051
私が驚きの視線を送っていると、少女の方も気がついたのか、はっとした表情になってすぐに心配そうな表情で歩み寄ってくる。
少女は私より少し小さく、背中には大きな鞄を背負っていた。
「あ、突然声をかけてしまって悪かったわね……けど酷い格好よ? 大丈夫?」
「ぇ……あっ」
自分でも、なぜこの少女から逃げ出さなかったのかは分からない。本来ならば逃げないといけない相手なのだ。
その少女の真っ白な頭にある耳と特徴的な尻尾を見れば、亜人族である事がすぐにでも分かる。
……だと言うのに、少女に手を取られるまでは、呆けていたのか何も出来なかった。
そして感じる少女の手、私の手をふんわりと包み込み、壊れないようにと優しく掴み、蹲ったままだった私を立たせてくれた。
「えぇと、なんかあちこち怪我してるわね……それに汚れちゃってるし、本当に大丈夫?」
「え? ……あ、うん」
この人は一体何を言っているのだろう?
言われている言葉はわかるが、理解が追いつかない。
「うん、とりあえず綺麗にして――って、そこにあるの何? もしかしてそれ食べているの?」
「う、うん」
「あーもう、食べたらダメなのもあるじゃないの。はぁ……後で何か持ってきてあげるから、ちょっと我慢しなさい」
「……」
そこまで言われて、ようやく私は我を取り戻す。
いきなり予想外な出来事だったのでしばらく呆けてしまっていたが、慌てて表情を引き締め、何とか警戒しようと少女を見る。
わけがわからない。
どうして私にそんな心配そうな目を向ける? なんで楽しそうに私の髪や体についてたゴミを払ってる? 自分のご飯をなぜ私に?
「ん? 急に黙ってしまって、どうしたのよ」
「……ぇ、だって……」
「えっと、何か嫌な事しちゃったのかしら? ごめんね? 私、普段お姉ちゃん以外とあまり喋った事なくて……あ、そうだ! アナタ名前はなんていうの?」
確かにこの子は自分で言うように、あまり話し慣れていないのだろう。私が答える前に別の質問をしたりと、息を吐く暇も与えてくれない。
そう偉そうに考えいるが、私だって他の子とあんまり喋ってはいないので会話がとても難しく感じる。多分この子は喋り続けてしまう子で、私は黙ってしまう感じなのだろう。
と、何か聞かれたのだった。なまえ……なまえ?
なまえってなんだろうか? そう思って少女を見てみると、不思議そうな表情で見返された。
う、何か言わないと……。
「あ……と、なま、な……」
「うん?」
なまえって何? と聞こうとしたのだが、何だか見つめられ続けていると喋りづらく、舌が回らない。
すると少女は何を勘違いしたのか、なぜか自信満々な表情で頷く。
「あーとなま、ちゃん? んん? うん、わかったわ! じゃあアナタの事、『あーちゃん』って呼ぶわね!」
「へ?」
そこまで言われ、初めて名前について理解する。
そういえば私達って、お前、キミ、アレ、ソレなどと言われているだけで、その子自身をあらわす言葉が無かった気がする。
そう考えるとこの少女の言った『あーちゃん』が、初めて個人として呼んで貰えた私の呼称になる。
「あーちゃん?」
「そうよ、あーちゃん! どう? 可愛いと思うのだけれど、気に入らないかしら……」
少女は先程の自信満々だった表情から一転し、不安げな表情で見つめてくる。
逆に私は私で今まで感じた事のないものを感じていて、とても困惑していた。
「……やっぱり嫌よね。そうよね、私なんかと親しそうに呼び合いたくは無いわよね」
だが私が何も言わないでいると、少女の表情が徐々に泣きそうな顔になっていく。
気づいた時には、慌てて口を挟んでいた。
「う、ううん! 気に入ったよ!」
「……ぇ? そ、そう!? ふふっ、良かったわ!」
そういうと、少女はすぐに笑みを取り戻して胸を張った。
そんな彼女を見ながら、私は安堵すると同時にさらに困惑を深める。
……さっきから良くわからない。何で慌てたり、安心したりしてるんだろう。
「それじゃあーちゃん、体を綺麗にするわよ! 今日はその為にここまで来たのだしね、私」
少女が指を差すと、そこには大きな深い皿のような入れ物が置いてあった。
どうやらこの中に水を入れ、そこに入って体を洗う用途ようだ。
「桶で水を掬って、この中に溜めていくの!」
そう言った少女は近場に背負っていた鞄を下ろすと、その中から桶を取り出しつつ説明してくれた。
「あ、だったら……『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』、『第一節 アクアボール』」
「えっ!?」
私が水玉を出すと、少女は驚いた声を上げて私を見る。
しまった、もしかしてこの水玉って普通じゃない?
