かせたけど、私さあ、別になりたくて王女になったわけじゃないんだよ。偶々そこに生まれただけ。産み落とされた場所が国家の中枢だっただけ。それなのに豪勢な暮らしを押し付けられて、そこに王家としての義務と責任がとか言われてもさ、ちょっと疲れるよ」

「お嬢様!なりません。そのようなお言葉。民の中にはその日の食事に困る層もいるのです。一国の王女がそんな事を言ったと知れたら合わす顔がありません」

「じゃあ私の食費削っていいからさ、それを貧困層の援助に充ててやってよ。シェフの料理は美味しいけど毎日じゃ飽きるからさあ、私明日の朝は焼き魚とマカロンでいい」

「色々なりません!国家予算というものは王女とはいえ一存でホイホイ動かせるものではありませんし、ましてや帝国の王女の朝ご飯がマカロンなど言語道断で御座います!!国民に示しがつきませんよ」

「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」

「お嬢様のパンが無くなることはございません!」

「例え話にマジになるな!」

「……突拍子もない話を始めたのはお嬢様では?これ以上水掛け論じみた言い争いを続けても不毛なのは承知な筈です。さ、講義を再開しますからどうか落ち着かれて下さい」

「う、うむ」


 わざとらしく髪を捲り、聞かせるように紙の擦れる乾いた音を響かせる。


「おお、賢明なご判断です。お嬢様もご理解いただけたようで何より」

「うん、よく分かったよ。私がすべきこと」

 やってられないです。家出しま〜っす。カレンはこの日、何度目かも分からない決心をした。しかしながら、今回ばかりは本気だった。

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