第65話 叡智の女神(その1)
「ケケケケケ、ケーッケケケケケケケケーー!」
その場に降り止まない、ゲゲリの哄笑。だがいかに嘲弄されようとも、今度ばかりはメネフもオーリィも他の仲間も一言も返す言葉がない、眼前の大巨獣の威容に気を呑まれて。漏れるのはただ呻き声か、あるいは歯軋りばかり。
すると。一同のその固まった顔色を見下ろして、怪鳥ゲゲリはようやく、そしていよいよ得意げに。
「オーリィ。馬鹿の総元締めのお前に、あたしがお情けでもう一度聞いてやろうじゃないか。考え直しな。もう一度あたしと取り引きってのはどうだい?」
ゲゲリは彼女の人間駆除の企てと、そして魔女と取り結ぼうとして、先には御破産となったあの条件を。魔女の仲間たちにも言い聞かせるように再び繰り返した。
すなわち。オーリィが選び認めた人間だけは、ゲゲリがこれから人間界にもたらす破滅から逃れる事が出来る、と。
驚愕に、そして事態の重さに。固唾を呑むばかりでなおも返事の出来ない一同に向かって、古き神はさらに。
「そうだねぇ?なんなら……もう少しまけてやってもいいか。
なんだっけ?そこの片手の人間?お前の住んでる……国?って言うんだっけ?人間は同じ人間同士なのにくだらない陣地取りで住処の区別ばかりするからね、ややこしくて仕方がないが……
ノーダル?この際そこら辺だけは残してやってもいい。オーリィと、それにコナマも住処にしてたところだ、二人の顔を立ててやろうじゃないか。
……あとの土地の人間は、全部滅ぼす。
これからこの獣を地上に降ろして、人間を住処ごと、端から全部踏み潰していくんだよ。そうすりゃすぐにキレイサッパリさ。元々人間なんて、シモーヌが悠長に鼠で遊んでたから、今までちょいと余計に生きてこられただけ。
あたしはシモーヌみたいに甘かないよ!やるとなったらとっとと、だ!!」
そうゲゲリが怪鳥の喉を使って言い放った、奇怪な響きを。
「ゲゲリ様。それは私が許しません」
打ち消すように答えたのは、コナマだった。
「『この大地に芽吹いた命はすべて、思うがままに生き続けるべし。何者も濫りにそれを殺す勿れ』。
何者も、神であっても、たとえゲゲリ様あなたであっても!
原初の神にして神々そのものの始祖、遍く命を司る大母神、大樹霊ゲゲリ様。
……そのあなたご自身が、そうお定めになったのです。自らにも、誓いとして!お忘れではございませんね?」
「もちろん。だがね……あたしゃもう人間どもには辛抱ならないのさ。だから!だからこそあたしは、ここにお前を呼んだんだよ。
掟を破る神を裁くために、あたしが直々に世に定め置くのが神裁大師。今はお前だ、『神裁きの秘儀』も授けてやった……
もっともあれは今は、ここじゃ使えない。コナマ、お前にゃもちろんわかってることだろうがね」
(神裁きの秘儀……?)
おおそれは、この大樹霊ゲゲリをも封じることが出来る技なのか?いや、ゲゲリの言い方ではどうやらそう。一同のはっとした視線が、小さな大師の姿に集まる。
だがそのコナマは、眉間に皺を寄せて苦渋の顔色。そう、今この場所では、それは使えない。ゲゲリはもちろん、そうとわかった上でコナマをこの魔城に誘い込んだのだろうし、そして。
(わたしもそうとわかっていながら、ゲゲリ様の誘いに応じてしまった。まさか……まさかゲゲリ様を神裁きするなんて……)
話せばきっと、と。大師は今に至るまで、説得からの和解という淡い期待を捨てることが出来なかったのだ。
蒼ざめた大師コナマを見下ろして、ゲゲリはさらに言い聞かせる。
「その掟を定めたあたしが、自分から掟を破ろうってんだ。あたしはお前とだけは、話をつけなきゃならない。それも端から掟破りな話なんだから、理屈抜きさ。
言葉じゃない、あたしは力でお前をわからせる。
……これから、お前が一番頼みにする人間を、お前の前でみんな殺す。それでお前を黙らせる!今そこにいる他の連中はね、みんなその見せしめの生贄なのさ!そうするために、あたしはそいつらを、お前と一緒にここに来させたんだ!!」
おお、それが。古き神がコナマ以外の一同にも、魔城への侵入を許した理由であったのか。その断固たる態度に、そして冷酷無情に、非道さに。今は一縷の望みも失った思いの大師コナマ。
「ゲゲリ様どうして……」
あなたのような方が、と。だがコナマは言葉に詰まる。大師にはわかる、わかってしまうのだ。瞼の裏に浮かぶのはあの「困った男」、彼女を嘲笑っていたあの顔。今の人間たちが、ゲゲリの求める理想の世界に、どれだけそぐわない存在なのか。コナマには否応なくわかる……
(そうだなゲゲリよ)
一方、黙然とその言葉をまずは首肯する者がいる。
シモーヌだ。
(お前は護りたかったのだ。この世の儚い命全てを、せめて平等に、のびのびとな。
しかしそのお前の気持ちを人間は裏切った。だから、同じ人間でありながら人間に裏切られた私の呼びかけに、お前は応え、私に不死の魔女の力を授けた……
わかるぞゲゲリ、私には、この私にはわかる。だが!