「え、えっと……これでお水、溜まった、よ?」
「……」
「……うぅ」
私がそう続けるが、少女が黙ったまま水の溜まった深い皿みたいなのを見て止まってる。
もしかして魔人族ってバレちゃった? だったらすごく不味いかもしれない。
閉じ込められていた時に色々無理矢理聞かされていたので知っているが、私達魔人族は多種族に捕まると、死ぬよりも恐ろしい目に合わされるとか。
……あああ、そういえば不思議な力を使うと、すぐ気づかれて人が押し寄せてくるって聞いた気が……現に襲ってきた男の人達も気づいていたし、まずいまずいまずい!
「よくやったわあーちゃん!」
「――へ?」
「魔法が使えるなんて凄いじゃない!」
「え? な、なに? ま、ほう?」
気が付くと私は少女に飛びつかれ、ぎゅーっとされていた。
予想外すぎる対応にどうしたら良いのかわからなくなり、少女にされるがままにされる。
少しして少女は満足気な表情で体を離すと、気合を入れるように宣言する。
「よーっし、あーちゃんが水を入れてくれたから、私も頼れる所を見せなきゃ! 早速温めるわね!」
「っ!」
「……私は出来る子、凄いお姉ちゃんの妹、だから絶対失敗しない! すー、はー、よし! 『紅の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「へ?」
「『第一節 ファイアボール』」」
今度は私が驚く番だった。
緊張した表情で少女がそう呟くと、近場に火球が二つほど出現する。
それを少女は緊張した表情のままゆっくりと移動させ、溜めたお水の中へと火球が入ると、変な音と共に湯気が立ち込めた。
「よ、良かったー……なんとか成功出来た」
「……」
「! っふ、当たり前の結果ね! いつもどおりだわ!」
私が見続けているのを少女は勘違いしたのか、取り繕うような表情で胸を張っている。
何だろう……魔法を使って焦っていた私が馬鹿みたい。
「よーし、じゃあせっかくだし一緒に入るわよ!」
「え?」
「ふふふー。お姉ちゃんに教えてもらったのだけど、このお風呂のお湯に浸かるとすっごく気持ちが良いのよ! あーちゃんも疲れてるみたいだし、癒されるわよ~?」
少女はそういうと、おもむろに着ていた服を脱ぎだし、惜しげもなく素肌を晒した。
私は少女の行動にまたもや理解が追いつかず、綺麗な肌が目に入る少しの間までずっと眺めてしまっていた。
その為か、さきほど少女に言われた言葉をすっかり聞き流してしまっていたようだ。
「さ、あーちゃんも脱いで」
「あ、うん……え!?」
そういえば、聞き違いでなければ一緒に入ろうと言っていた。
という事は私も服を脱がないといけない……って、それは無理だ。
せっかく魔人族だって気づかれて無いのに、背中の翼を見られたら一発でバレてしまう。
自分でもわからないが、何故かこの子にだけは自分の正体に気づかれたくなかった。
「ほらほら、冷めちゃうわよ」
「……わ、私はいい」
「そんな事言ってー! あ、なら私が脱がせてあげるわ!」
「や、やだ……!」
私は両手で自分の肩を抱きしめながら後ずさると、裸で迫る少女はしばらくふざけていたようだったが、私の顔を見たところで態度を一変させる。
「あ、えっと……悪かったわ、あーちゃんがそこまで嫌がるとは思わなかったの」
「……?」
自分でも気づかなかったが、どうやら泣いしまっていたようだ。少女の反応に、初めて遅れて頬を伝う感触を感じた。
え? 何で?
確かに私はよく泣く。でもそれは辛くて、苦しくて、そして寒くて涙が出てくるのだ。
でも今はちょっと違う気がする。
「ご、ごめんね? 本気で嫌がってるとは思わなくて、調子に乗っちゃったわ」
「うぇ……ひっく、ぐすっ」
「悪かったわ、だから、その」
私は溢れる涙を手の甲で拭いながら、言葉を止めた少女を不思議に感じ、顔をあげる。
するとそこには、凄く悲しそうな顔があった。
「もう遅い、かも、だけど……嫌がる事、しないよう、気をつける、から」
少女は言葉を切って、何かを堪えるように言葉を続けていくが、徐々に声色が安定しなくなっていく。
そして、やがて彼女の頬にも一筋の雫がこぼれる。
「えぐ……き、嫌わないでぇ」
そう言った彼女は蹲り、小さく嗚咽を漏らす。
突然の変化に私は驚ろくが、それ以上にこの少女が泣く姿を見て、色々な感情がこみ上げてくる。
「お姉ちゃん、帰ってこないし、一人はもう、嫌ぁ……」
不思議な感じだ。
出会って間もない人なのに、なぜか自分と似ていると感じてしまった。
そして気付けばどちらともなく互いに寄り添い、二人で抱き合って泣いていた。
すっかりお湯が冷めた頃、ようやく落ち着いてきた私たちは、お互い微妙に視線を逸らしていた。
こんな事今まで無かったので表現し辛いが……言葉にすると何というか、とても気恥ずかしく感じていた。
チラっと向こうを見てみると同じようで、どことなく頬に赤みが差している気がする。
