第三話 猶予
「――少しだけだぞ」
疲れたような、呆れたような声だった。目線で促され、共に部屋に入る。蓮は今までと同じように牀に、亮は卓の前へと腰を下ろした。
違和感に気づいたとき、心臓がきゅっとしまる。以前、蓮と二人で会っていたとき、亮は蓮の隣に座っていた。もしくは臥牀の端に腰かけるか、あるいは気だるげに横たわっているか――いずれにせよくつろいだ様子だった。
気だるげな様子は今も見えるけれど、榻に座ったまま、蓮を見ることもせず木簡に目を落とす姿を見ていると、緩やかな拒絶を覚えずにはいられなかった。
「それで? なんの用だ」
用がなければ来るな、とでも言いたげな口調だった。否、実際にそう思っているのだろう。こちらを見ようともしないのが証拠ではないか。
「――戦況を、知りたくて」
自分の耳にも、声が震えて聞こえた。これほどまでに弱々しい声をしていただろうか、自分は。
蓮は胸の前で、両手をただ握りしめる。
俯く蓮の耳に、ふっと笑う亮の声が聞こえた。
「なんだ。月龍が死んだか確かめに来たのか」
錐で刺されるような痛みを覚えたのは、吐き捨てる語調のせいか、それとも内容のせいか。息が詰まり、呼吸さえままならない。
「――ああいや、悪い。少々気が立っていてな」
自らの胸元をぎゅっと掴む蓮に、亮はため息混じりの謝罪を口にした。
「だからお前にも会いたくなかった。毒を吐かずにいられる自信がなかったからな」
言いながら、結い上げていた髪を無造作に引っ張る。髪を下ろし、ばさばさとかき乱す仕草に、ようやく以前の亮の面影が見えた。
「戦況は思わしくないと聞いている」
多少落ち着きを取り戻した口調で亮は続ける。
「情けない話だが、戦略についてはともかく、戦術に関しておれは上っ面を撫でただけの門外漢だ。戦況をひっくり返す奇策なんぞは思いつかん。精々がこの間蒼龍に与えた指示くらいだ」
この間――蓮が月龍に対し、復讐のために傍に居ると伝えた、そう亮に白状したときのことか。
あのとき二人が立てた策は、扁将軍と蒼龍を向かわせるというものだった。扁将軍は月龍の代わりに部隊を引き受け、蒼龍は力ずくでも月龍を連れ戻す、というもの。
抵抗するようであれば縛ってでも――自害しないよう、口には猿轡を噛ませろ、とまで指示していた。
月龍の尊厳を奪ってでも連れ戻さなければならない。亮と蒼龍の決意を思い知らされるような物言いだった。
――それほど月龍が自らの死を望んでいる、絶望しているのだと。
「そもそもおれに、全軍の指揮権などはないしな。局所的な対処しかできん。――まあそれを考えたら、月龍が別部隊であったことは不幸中の幸いか」
亮は大げさな仕草で前髪をかき上げる。
「将軍と蒼龍はすでに発った。あとはうまくやってくれることを祈るばかりだが」
無力感と言うのだろうか。およそ亮には似つかわしくないものが、彼を取り巻く空気に見える。
「行軍とは違う。武人二人の馬での移動だ。軍なら三十日ほどはかかろうが、あの二人ならおそらく半分の日程で辿り着く。到達まではあと数日と言ったところか」
淡々と事実を並べる亮に、驚きを隠せなかった。
将軍と蒼龍を向かわせる決定をしたとはいえ、その当日に出立できたはずもない。蒼龍はともかく、扁将軍は要職の身にある。どれだけ命令系統をうまく駆使したとしても、数日はかかるだろう。
ならばあの対話の日からは、すでに半月ほどは経っているということになる。その間を蓮は無為に過ごしてしまったのか。
「――これがお前に伝えてやれる情報のすべてだ」
卓に肘をついた頬杖で、亮が蓮に視線を流す。
わかったのならさっさと帰れ。言外にそう告げられているように感じるのは、抱えた後ろめたさのせいか。
ただそれでも、わかりましたと踵を返す気にもなれない。
「悪いが、任せておけ月龍は必ず無事に帰らせる、そう約束してやることはできん」
「それは――わかっています。けれど――」
「お前がここに居ても、無意味だ」
「――!」
真実ではあるけれど、冷徹で無慈悲な言葉だった。思わず握りしめた拳が、体の横で震える。
ふっと、亮が笑った。
「だからあまりここへは来るな。なにかわかったら教えてやる。お前は――月龍が戻って来たときに伝える気持ちだけ、整理して準備しておけ」
いいな、と念押しされた亮の声は優しかったのに、蓮は素直に頷くことはできなかった。