……呑めぬ!それは、そのやり方は私には断じて呑めぬ……)
大巨獣の背の上でゲゲリの傍になお黙然と立ち続けながら、白魔は心中で一人唇を噛んでいる。
(ふざけやがって)
侯爵の子メネフは苛立つ。
(てめぇ、ケイミーの体を勝手に使って、よりによってあいつのそのツラで!上から勝手な御託ばっかぬかしやがって!
神?知るか!……俺たちは……てめぇのおもちゃじゃねぇぞ!)
一度は鈍りかけた反撃の心の刃を、彼は再び研ぎ直し始めた。
睨みつけるのは、目前の大氷獣。如何にしてこれに対抗すべきか……?
(殿下よ)
巨人はちらりと目線だけを下に落とす。傍らに立つメネフに。
(お前のこれから用いる策にもし、俺の命が必要なら。いつでもくれてやる。
あの村でオーリィ様は、自分よりもお二人を救えとおおせになった。おそらく今ならば、殿下よ。お前が三人目の数に入るだろう……おおしかしオーリィ様、その時は!
今生あなたをお護りし続けることだけは、叶いません。どうかこの不甲斐なき僕にお許しを……!)
かくて密かに一人決意し、巨人戦士は腹の底に力を溜める。
「……さぁどうするね?全員この場で死ぬか、あたしに頭を下げてお前たちだけは生き残るか?コナマ、それにオーリィ、選びな!!」
二人に止めを刺すように、かくも大喝したゲゲリ。だが。そこで鳥の体の息が切れたのか、あるいは一同の顔色を確かめようとしたのか。呪詛と脅迫の言葉はそこで途切れた。
だが、その時。
「大母様、それでは順序が違います。神裁大師より先に、まず私が黙りません」
凜とその場に貫き通る、一人の声。一同の中からふらりと前に進み出てそう言ったのは、なんとしたことか?
「おいアグネス?!……いや違う……」
追いかけ前に周り込み、肩をとってその顔を覗き込んだメネフ。口調の明白さにまるでそぐわない、その瞳は虚ろ。すぐにわかった。
ゲゲリがケイミーに取り憑いているように。今、アグネスの中に誰かがいる!
「人の子たちよ、それに神裁大師。まず私が大母様と話します。皆、しばしそちらにお退きなさい」
その謎の誰かは、アグネスの手を使ってメネフが肩にかけた手をそっとはらい、そう促す。
対して、黙し息を調えていた風情のゲゲリは再び嘴を開き、憎々しく。
「ああ、その槍だ!その槍に潜り込んで、お前はここに来たってわけかい。さっきはそれでお前に、まんまとしてやられた……よく考えたね。お前らしいよ、小賢しいとこが!