そうして見ているとまた目が合い、二、三度お互い逸らすが、なんだか可笑しくなって噴出してしまった。
「っぷ、あはっ、あはは!」
「ふふっ」
目の前の少女も同じ気持ちだったようで、二人して笑いあう。
胸にじんわりと広がる暖かい気持ち、そしてこうして誰かと一緒にいる実感を持てた事は、これまで生きてきて初めての感覚だ。
「ふふっ、突然ごめんね、びっくりしたでしょう?」
「うぅん」
「そっか、良かったわ……っくしゅん」
「だ、大丈夫!?」
そういえばこの子、ずっと裸のままだった。
私は急いで脱ぎ捨てられた服を取りにいこうとするが、少女にやんわりと止められてしまった。
「もう一回暖めなおしてから、すぐに入るわ」
「う、うん」
「あぁあと、あーちゃんも綺麗にしない?」
「え?」
「あ、違うわよ? 一緒に入るという訳ではなくて、出たら食べ物を持ってきてあげるから、その間に入ってしまわない?」
彼女の提案に、またしても答えが詰まってしまう。
別に一緒に入りたくないわけでは……うぅん、むしろ私が魔人族でなければ、喜んで入っていただろう。
でも少女の言うとおり汚い格好でいるのは事実だし、何より好意的に勧めてくれているのに、これ以上断るのはとても悪い事をしている気持ちになってくる。
うぅ……だけど見てない時にさっと入ってしまえば大丈夫なのかな? この子もこう言っている以上、隠れて見ようとなんてしないよね。
だったら、良い、かな。
「でも、無理なら……」
「……入る」
「そう? ならちょっと待っててね、あがったらついでに服も取ってきてあげるから」
「うん、わかった」
その子はそう言うと、改めて火球を使って温度を上げ、私の目の前でしばらくお湯に浸かると、満足した顔で出てくる。
そして体の水気を持ってきていた布で拭うと、これまた手持ちにあった綺麗な服を着込んで向き直った。
「じゃ、ちょっと行って来るわね! ……その前にお水汚れたし、かえとこっか。まだ魔力に少しだけなら余裕あるし、あと一杯分なら暖められるわよ」
「うぅん、大丈夫だよ」
「わかったわ。じゃすぐ戻ってくるから、ゆっくりしておいてね? ……戻ってきていなかったら、いやよ?」
少女は気を使って新しい水で沸かしなおそうとするが、断りを入れる。
私としては別に気にならないというのもあったが、今の彼女の言葉と表情からどことなく疲労の色が見えていたので、無理しないで欲しいと思ったからだ。
その後何度も移動しない事を確認され、ようやく納得した少女に手を振って見送った。
少女が見えなくなった頃、私は周りをよく見回し、誰もいないことを確認すると服を脱ぐ。
「えぇと、このまま入れば良かったよね」
まだ暖かいお湯に恐る恐る足を入れて、下から順番に浸かっていく。こうして体を洗うのは初めてなので、少し変な感じだ。
あの部屋にいた頃は、たまに部屋に向けて適当に水を掛けられたり、着替えだってほとんどする機会が無かった。
「なんだか落ち着かないな……んしょ、んしょっ」
先ほどの少女の動きを思い出して、体を清めていく。
浸かっているお湯から感じる温度や、ぱしゃぱしゃと響く水音は耳当たりが良かったが、ただ背中が露出しているためかどうしても気が急ってしまう。
あらかた汚れが落ちたことを確認した私は、すぐに冷めてきたお湯から出て、少女が使っていた布へと手を伸ばす。そうして体を拭いたあとに、ある事に気がついた。
「あ、服」
先ほど少女は別の服を着なおしていたが、自分にはこの汚いボロ布しかない。
「ど、どうしよ、背中隠さないと」
そういえば、少女は一緒に着替えを持ってくるといっていた気がするけど、それだともう遅い。
少女が帰ってくる前に何かしらで背中を隠さないと、せっかくわざわざ別々に入った意味が無くなる。
もうさっきまで来ていたボロ布を着なおすべき? けど改めて見てみれば臭いもひどいし、なにより体を綺麗に洗った意味までなくなってしまう。
「うぅー……あっ!」
そうして少し泣きそうになりながらあたふたとしていると、視界にあるものが映った。
少し皺が寄ってしまっているが、私が着ていたボロ布よりずっと綺麗な服……つまり、さっきまであの少女が着ていた服だ。
見た感じからして、汚れているようには見えない。
匂いは……
「……ほっとする」
私は少しだけ迷うと、ためらいながらも腕を通した。
ほどなくして少女が帰ってきた。
急いで戻ってきたのか、額に少し汗が滲んでいる。
……せっかく汗を流した後なのにと思うが、黙っておく。
「はぁ、はぁ……良かった、まだいてくれたのね! って、その服」
「ご、ごめん。服、持ってなかったから……」
「あ、いや、それはいいのよ? たださっきまで私が着てたし、少し臭うでしょう? 嫌じゃないの?」
私は首を横に振ると、襟の部分をぎゅっと掴んで口を開く。
「嫌じゃない」
