第66話 叡智の女神(その2)
(何だありゃあ?)
現れた女神ベネトリテ。その後ろ姿を眺め、ゾルグは呆れる。
(別嬪だがよ……)
仄暗い魔城に、女神の体は金色にうっすらと輝いている。身に纏うのは薄物一枚のみ、その肢体の滑らかな曲線ははっきりと透けて見える。
美しい、だが。
(ちっともそそらねぇ)
フンと鼻で一つ笑う。
ゾルグ、戦のスリルに取り憑かれた男。それは彼自身も十分自覚している。そしてどうやらその分、彼は女色には常からごく恬淡だ。戦場を求めて旅から旅のその日々を、訥弁な義弟とただ二人過ごして、なんら倦むところがない。とはいえ。
(まんざら俺だって、木の股から生まれたってわけでもねぇんだが?)
男性としてあって当たり前の衝動は、ゾルグにも皆無ということはない。忌々しくもまさにそれゆえ、シモーヌの【魅了】にはまんまとしてやられたではないか。
しかし。今すぐ目の前にある女神の姿に、彼の官能はまるで感じるところが無いのだ。それはよく出来た彫刻のよう、ただただ美しいというだけ。佇まいは冷たく、取り付く島が無い。
嗅覚が、彼に伝える。あの女神にはその美の価値を打ち消してしまうだけの、何かがある。
(多分、よっぽどろくでもねぇ女だ。ま、俺たち人間を創った女神だってンなら、ろくでもねぇのはそりゃそうか……ケッ!)
心中に湧く酸い汁を、ゾルグは敢えて飲み込む。
まずは見定めてやろうじゃねぇか。俺は猟兵、戦の犬。そのモットーは、戦に勝てる援軍になら協力し従うこと……それがどれだけ気に食わない相手でも。
(ああ、あれが……今のが?)
槍にすがって滑り落ちるように、その場に座り込んでいるアグネス。彼女はがっくりとうつむき、女神に目もくれない。
姿など見なくともわかる。それは先程、自分の中にいたのだから。そしてこの上、姿など見たくない。
(あれが人間の創造主……そんな、まさか!)
虚しく一度否定して、ぞくりと体を震わせる。駄目だ、事実には逆らえない。
女神がアグネスの口を使って最初に名乗りをあげ、そしてゲゲリに呼ばれて自分から抜け出した、それはほんの束の間。だが、その時アグネスの心は直に触れてしまったのだ。
ゾルグが猟犬の鼻で感じ取った、女神の魂の危険に、恐ろしさに。
「太母様、今更私が弁を用いずとも、あなたには全てお分かりであるはず。されど、この場の人の子たちに聞かせるためにも。敢えてもう一度論じさせていただきましょう」
輝く女神は巨獣の背に乗ったゲゲリを見上げながら、さらに一歩二歩と前に進み出る。その畏れなき悠然たる歩み。やがて静かに立ち止まって口を開いた。
「我らの創りし諸々の命も、いいえ我ら不死の神々自身も。我らが住むこの宇宙の流転変容には逆らえない。これが今の天地の掟です。
太母様。命が儚いのは、すなわち我ら神々にも滅びる命を救えないのは、神々の力のさらに上にその掟があるから。
違いますか?」
一言一言、輝く女神の言葉は静かで、固く冷たい。聞くゲゲリの渋面は、錐を揉み込まれるように皺深くなる。だがベネトリテはその不機嫌面に一切構わず、さらに。
「ですが。宇宙の変化はまるで出鱈目なものでは無い、そこには一定の機序・秩序・法則がある。
太母様。あなたが私にお与えくださった迷いなき叡智の力で。私はそこまでを掴みました。すなわち、我らが天地の掟に逆らえないのは、その法則の奥底を未だ知らないからなのです。
さてしかし太母様。天地の掟は複雑にして精妙、私の知のみを持ってしては到底解明には至らない。それも私にはわかりました。
思えば太母様。我ら神々は身は強大にして命は久遠。しかし実は、それが妨げなのです。我らは天地全体を一度に見てしまう、見えて聞こえてしまう。だからかえって天地の掟を解きほぐす糸口が掴めない。
この際必要なのは、神々の遠眼鏡ではなく。
世界の細部を緻密に探る虫眼鏡と、それを操る者。
ですから、敢えて私は創ったのです。
知恵浅くすぐに死ぬ、ただしよく増える命。
すなわち人間を。
人間はそうであるが故に。束の間の命を、他のどんな知恵ある種族より激しく、必死に真剣にもがき生きる。そしてその命の営みを持って、一人一人が少しずつ、ただし強欲にそして確実に、天地の様々な富を掠め取っていく……そのために要した知の学びと共に。そしてそれは代々受け継がれ積み重ねられる。
その積み重ね、人間が代々編み上げた知の織物こそが。天地の掟の精妙を再現し、やがて克服する術を教えてくれるのです。
そしてそのために、私は人間から姿を隠しました。創造者である私の存在を呪力を持って忘却させたのです。人間一人一人が自分で自由に考え見つけるのでなければ、世界の真実のかけらは手に入らないから。
今や人間たちは、自分で勝手に偶像を拵えそれを崇拝しています。私はそれを咎めません。自分たちで創った偶像ならば、時が至り偶像と知ればやがてそれを捨てることも出来るでしょう。むしろ、今の人間の信仰が強欲の手段であること、それは私の計画にとって有用なのです。その力が、世界の掟を細分しかき集めるために必要なのです。
太母様、これが私の結論であり、為してきた事です。
そう、遍く命を滅びから救うには、まずは……」
ベネトリテの言葉にここまで耐えて、しかしついにここで、大樹霊の固く結んでいた口が決壊した。
「だがね……だがねベネトリテ!そりゃおかしいじゃないか!
