出口のない海
マリーは、ゆっくり暗い海底に沈んで行った。
「大丈夫か?……どうしたんだよ?」
何も言わないマリーをヴィットが心配して、優しい声を掛ける。だが、その声が優しければ優しい程、マリーの胸は締め付けられた。
「……ごめんなさい……」
かなりの時間を要して、マリーは声を震わせた。
「どうして謝るの?」
「……ワタシは……ヴィットを危険に……」
明らかに泣いている声は、ヴィットを切なくさせた。
「マリー……逆の立場でも、俺は同じ選択をしたよ……それにさ、やろうって言ったのは俺だよ」
「でも! ワタシは……」
「それよりさ、何とか助かる様に頑張ろうよ」
声を掠れさせるマリーの言葉を遮りヴィットは優しく言うが、マリーは言葉が出なかった。
「……」
「マリー、耐深度は?」
「……千メートル……くらい」
やっとの事で、マリーは声を絞り出した。
「この辺りの深度は?」
「……多分、千メートルを超えてる」
千メートルなんてヴィットには想像も出来なかったが、艦に乗ってすぐにボンやり海を見ていた時にオットーに聞いた話を思い出した。
(ヴィットよ、海の中にはのぅ、山や丘、谷や崖など何でもあるのじゃ。水があるか無いかだけの違いじゃよ)
「じいちゃんに聞いたんだけどさ、海の中には山や丘があるって」
ハッとした。マリーはセンサーを駆使して、近くに海山があるのに気付いた。だが、噴射剤も使い果たしウォータージェットが故障した今、移動の術は無かった。
「……近くにはあるけど……」
「噴射剤も無い、ウォータージェットも故障……それじゃ、手で掻くしかないね」
「そうだ!」
ヴィットの言葉は、マリーの消えかけた希望に火を灯した。アームを出すと、平泳ぎの要領で水を掻く。細いアームでは速度こそ出ないが、マリーは海山に向けて移動を開始した。
かなりの時間を要したが、マリーは海山の頂上付近に着地した。これで、圧潰は防げたが、まだ問題は山積だった。一番は酸素の問題だった……持って八時間、残された時間は少なかった。
とても言えないマリーだったが、ヴィットは普通に聞いて来た。
「どの位持つの、空気?」
少しの沈黙の後、マリーは消えそうな声で答えた。
「……後、八時間……」
「そんなに持つんだ」
ヴィットの言葉は、マリーの考え方を変えた。”十時間しか持たない”と”十時間も持つ”……その違いは歴然だった。
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天候悪化で帰還したリーデルの報告を聞いたリンジーは、顔色を変えて直ぐに艦橋を飛び出した。慌てて、ゲルンハルト達が後を追う。
「探しに行くのっ!!」
リンジーは舟艇に乗り込み、止めるゲルンハルトに怒鳴った。折しも天候は悪化し、灰色の空と荒れる波がリンジーの胸を締め上げた。
「こんな小舟じゃ無理だ! 二重遭難したいのかっ!」
「遭難なんか、怖くないんや!」
「止めるんだ」
チィコも無理矢理乗ろうとするが、真剣な顔のイワンに止められた。
「いややっ!」
「お前達が遭難したら、マリーとヴィットが悲しむだろ?」
叫んだチィコだっが、イワンの声は優しくて涙を浮かべたまま俯いてしまった。
「私は行くから!」
だが、リンジーは止めようとしない。その顔は、決心の顔だった。
「だがな、リンジー……」
ゲルンハルトの声も優しかったが、リンジーは見てはいなかった。
「そんなに、あの戦車とヴィットが大事?」
揺れる甲板に、腕組みしたタチアナが立っていた。リンジーは、強い視線で睨み返すと静かに言った。
「ヴィットとマリーを失う事は、私にとって世界の終りと同じだから……」
「そう……」
タチアナは、直ぐに艦橋に連絡する。
「この船で、マリーとヴィットの捜索に向かって」