「けれど、新しい服も持ってきたわよ?」
「……これが良い」
「わかったわ。あ、そうだ、食べ物も持ってきたわよ~」
少女はそう言うと、手持ちの荷物を漁り出すのを見て、安堵の息を漏らす。
もしどうしても着替えるよう言われたらどうしようかと思っていたのだ。……それに、この服の匂いも気に入っていたので、二重の意味でほっとした。
そんな事を考えていると、少女は細長い物を取り出して渡してきた。
「……?」
「? パンよ? 見たことない?」
「う、うん」
「へぇ……まぁ良いわ、そのまま口に入れて大丈夫だから、食べてみて」
少女はそう言うが、こんな食べ物見たことがない。
私にとっての食べ物は、少し乾燥した果実や、筋張った固い肉だけだった。
とりあえず少女の言われた通りに、はむっとかぶりついてみる。
「……ふぁはい」
「ごめんね、柔らかいパンはごく稀にしか手に入らなくて、今はそれしかないの」
う、そんなつもりは無かったのだが、また少女を困らせてしまったようだ。
思った以上に固かったが、それでもしっかりと力を入れて噛もうとすればなんとか食べることが出来たので、問題ない事を伝える。
「おいしい、よ」
「ホント!? 良かった」
「ん……」
なんだか今日この少女と出会ってから、ずっと変だ。
でも不思議と悪くはなくて、むしろ心地よく感じる。
「さて、と」
食事が終わると、少女は荷物を纏めながら口を開いた。
「あーちゃん、私そろそろ帰るわ」
「え……?」
そういわれて初めてこの時間が終わっていまうものだと気がついた私は、なんともいえない気持ちで少女を見上げる。
なぜかこのままずっと一緒にいるものだと、無条件に思い込んでしまっていたのだ。
「いなくなっちゃう、の?」
「……もう、なんて顔してるのよ。あ、そうだ! あーちゃんもウチに来ない? 今はおねーちゃ……こほん、家に誰もいないから来ても大丈夫よ」
どうやら泣きそうな表情をしていたらしい。
少女はそんな私をあやすように言ってくれた。
「ウチ?」
「えぇ、私の住んでいる里よ」
「さと……」
どうしよう、出来るならこの不思議な少女について行きたい。でも里って言えば村と同じで、他にも人がいるだろう。
幸いな事に、まだこの少女に私が魔人族だと気づかれていないと思うが、人がいっぱいいるところへ行けば別だろう。きっと隠し切れない。
それでもしバレたら……きっとこの子も……
やだ! そんなの絶対嫌だ!
他の人にあの目で見られるのはまだ良い……ホントはちょっとやだけど。
でもこの子にそんな目で見られたら、きっと私は、私は……
「ぅ、うぇ……ひっぐ」
「えぇ!? 急にどうしたの!?」
「一緒に、行けないの……」
「……そう、わかったわ」
また泣いてしまった。今日はいつも以上に泣いている気がする。
けどだって、この子と別れてしまえばもう会えないかもしれないのに、付いていく事が出来ないのだ。
私だって本当は一緒に行きたい、でも魔人族という事が邪魔をする。思っても仕方ないが、もし私が魔人族じゃなければと考えてしまう。
そう思うと悔しくって、情けなくて、それでいて理不尽な事に怒りがわく。
どうして私は魔人族なのだろう。この子と同じ亜人族だったなら、こんなに悩む必要だってないのに……!
「だったら、私がまたここに来てあげるわ!」
「……へ?」
「ふふっ、私とあーちゃんはもうお友達なんだから、明日もまた遊びに来て上げるわ」
「本当に? ここにまたきてくれる、の?」
「えぇ、住んでいる所からもそう遠くないしね」
そう言って微笑む少女を見て、私は胸を撫で下ろす。
また来てくれるんだ、嬉しい。
「それじゃ、また明日ね」
「うん、待ってる!」
少女が去って一人になった私は、水面を見つめながら今日あった出来事を思い返す。
今日の私はずっと変だった。
少女の反応に焦ったり、喜んだり泣いたりと、とても目まぐるしく感情が揺れていたと思う。
でもその事は決して嫌ではなかった。こうして落ち着いて考えてみると、私はあの少女の事をとても気に入っているようだった。
いつも何があっても眺めるだけで、自分には関係の無いことだと考えていた事が噓のようだ。
今では明日をとても待ち遠しく感じる。
「……あーちゃん」
少女に貰った名前を呟くと、なぜか頬が緩むのを抑えられない。
服の襟を引っ張って匂いを嗅ぐ……うん、落ち着く。
「えへへ、あーちゃん」
人からあんな接し方をされたのは初めてだ。
それに自分がこんなに暖かい気持ちになれるなんて、知らなかった。
そこでふと気づく。
「……暖かい?」
そういえば、今の今まで寒さを感じていない。それどころか、私が求めて止まなかった暖かさを感じている。
絶対に手に入らないと思って死も考えていたのに、少女に出会って簡単に見つけることが出来た気持ち。
……だがそれは、私が魔人族ではなく『あーちゃん』だから手に入れたものなのだろう。