その人間が!お前の許したやりたい放題で、どんどん他の命を滅ぼしてるんだよ?人間は、命を守ってくれるんじゃなかったのかい?お前の言う事はまるで反対じゃないか!」
ゲゲリのその反問は、訴える声は、まるで悲しみに血を吐くよう。
おお、憎むべき恐るべき大敵と皆が思っていた大樹霊の、それは慈母の嘆きの姿。いや、コナマのみはかねてからそれを見知っていたのであろう。そしてゲゲリの傍らに立つシモーヌには、ことに深く心に響く……
だがしかし。
「それは致し方ありません」
平然、あまりに平然。ベネトリテの返事は、枯葉が木から散り落ちる様を評するがごとき調子。
「人間はどんな種族よりも生きることに強欲。従ってもし争えば、どれだけの数が途中で倒れたとしても、必ずいずれ勝つ。私が人間を、そう創り育てたのですから。
さてしかし太母様。
ある種族が人間に滅ぼされるか、天地大地の変遷に滅ぼされるか。それはただ順番と時間の問題に過ぎません。今のままでは、いずれ必ず、虚しく滅びる命というだけのこと。
ですが、その滅亡が人間の仕業によるものならば、少なくとも。その種族の記憶とそれを打ち倒し滅ぼすに要した知識経験が人間に残ります。それを糧として、人間はまた一段賢くなる。そして、そうして蓄えた知の力で、いつの日にか。人間は天地の掟の全てを見極め、それを支配できるようになる。
太母様。その時こそ、それからようやく。あなたがお望みになられた、何者も滅びない新たな世界が開闢するのです。私は、いいえ、私の創った人間たちは。ひとえにあなたのお望みのまま、最善最短の方策を探り辿っているだけ。
ただし。今はまだ道半ばにも至っておりません。従ってこれからも、人間は多くの命と戦い滅ぼすことでしょう。ですがすべては必要な犠牲であり、試行錯誤というものです。
では今度は、私から一つお伺いいたしましょう。
太母様?人間を滅ぼし私の計画を止めた後で、あなたには他に何か、遍く命を永遠のものとする良き対案でも?
……ございますまい。違いますか?」
「ムムム……この……」
ベネトリテの最後の問いは、まるで舌でピシャリと鞭打つよう。そう決めつけられ、二の句も告げないゲゲリ。いや、それは一人大樹霊ばかりではない。その場に居並ぶ一同もすっかり言葉を失う。
叡智のベネトリテ、何たる女神か。
その声は湖の水面のごとく平静冷淡、だが意味するところは苛烈であまりに容赦がない。つまるところ彼女にとっては、人間以外の全ての命は、彼女の理想の世界を造るための贄に過ぎぬのだ。
これが神?人間の?いや……
否。衝撃は受けても、意外ではない。誰もが皆奇妙に腑に落ちてしまう。
(答え合わせが出来た。納得だな)
シモーヌのその心中のつぶやきは、まるでその場の皆を代表するよう。
(己以外の全てを、己の利のために踏みにじることが出来る。それが人間の本質であり、存在の原理なのだ。人間はこの女神に、そう創られたのだから。
そしてその性ゆえに、異種族のみならず、人間は同じ人間をも簡単に踏みにじる、簡単に、簡単にだ!ああクロエ……)
白魔の胸に燃えあがる黒い炎。
(ならば人間どもよ!かつては同じ人間であったこの私が、お前たちを踏みにじる、それも当然あり得べきだ!