『しかし、海上は嵐ですが海面下は平穏なのです。敵の潜水艦がどれ位いるか分かりません。脅威は去った訳ではないですし、我々はあなたを護衛する任務があります』
ハイデマンの声は困惑するが、タチアナは平気な顔で言った。
「私は雇い主よ。命令を聞きなさい」
「タチアナ、あなた……」
凛として命令を下すタチアナを見て、リンジーは唖然と呟いた。
「世界の終わりと同じなんでしょ?」
薄笑みを浮かべたタチアナの声は、少し優しかった。
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着底して数分で、ヴィットが動き出した。
「これ、TDに作ってもらった工具箱。何でも入ってるんだ。マリー、不具合箇所の図面を出して」
「ヴィットが修理するの?」
「ああ、TDやコンラートの修理を随分見て来たからね」
意気揚々と工具を広げたヴィットだったが、モニターに出た図面を見ると絶句した。
「……なんじゃ、こりゃあ……」
そして、現物の配線を見て二度目の溜息を付いた。コンラートの配線は芸術の域に達しており、数十の色とりどりの配線は視覚的にも美しく、カプラーの色や形までも計算されて配置してあった。
「ブロータンクもウォータージェットもユニットに故障の兆候は無いの。多分、原因は衝撃による配線のショートだよ。見た目では分からないけど、何処かがショートしてるはずなの」
心配声のマリーだったが、ヴィットも配線を見ると大量の脂汗が出た。
「……確かに見た目じゃ、分からないな」
美しい配線はコンソールの裏側に整然と配置され、寝転んで腕を上向きに伸ばす作業は困難と苦痛を伴った。一本一本の配線にテスターをあて、抵抗を計測した。
「ショートしてれば、抵抗は0Ωだよね」
「そうだけど……配線図はあるけど、正直ワタシも分からないんだ……数千の配線を調べないといけないみたいだし……」
苦しそうに声を出すヴィットに、マリーは済まなそうに言った。
「コンラートやTDなら直ぐに特定出来るんだろうね……戻ったら、特訓してもらうよ」
苦笑いのヴィットだったが配線は複雑に入り組んでおり、少しでも気を抜くと同じ配線を測定しそうで、一瞬も気を抜けなかった。
そして、一時間もすると腕の感覚は無くなり、頭もボーっとして来る。マリーはヴィットの邪魔をしない様に極力声を出さない様にするが、モニターに映る辛そうな顔を見ると我慢出来なくなる。
「ヴィット、少し休もうよ……腕を少し降ろすだけで、楽になるから……」
「……大丈夫……」
ヴィットは歯を食い縛ってテスターを使った。そのまま、深海の時間は、ゆっくりと過ぎる。自分が配線を触る音だけの世界……呼吸の音がこんなに煩いのかと、ヴィットはボンやり思った。
そして、何も言わなくなったマリーが心配になった。多分、マリーは責任を感じて耐え難い呵責や後悔に苛まれているのだろう……そう思うと胸が張り裂けそうになった。
「マリー……」
「なぁに?」
「本当は、マリーはさ……一人で動けるし、回避も攻撃も出来るんだよね」
「ヴィット……何を……?」
「俺なんかいなくても、マリーは大丈夫なんだ……」
「ヴィット、怒るよ」
「……ごめん……でもさ、今まで助けられてばかりだったけどさ……」
「ヴィットも助けてくれたよ! ケンタウロスやイカロスやゴキブリや……ケルベロス……みんな、ワタシ一人じゃ倒せなかった……ヴィットが、やっつけてくれたんだよ」
マリーの声は泣いてるみたいだった。
「……そんな事ないよ……でもね、今、マリーを助けられるのは俺だけなんだ。誰も頼れない、誰も助けてくれない……だから、俺は全力でマリーを助ける」
「……ヴィット……ありがと……」
力強いヴィットの声が、マリーの中に浸透した。暗く冷たい海底で二人きり……出口なんて見えないが、マリーには一筋の光が確かに感じられた。