この薄氷の上に成り立つ関係は、『あーちゃん』から魔人族になった瞬間、すぐに壊れてしまうのだと思う。
それは嫌だ。
自分とは縁がないと諦めていたものが、せっかく手に入ったのだ。次の機会なんて不確実なので、しがみ付いてでも逃したくない。
私はそう決意を固めると、近くの大木に背中を預けて目を瞑った。
「あーちゃんは今日も早いわね」
「うん!」
あれからしばらく経つが、少女は毎日来てくれた。
毎日顔を合わせる事が出来て、私はとても嬉しかったけど、少女の家の方が大丈夫なのか気になる。
その事をなんとなしに聞いてみると、「家には誰もいないのよね……」と苦笑混じりに言っていた。
彼女とは、色々な事をした。
もっぱら魔法の練習を一緒にする事が多かったが、たまに森の中を探検したり、一緒に秘密基地を作ったりなんかもして、毎日がとても楽しかった。
ちなみに今の私が住んでいるのも、その秘密基地だったりする。
そして今日は魔法の練習をする予定だったのだが、彼女の様子が少しおかしい。
なんというか、歩き方から左足をかばっているような感じがする。
「どうしたの? 体調良くない?」
「そんな事ないわよ? 普段通り元気よ」
そういって私の横に座ろうとしたとき、ちらりとスカートの下に怪我を見つけた。
「怪我してる!?」
「っ、ちょっと転んじゃったのよね」
「転んで……?」
そんなわけない。
膝を擦りむいた程度なら信じられるけど、見た怪我はもっとひどかい。切り傷、擦り傷、打撲といったものがたくさんあったのだ
……今日の少女は長袖に丈の長いスカートを履いている。
そういえば、最近彼女がお風呂に入っているのを見ないし、今着ているような手足を隠せる服ばかり着ている気がする。
「誰がやったの?」
「いや、だから少し派手に転んでしまっただけなのよ? 強いて言えば自分の不注意のせいかしらね」
「……むぅ」
私の質問に、少女は困った表情でそう言い募る。
誰かに何かされたのは間違いないと思うけど、それでこの子を困らせる事は『あーちゃん』に出来ない。
腹立たしいし、言ってくれない事に寂しさも感じるが、それでも彼女に嫌われたくないので、全部ひっくるめて心に仕舞って蓋をする。
私はそうして表情を作りつつ、普段の『あーちゃん』を意識して対応を戻す。
その日は日が暮れるまで少女と魔法の練習を行った。
「ばいばーい!」
「また明日来るわねー!」
少女に手を振って別れると、あーちゃんから私に戻る。
「……さて」
私があーちゃんでいられるのは、全部あの少女のお陰なのだ。だからこのまま見過ごすなんて絶対に出来ない。
原因を調べるため、少女に気づかれないよう静かに後を追った。
私も毎日何かされているとは考えておらず、この調査には何日かかかると思っていたのだが、拍子抜けするほど簡単に犯人が分かった。
そのことに決して愉快な気持ちにはならないが、少女を傷つけた報復を早期に行える事は、都合が良い。
そう考えながら木々に身を隠しつつ、目の前の光景を眺める。
そこには少女と同じ亜人族の男が、五人で彼女を囲んでいた。
「おい、てめぇは何度言わせればわかるんだぁ?」
「王都から召集が来れば、次はお前なんだぞ? ほいほい里を抜け出してんじゃねぇぞ」
「でも、ちゃんと夜には戻ってるじゃない」
「あぁ?」
「それにお姉ちゃんだって、きっと帰ってくるわ!」
どうやら何かを言い争っているのが見える。
それにしてもあの少女、自分より大きな男に対しても一歩も引く様子がない。やっぱり格好良いなぁ。
「っぷ、くくっ……まだ言ってんのか? アイツが連れてかれてから、もう結構日が経ってるんだぜ? とっくにくたばっちまってるだろ」
「魔物討伐より献上品として王都で身売りでもすりゃ助かってるかもしれねぇが、あの性格じゃなぁ」
「まったく、それならいっそ出発前に無理やりヤってれば良かったな。アレで、里では一番綺麗だったしよ」
「やめてよ! お姉ちゃんは絶対帰ってくるんだから!」
少女はみるみるうちに目に涙を溜めていくが、男たちは知ったことかとばかりに続ける。
「お前らも里の中でもっとうまく立ち回ればよかったんだよ、な? 混じりもの」
「親が冒険者かなんだか知らねぇが、人と俺らの血を混ぜやがって、反吐が出るぜ」
「これ以上里を抜けて面倒掛けさせるなよ? お前はおとなしく、次の順番を待てばいいんだ」
「……ぐすっ、お姉ちゃんは、生きてるもん、きっと今回だって、魔物をやっつけてるもん」
ついに少女は泣き出してしまった。
それを見ている私は、そろそろ我慢が出来なくなってきている。
自分も同様の扱いを受けてきたのだが、それをあの子にされるのは無性に苛々する。
だが、そんな事すらどうでも良くなりそうな事が、目の前でおこった。
「ったく、聞き分けのねぇやつだな……っと!」
「うぐっ!?」
……ちょっと待って、何をしているの?