……そしてどうする、沼蛇の魔女オーリィよ?これでもお前は奴等に組するのか?)
すると。
そこにつかつかと割って入ったのはメネフだった。
「オッケイオッケイ女神様、あんたの言い分はオレにもよぉくわかったぜ。ちょいと失礼……」
そして即座に。魔城の堂内に、パンと大きく乾いた音が響く。
金色に輝く女神の頬を、彼が思い切り右の平手で打ったのだ。
「殿下!」「坊や!」「ああなんてことを!」
仲間達の声は、喉を出てすぐに岩のように固まる。
「むむむ?!」
さしものシモーヌも驚きに目を見開き、
「ギュゲェェェェェイ!何をする、そこのお前ェェェ!!」
鳥の喉を鳴らし激昂したのはゲゲリ。いかにベネトリテには言い負かされたとて、それは神と神の間のこと。大樹霊はメネフのその振る舞いを、神々に対する許し難き不敬と感じたのだろう。
しかし見よ。打たれた当の女神は打撃の勢いで一瞬顔を背けたものの、向き直った顔には苦痛の色はない。ただきょとんと驚いているだけ。
「ふん、効いちゃいねぇな。ま、そこは女神様ってとこかい?人間程度じゃ傷もつけられないってか?
やっぱり気分は悪ぃな、女を引っ叩くなんてのは。
……ベネトリテ、あんたみてぇな性悪女でも」
憤りに乾く口で、空の唾棄を一つ。メネフはいよいよ怒声を張り上げて。
「オレは決めた。今からそこのデカブツをブチ殺す。コウモリ女もブッ倒す。そんで、ゲゲリのクソババアをケイミーの体から叩き出して、ブチのめして黙らせる……
だがなベネトリテ?オレはアンタの言う通りにゃならねぇぞ、絶対にだ!
オレが戦うのは、オレの家族を守るためだ。その他にはなにも無ぇ。オレは親父を守る、兄貴を守る。
……それに婆さんも、ここにいるみんなも、だ!オレがみんなを守って、オレもみんなに守ってもらう……家族だから、だ!!
そうだ、オレは断じて誰も!ベネトリテ、アンタの仕事のための生贄になんざしねぇからな!!
……わかったかこのクソ女神!!」
銀の指を女神の鼻先に突きつけ、メネフは侮蔑を込めてそう罵倒し決めつけた。
だが女神はあいかわらずきょとんとしたまま。左右の目を寄せて金属の指先をしばし見つめたのち、面に表したのはなんと、微笑。こくりと満足げに一つ頷き、むしろわずかに物柔らかな調子になって、こう答えたのである。
「良い良い、実に、実に。人の子よ、それで良いのです。あなたはあなたの考える通りに戦いなさい。あなたが強く正しければ勝ち、弱く間違っていたなら負けるでしょう。それで良い。
人の子よ、私はあなたに、あなたたちに従属を求めません。奉仕を求めません。私が人の子らに求めることはただ一つ。
超越です。
自由に思うがまま戦い、勝ち進みなさい。神を乗り越えなさい。そして神をも縛る天地自然の掟を乗り越えなさい。
私は女神ベネトリテ、すなわち人の子よ、あなたに乗り越えられるべき者です。今したようにこれからも、何度でも、私の頬を打ちなさい。それがあなたの戦いに必要とあれば。
……そして私を踏みつけ乗り越えて、私の先に征きなさい」
「こいつ……!」
女神のその微笑みに、侯爵の子はむしろ一つ怖じける。理解し難く、したくもない。だが女神ベネトリテには、彼女ならではの固い信念があるらしい……
「フン、つくづく可愛げの無ぇこった。乗り越えろ?ああわかった、そうさせてもらうさ!
……オーリィちゃん、テツ!戦るぞ!!」
「どうするの?どうしたらいい?」「策は?どう動く?」
二人の答えは即座、その号令を待ち受けていたかのよう。声に血気がみなぎっている。すでに戦うということには迷いはまるでないようだ。
しかし答えるメネフはやや憮然。
「済まねぇそいつは、これから考える!だから……」
何と、彼にしていまだ無策!いや、あてがまるでないわけではないが、それには敵の力をある程度見極めなければ……
しかしそうと聞いて、その時。
「ホホホホホ!」「ワハハハハ!」
魔女は雲雀のように天高く、巨人は海鳴りのように深く低く。異形の主従はその笑い声で、見事な和声を成したのだった。
(続)




