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海のこころ・4

 晴れと雨が入り混ざった風景に、おれの虚像。ガラス一枚隔てたさきには、息の詰まるような、暑い現実がある。そこから切り離された快適さのなかで、かなたの太陽を見上げる。空の向こうには、過ぎ去った思い出でもあるのか、と自分自身に問いかけんばかりに。


 方俊は仕事の都合で出て行った。外を眺めた後、ソファへ戻る。一人残されたままくつろぐ。自然の音さえかすかなこの部屋で、目を閉じる。ローマ文字の時計は針の動きも静かでなめらか。おれをかるいまどろみへ誘ったとしても許される、遅い午前。


 不完全な暗闇。思い出をまぶたの裏にまさぐっても、淡くぼやけたままの、るみの輪郭。


 直ちにいっさいを調べあげる森家のネットワークを以てしても、いまだに返答はない。


 どうしてなのか。やさしさのせいなのか。


 おれには、るみに逢って確かめなくてはならないことがある。


 加瀬は、そこへ至る出来事を、知ったに違いない。だからこそ、るみと引き離すために、老人の家へおれを預けた。きっとそうだ。そしておれは、抗わないほうが利口だと思った……。


「お待たせしました」


 どのくらいぼんやりしていたのか、方俊の恋人が、愛想たっぷりにかけた声で、我に返る。


 どこかはにかみながら現れたミツコは、髪型も何もかも変わっていて、そもそもの美しさを引き出されていた。上目遣いにおれの反応を確かめるあたりが、心のひだをくすぐるようだ。笑みがこぼれる。


「お似合いになるようなものは、明日、発送いたしますわ。今日明日お使いになるぶんは、後ほど、お泊まりのホテルへ、お届けしておきます」


 方俊の伝手でおさえた、都内のホテル。石倉良とは誰なのか、知られたくなかったからこそ、頼んだ部分もある。


「ありがとうございます。では、よろしく」


 車寄には、冷房のよくきいた状態にして、おれの一台がまわしてあった。乗り込んでも、独特の暑さのこもった様子がない。


 ゆっくりと走り出す。見送りをミラーのかなたに、大がかりな門をあとにする。


「ありがとうございます。わたしが恥をかかないように、はからってくれるなんて。やさしいのね」


 サングラスの横からうかがうミツコは、都会向けに外見をアレンジされているだけで、こころは素直なままだ。


「どういたしまして。新しい魅力を発見したなあ」


「とても嬉しい。シンデレラみたい」


 曲解や勘繰りのないやりとりは、淡い青の空の下。自然な微笑みは、おれ自身ながく忘れていたもの。


 通り雨の洗い流した俗世間の汚れは、走るうちに、滴にのってどこかへ消えていく。


 ナビの案内通りに行くと、少しの渋滞はあったものの、すんなりと目的地に到着した。


 着いた先は、隠れ家レストランという場所だった。ひと言、ふた言告げるだけで、店側は個室へ案内してくれた。


 ランチ向きのささやかなコースしかない。そういう類の店らしく、給仕は極力おれたちを二人きりにしてくれる。


 シンプルだが、品のいい設えの店である。


 ミツコはそこに、しずかに調和していた。


 垢抜けのしない様子は、かえって古風で奥ゆかしくみえるように、スタイリングしてある。


「初めてなんだ。このお店。どうしよう?」


 ミツコは笑った。


「ほんとうに?」


「まったくな。不調法があっても、許しておくれよ」


 サングラスは車に置いてきた。出先で、素顔で誰かと向かい合うのは、どれだけぶりだろう。


 運ばれてくる料理も素晴らしい。


 作る側の腕のひけらかしなどは、微塵も感じさせない。間違いのない上質さだけが、届けられてくる。


 これはおよそ、イオグループではみとめられない、類の違った良さであった。


 おれはいまさら、自分の味覚のルーツに、森家の影響をみつけた。


 所詮、位が上の人間の掌で転がされるなら、初めから頼りきったほうがいい。プライベートの極みのようなことでも、方俊に甘える体をとった自分の計算高さを、噛み砕いて飲み込む。


「さっきのサロンで、なにか、聞いた?」


 そっとカトラリーを置くミツコ。


「良のこと? なにも。だって、尋ねたところで、軽々しく言うわけないでしょう」


 どこか期待していた。身元を明かす手間が省けるのを。そして、都合よく、財力があるとひけらかすきっかけも。


 こうしてみると、つくづく、自分の小ささばかりが気になる。


 きっとそうした部分を、ミツコは許すまい。


 ああ、そうだ……おそらく、このひときよいのだ。加瀬とおなじような厳しさが、こころのうちにあるに違いない。取り繕いのない自分自身でいないかぎり、受け入れてくれないだろう。だからこそ、いままで、独り身でいたのだ。


「ミツコはとても清潔だ。くだらない見栄なんて張ろうものなら、黙って、こころのなかのごみ箱に放り込まれて、おしまいだ」


 困ったような微笑み。それをうかがうおれ。すこし卑屈になりかけの表情で。


「見透かされちゃったな」


 ミツコは、あっさりとしたひと言で、駆け引きを食い止めた。


「ところで、どうしてわたしの苗字がわかったの?」


 ノンアルコールの飲み物で喉を潤す。


 順調に運ばれてくる料理。


「遠縁の親戚がいる。色々あって、おれとは親しい。大学生だ。つまり……先生の、息子さん。坊やではないほうね、その子と大学の同級生なのでね」


 あえて大鳥とも、蔵人とも名は出さなかった。どこに聞き耳があるかわからない。


「ああ、坊やとの縁談があがっていた、どこかのお嬢さま。そういうことだったのね」


 こともなげにミツコは言って、食事と向き合っている。


「お金持ちにはお金持ちの世界があるのだし、案外、広いようで狭いものね」


 からりと笑い飛ばすようなひと言で、話はひとまず終わった。


「そうなんだよ。窮屈でね。だからきみの良さが、しっかりわかるのさ」


 テーブルクロスに落ちる影。淡い色の内装。うるさすぎない照明。間近の緑が窓の外。さっきまでの雨が潤いを与えて、鮮やかにつやめく。暑さの後、安らぐ季節が近づいてくる。


 室外機が作る人工の残暑など忘れて、涼しくなったら、ミツコとどこへ行こうか、と考えてみた。


 明日以降の予定を埋めたくなった。もしかすると、おれにとって、初めてのことかもしれない。

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