あの男はありえないことに、彼女のお腹を思いっきり殴った。
さらに痛みでうずくまった少女に対し、何度も蹴りを入れて転がしている。
「おら、さっさと立て! おら、おら!」
「いぎっ! い、痛い、止めて……」
「てめぇが聞き分けの無いことばっか言ってんのが悪ーんだよ!」
「っぷ、とか言いながら、従順でもお前は同じ事しそうだけどな」
「はっ、違いねぇ」
男達は何が楽しいのか、そんな事を言いながら笑いあっている。
蹴り続けているのはさっき殴った男のみなのだが、なぜアイツを止めずに談笑なんて出来るのか。
「ふぅ、これでわかったな? 次出たらこれくらいじゃすまさねぇぞ」
「まぁたしかに里の中で出来る憂さ晴らしを、わざわざ毎回こんな所まで来てやるのはそろそろ面倒だしなぁ」
「う、ぅぅ……いたっ」
「……ふむ」
男は蹴りを止めたと思うと、少女の真っ白で綺麗な髪をぞんざいに掴み、顔をジロジロと見る。
おい手を離せ、その髪の毛は私のお気に入りであり、彼女も自慢にしてたんだ。そんな汚い手で触るな。
はぁ、ふぅー……だめ、落ち着いて。
ここで手を出してしまえば、少女に気づかれてしまう。あーちゃんのままでいるには、魔人族である事を隠す必要もあるのだ。
私は奥歯が割れそうなほど噛み締め、掌に爪が食い込んで血が出ている事も気づかない振りをして、その光景を見守る。
「よし、明日からは殴るのを止めてやろう。その代わり、家で大人しくまっていろよ?」
「おほっ、まだ早くないか? 確かに顔は綺麗になってきたけどよ」
「あぁ? これ以上成長しちまったら、反撃されるかもしれないだろ? 早めに仕込むんだよ」
「なるほど、頭良いな」
「だろ? っぷ、はははは!」
「……」
そういってようやく気が済んだ様子の男達は、少女をその場に残し、来た道を戻っていく。
それを見送る少女は力なく項垂れており、痛みなのか、それとももっと別の事なのかはわからないが、放心した様子でしばらく動く素振りはなさそうだ。
私はそれを確認すると、少女に駆け寄りたい感情をぐっと堪え、そっと男たちの後を追った。
男達が里に戻っている途中、少女と充分距離が取れたのを確認してから、道をふさぐようにして姿を現す。
「……ん? なんだおまえ」
「見ない顔だな。それに、人間か? こんなところで珍しい」
「……」
男達の耳障りの悪い声が頭に響く。
本当なら姿を見せずに襲ったほうが早かったと思うが、それでは私の気が治まらない。
「よう嬢ちゃん、どうした迷子か? 何なら里まで連れてってやろうか? お代はその体でいいぜ」
「おいおい、明日まで我慢できねーのかよ」
「だってよ、さっきのアイツ見てたら、なんかこう溜まっちまってな」
「分かるわー、ちょっと殴っただけで怯えてたもんな。あの泣きそうな顔はやばいわ」
「……」
私は男達の言葉を無視して、小声で魔法を紡いでいく。
「おい、こいつ急にぶつぶつ言い出したぞ」
「っぷ、怖がってんじゃねーのか?」
「……」
「あん? 聞こえねぇな、何言ってんだ?」
「お前らはイラナイって、言ったの――『第三節 フロストフォグ』
詠唱が終わると、辺り一面が冷たい霧で覆われる。
その霧に触れたものは、徐々に下から凍りついていき、範囲内にいた男達の足も膝下まで固まっていくのが見えた。
「なんだこりゃ? 魔法か?」
「急に冷たく……あ、足が!?」
「う、あ、ぁ……」
魔法の練習の甲斐もあって、私の扱える魔法も幅が広がっている。
これはあの少女が練習の時に持ってきてくれる本に書いてあった魔法で、対人に対して初めて使ったのだが、存外うまく言ったようだ。
このまま全身を凍らせてしまっても死ぬと思うが、それだけでは溜飲が下がらない。
私は男達の首下まで凍るのを待って、魔法を解除した。
「なんだこりゃ! くそ、動けねぇ!」
「なにしやがる! てめぇふざけんなよ!」
「そうだ! 俺達は別にお前に何かしたわけじゃないだろ、とっとと元に戻せ!」
「……」
男達は口が動かせる事をいいことに、つばを飛ばして捲くし立ててくるが、私はその一切を無視して、直立不動になった男達の下へゆっくりと近寄る。
「お、おい……何をする気だ?」
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「やめろ! おいこら、聞いてんのか!?」
「『第一節 アイスニードル』」
「ひっ!?」
私は男達が聞こえるように詠唱を紡ぐと、四本の氷柱を作る。
そうして一人に視線を移し、ゆっくりと手を持ち上げて指差す。
「いらない」
「なっ、うわぁぁぁ!?」
「イらない」
「あぁぁああああ!!」
「いらナい」
「や、やめっ! ぎゃああああ」
「イラナイ」
「あっ、ひゃあああ」
そのまま一人ずつ指差す相手を変えつつ、氷柱を突っ込ませていく。