ああそうだね、そうだった……確かにあたしはコナマより、最初にお前から言って聞かせなきゃならないか。
……もっと前に出て来て顔を見せな、ベネトリテ!!」
石突を床に突き、アグネスが体の前に垂直に携える槍が、たちまち眩く輝き出す。そしてその光だけが槍から抜け出して、一歩前に進み出る。光は凝集し、その中に忽然と現れたのは、一人の女の姿。
おお、その名こそ。
人間の始祖、叡智と技芸を司りし女神、ベネトリテ。
さてこの時。テバス岸壁に姿黒々と屹立する大樹の魔城、その根元で。
「やぁ困ったな?ギクゥ?入り口どこにも無いね?」
「ま、そりゃそうだよ、ボホンゴ。母さまはあたしらを締め出して、ここに閉じ籠るつもりなんだからさ、ケック」
そこに一足早く到着した二柱の神は、揃って首を一ひねりの思案顔。オーリィたち吸血鬼討伐の一行が魔城に侵入したすぐ後、その入り口は閉じられ消滅してしまっていたのである。
「じゃあさ、ちょっと一発やってみようか?」
やおら大少年神ボホンゴはからりとそう一言。そして指にむちむちと肉付きの良い、大きさ以外は子供の掌を一度開いて見せて。
そしてそれを握りしめる……見よ。
ギシギシと大きく音を立てながら、その拳はたちまち、岩の巨塊に変わる。それを大きく頭上に振りかぶり、今にも魔城の外壁に激突させようとしたところで。
「よせよせ無駄だ、やめろ馬鹿!」
振り向いたボホンゴとギクゥイーク、声をかけたのは後から追いかけちょうど追いついたグロクスだった。
「見てわからんか?これは力でどうにかなるような結界ではない!たとえお前の馬鹿力でもだ!」
グロクスの怒声に、たちまちしょぼんとなるボホンゴ。すると今度はギクゥイークが憤然と甲高く。
「ギュゲーイ!何だいその言い方、馬鹿は余計だよグロクス!この子がかわいそうじゃないかさ!」
ふん、と顎をしゃくってそっぽを向くグロクス、その肩の上に乗ったノトールオがまたもやとりなすように。
「そうじゃぞグロクス、ボホンゴはまだ幼いのじゃから、そうきつく言うな。じゃがボホンゴよ、グロクスはな?お前のその拳を心配してくれたのじゃ。この壁を殴るのはいかん、やめておけ。
確かにこれは外からはどうにもならぬ。おそらくわしら四人の神力を合わせてものぅ。じゃが、中からならどうにか……ここはベネトリテ頼みじゃて」
「ベネトリテ、ね……クワック」
その名を聞いてギクゥイークは一転、なにやら物憂い顔になる。長いまつげを垂らして伏し目がちに。
「あたしはさ、ケック、あのコ苦手なんだよね……」
「う~ん……」「ちいっ」「むむ……」
顔をしかめるボホンゴ、舌打ちするグロクス、気まずく口をつぐむノトールオ。姿も気性も様々な四柱の神々、だがどうやら、その点だけは意見が一致。
彼らは皆、なろうことなら。ベネトリテには会いたくないのだ……
「まずは大母様、一つこの場で明確にさせていただきましょう」
その時、魔城の挑戦者たちは女神の言葉に皆ぎょっとした。木の枝をポキポキと折るようなそのいかつく冷たい、刃物のような切り口上に。
「私に人間を創れとお命じになられたのは大母様、他ならぬあなたでございます。
『この天と地の間に住まう遍く命、その護り手たるべき、これまでにない知恵ある種族を創造しろ』と。
かつてあなたはそうおっしゃられた。そうでしたね?違いますか?」
「ああ言った!言ったがね、でも……」
と憤然と言い返そうとした怪鳥は、しかしそこでパタリと黙る。奇妙だ。ケイミーの顔でゲゲリが示したのは萎縮。
(ほう?)
ゲゲリに居並ぶシモーヌには、ベネトリテの顔がよく見える。そう、彼女は見た。その女神の何者をも射すくめるような、冷徹な眼光を。
(どうやら只者ではないようだな。いや、無論そもそもあれは神だという。だが)
それにしても。神の神たる大樹霊ですら、この女神のその視線には逆らい難いらしいではないか。
(面倒なことになるか……いや、好機かも知れぬが)
シモーヌはなおも黙しながら、心の中で静かに天秤を構え始めた。
一方。
(そんな……ああこんなことって)
ベネトリテのその声に、仲間の誰とも違う種類の戦慄をしている者が一人。
オーリィだ。
(似てる……あの声、あの話し方……シモーヌにそっくりだわ……!)
(続)




