第四話「虎になる覚悟はできなかった」
「やっちゃったわねー」
「やっちゃったよねー」
五時間目終わりの廊下は、まるでベルトコンベヤーの様に疲れた学生たちを右へ左へ流していく。そんな中伊禮は窓の縁に寄りかかり、工場の管理人の様にそのレーンを見つめながら言った。
「確かに私も動揺してたし? まさか手からビーム出るなんて思わないじゃない?」
こんな感じかしらと伊禮は右手をパッと突き出す。目の前を丁度通り過ぎようとした生徒がその手に驚き情けない声をあげた。
「そりゃあねえ」
人間離れした、いやむしろ人間では無いのかもしれない。
「それにしたって、なんで私を追いかけて来ちゃうかなぁ〜。そこってむしろ嵐山君の力に憧れて友情芽生える場面でしょ?」
「漫画じゃあるまいし。それに追いかけろって言ったのは嵐山君本人だよ?」
そう、まるで俺を気遣ってその場を去る理由をくれるかの様に。
あの場面で逃げ出す事の意味を一週間たった今俺は改めて体感していた。
あの日の敗走は決定的な力の差を示し、蔭川一派の猛威は影を潜めている。しかしより陰湿に、彼らの影響は目詰まりした排水溝の様に、負の感情を溜め腐った臭いを教室内に充満させている。
決闘翌日には嵐山の噂は立ち待ち教室を駆け抜けた。しかしそれは脚色され嵐山を貶めた。
あの日の嵐山は俺達に覚悟を見せた。それは三対一の、更に俺と伊禮を人質に取られた不利な状況で高潔な男の姿を背中で語った。そんな彼を汚すような事を、例え相手が傍若無人な蔭川一派であろうとも許せるがはずがない。
いや、本当に許せないのは俺自身だ。あの日あの場を逃げ出した俺に彼を擁護する資格などなかった。言葉が、気持ちが届く訳がないのだ。結果的にその後悔が行動を縛っている。そして後悔が後悔を呼ぶ悪循環。
「私も嵐山君と話しにくいのよねえ。でも座古君はずっと一緒に帰ってるわよね。なんか私の事言ってた?」
「いやー……、特に?」
「何その間ー」
一緒に帰っている、というよりは二歩後ろをついて行っているだけ。会話無し。目線が合う事も無い。
「はー。私ってやっぱり口だけなのかなー」
「どうしたのさ急に」
「いやー、前に言われたのよね。あんた口だけの最低女ってさー」
苦い顔をした伊禮は、その表情を隠す様に窓の外へ顔を向けた。四月後半の、まだ少し涼しい風が廊下を駆け抜ける。女子にしては短い伊禮の髪が小さくたなびいた。
俺は気の利いた返答が出来ず口を閉じたまま彼女を見ていた。
「その点座古君行動と言動がぴったり一致してるよね。主に情けない事ばっかだけど」
好きな人が弱みを見せてくれたのに、俺は結局何もできない。あげく彼女自身が冗談を言い場を和ませる始末。何度自分を情けないと思っても自分を変えることが出来ない。
授業開始のチャイムが校舎に鳴り響く。音に掻き消される程小さな声で伊禮は「覚悟かぁ」と呟いた。
六時間目の授業は現代国語。先週から山月記を取り扱っている。中国の偉い人が自分よがりに生きた結果虎になってしまう。しかし本当は他人と自分を比べることで自分が何でもない人間であると分かることが怖くて他人を避けた、臆病な人間のなれの果てを綴った話。
なんだ、まるで嵐山の様じゃないか。虎っぽいし、人を寄せ付けようとしない。
虎になった男は、虎になって初めて後悔を覚える。
嵐山も虎になって、後悔したのだろうか。彼の言う覚悟とは、虎になる覚悟の事なのだろうか。
俺は覚悟をしたことがない。それ故、虎になる覚悟をする心境など到底分かるはずがない。
静かに深く息を吐いた。結局俺はどうしたい。嵐山と仲良くしたいのか。
違う気がする。どうにも逃げた引け目から、自分を守るために、俺の心の平穏のために彼を利用している……気がする。
何となく分かった。これが虎になった感覚。自分の中の大事なものを守りたくて、他人を遠ざける臆病さ。覚悟も無く、決意も無く、ただ惰性に、怯弱に、俺は虎になるのか。
でも虎同士なら、仲良くなれるかもしれない。俺と嵐山は友達になれるかもしれない。
そうじゃないだろ。慣れ合いたいわけじゃないだろ。そもそも友達ってなんだ。何があっても信じ合える関係? ならとっくに破綻してるじゃないか。いや、だから俺は嵐山と友達になりたいのか? そもそも虎なんて柄じゃないし、せいぜい子猫よね、とか伊禮なら言いうだろう。
授業終了のチャイムが鳴り響く。それと同時に安堵の呼吸と活気が徐々に教室内を埋め尽くしていく。
嵐山は帰りのホームルームを待たずに鞄を拾い上げた。彼が教室を出るまでの十数歩は静寂に包まれる。まるで山で出会ってしまった獣が去るのを息を殺して待つかの様な緊張感のある静けさ。
「嵐山君!」
猟師が散弾を放つかの様に俺は声をあげた。その時の俺は驚く位大胆だった。それはきっと一時間中使い続け煮詰まった頭が正常な判断を下せなかったから。俺は自分に集まる視線に思わず開いた口を閉じそうになる。でもここで止まったら、全てが元に戻る様な気がしていた。またあの鬱屈した日々に戻る気がしていた。だから俺は……。
「一緒に……帰ろう」
消え入りそうなか細い声だった。しかしそれは紛れもなく、虎にはならないという、俺が初めてした小さな覚悟だ。
「……勝手にしろ」
一度も振り向かずに嵐山は言った。
「分かった!」
俺は慌ただしく鞄を持つと、彼の背中を追いかけた。