狙うのは胴体部分で、当たった瞬間に深く抉れる様に砕け散る。男達に痛みはないようだが、恐怖で絶叫しているようだ。
それをもう二、三度繰り返していき、ついでに手足も砕いておく。
とりあえず四人はこれで終わり。
足も砕いているので、男達は地面にうつ伏せか仰向けの姿勢で倒れている状態だ。
今はまだ生きているが、魔法を解除すればすぐに息絶えるだろう。
さて、後は直接あの子を殴ったり蹴ったりしていた男だけだ。
と、その前にそろそろ移動しておいた方が良いだろう。
あの子もおそらく同じ道順で戻るはずなので、氷ごと男達を移動させる。
私が生み出した氷は自由意志で動かす事も出来たので、道から外れたところへの運搬は楽に終わった。
「なんなんだよお前、なんなんだよおおおおおおお!?」
「……」
「ひっ、ちょ、やめ、やめろ! 何か言えよ!」
「……」
私は耳元で騒ぐ男の体を、黙って丁寧に持ち上げ、地面に寝かせる。
他のヤツら以上に、こいつにはあの子の苦しみを味わって貰わなければならない。
仰向けの体制になった男の頭のそばにしゃがみ込むと、じっと見つめる。
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「何で!? 何でこんな事するんだよおおお!」
「『第一節 アクアボール』」
「水? な、なにを――がぼぼぼ」
水玉に頭から首まで包まれた男は、苦悶の表情で首を必死に振って足掻くが、体は凍っているので動かせない。
やがて反応が薄くなってきたので、水玉を解除してやる。
「――げほっ! がは、ごほっ! はぁ、はぁ」
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「っひ!」
「『第一節 アクアボール』」
「やめ――がぼっごぼぼぼ」
二回目は少し慣れたのか、男は息を止めて我慢しようとする。
……まぁ我慢したところで、横でじっと観察している私が限界を判断しているので、まったく楽にはならないと思う。
それにしても、これだけ魔法を使っているのに魔人族だと気づかれない。森に来てすぐに出会った男たちには気づかれたというのにだ。
もしかすると亜人族は魔力がないせいで、あんまり魔力の性質を感じられないのかもしれない。
私はそんな事を考えながら、繰り返し水玉を被せては解除を繰り返していく。
「……」
「ごほっ、ごほっ……もう、簡便して下さい……お願いします」
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「本当に、何でもします、それかもう、殺して、下さい」
「『第一節 アクアボール』」
「やめ、苦しむのはもう――ごぼぼっごぼっ」
もう何度目か数えるのも面倒になってきた頃、そろそろ反応が薄くなってきたので、仕上げに取り掛かる。
私は男にかぶせていた水玉を解除すると、他の四人も寄せて一箇所に集める。
「はぁ、はぁ……」
「俺のうでぇ……、俺の足ぃ……」
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「あはは、これは夢だ! はははは!」
「『第一節 アイスバレット』」
私は詠唱と共に小粒の氷を無数に出現させると、男達に向けて一斉掃射を始める。
数秒後、掃射を止めて様子を確認すると、男達の首下は完全に粉々に散っており、首から上も穴だらけになっていた。
私は一仕事を終えると、明日来てくれる少女の事を考えながら、秘密基地へと帰路についた。
翌日、少女は息を弾ませて走ってきてくれた。
「あーちゃん!」
「あ! おっはよ~!」
そのまま少女の表情を確認すると、いくらか明るさが増しているように感じる。
その事にたまらず嬉しさが溢れてきたので、とりあえず抱きついておく。
「会いたかったー!」
「そんなに待ち遠しかったの? ふふっ、変なあーちゃん」
「えへへ」
少し、ほんの少しだけ、昨日の男達が言っていた言葉で、少女がもう来てくれないのではないかとの懸念もあったのだが、杞憂だったのがわかり心底安堵した。
これで邪魔者もいなくなり、これから先はこんな時間がずっと続いていくんだ――
「今日は何をしよう?」
「じゃあ今日はね」
――……そう思っていたのに。
突然ガサガサと、草木を掻き分ける音が聞こえたかと思うと、声を掛けられた。
「おや? 君は」
「っ!」
その声に恐る恐る視線を向けると、そこには以前獣に追いかけられた魔人族の男の子二人が、さらにやせ細った姿でいた。
まさか、生きていたなんて……!
そんな事よりも、これはすごく良くない。もし少女に彼らの正体を知られれば、きっと私まで魔人族だと気づかれてしまう。
なんで、なんで邪魔をするの! せっかく邪魔者を排除したのに、これじゃ意味が無い!
「生きていたのか……お陰でこっちは散々だったよ」
「……だれ?」
私は咄嗟に他人のふりをする事に決めるが、彼らはそれを許してはくれないようだ。
「ははっ、冷たいな。一緒に逃げ出した家族じゃあないか」
「家族は助け合って生きていくもの、だよな?」
「っ!」
男の子が私の肩に手を置こうとしてきたので、咄嗟に手を払って後ろに飛びのく。
何が家族だ! あんな寒さしかない場所には、もう戻りたくなんてない……私は魔人族じゃなく、あーちゃんなんだ!
「……あーちゃん?」
「知らない! あーちゃんはこんな人たちの事、知らないんだよ? ほんとうだよ!?」
「うん? あれ、キミは亜人かい? ……へぇ」
「もうかえってよ! こないで!」
「てめぇ、役立たずな分際で……」
「ほら、ちょっと待ちなよ」
この理不尽な状況に、つい感情的になって叫んでしまう。
それを見た魔人族の男の子はもう一人の男の子を宥めつつ、薄ら笑いを貼り付けて私たちを眺めていた。
「そうだね、わかったよ……けどね、ボクらちょっとお腹がすいていて、歩けないんだ。少し食料を分けて貰っても良いかな?」
「なに? 食べ物が欲しいの?」
「うん、分けてもらえるかな?」
「それはまぁ……あーちゃんも良い?」
「…………ぅ」
やだ! すごく嫌だ!
でも少女は彼らに少し同情しているようで、男の子が帰ると言っているのも手伝ってか、食料を渡す気でいるみたいだ。
私があーちゃんでいる限り、反対なんて出来っこない。すごく渋々だが、こちらを伺う少女に向けて小さく頷きを返す。
だがそれが間違えだった事を、私はすぐ知る事になる。
「少なくて悪いのだけど……パンと――きゃっ!?」
「ふふっ、捕まえた……っと、キミは動かないでね。この首を折るくらいの力なら、まだ残っているんだよ?」
男の子は、少女がパンを渡そうと差し伸ばした手を掴んで引き寄せると、少女の首に腕を回して逃がさないようにした。
私は咄嗟に殴りつけようと腰を浅く落とすが、男の子はこちらに注意を払っていた為かすぐに気づかれ、そう釘を刺される。
「ふむ、キミが何で亜人なんかと一緒にいるのかは知らないけど、良くやったね」
「っはん、役立たずもたまには役に立つんだな……ほほう、なかなか可愛いな」
「あーちゃん!?」
男の子たちは少女を捕縛したまま、私に向けてそういってきた。それを聞いた少女は一瞬驚くと、すぐに悲しそうな表情になった。
「ち、ちがうよ! あーちゃんはそんな人たち知らないんだよ!!」
「ははっ! 演技はもう良いんだよ? この子がいればもう食料に困らなくて済むかな」
「いやー久しぶりの飯だぜ、なぁ、食っていいか?」
「うん、でもちゃんとボクのも残しておいてね?」
「あぁ……って、どこいくんだ?」
「いやぁ、体が成長したからかな、食事以外の欲求もわいていてね」
そう言った男の子は、少女の胸元に手を添えて、軽く撫でる。
――プツンと、音がした。
それを見た瞬間、私の視界は急に狭くなり、周りの音が聞こえなくなる。
「あー……俺も後でやっていいか?」
「キミはそっちにちょうど良いのがいるじゃないか」
コイツらは何かをいっているようだが、もう黙れ、しゃべるな止まれ。
自分が冷静で無い事を自覚するが、この言い表せられない気持ちを止める手段が見当たらない。そもそも止める必要もないかもしれない。
とりあえず、コイツらはもう、イラナイ。
「『蒼の力よ 我が魔力に集いて形を成せ』」
「っ! 水玉かっ!? その詠唱を早く止めさせて!」
「おう! おら、静かにして――なっ!?」
殴りかかってきたやつは、やせ細った体でうまく力を出せないようで、軽く避けて足を引っ掛ける。
そのまま体勢を崩し、地面に倒れこもうとする男の子に向け、魔法を放つ。
「『第一節 アイスニードル』」
「い!? がふっ」
出現した氷柱は五本。
内一本だけを射出させると、狙い違わずにヤツの背中へと吸い込まれるように命中する。
そしてそのまま胸を食い破って地面に突き刺さり、倒れこむ直前の姿勢で縫いとめられた男の子は、手足をぷらんとさせて動かなくなった。
「氷……? 水玉じゃあないのか?」
「早くその汚い手をどけて」
「な、何を言っているんだい? キミは家族を捨てて、亜人なんかの味方をするつもりなのかい?」
「別に亜人の味方なんてしない」
「じゃあ」
「『あーちゃん』はその子だけの味方だから……お前はイラナイ」
私はそう告げると、残った四本の氷柱の先を向ける。
「ふ、ふふっ、いいのかい? そのままそれを打てば、この子も死んじゃうよ?」
「早く手を離せ」
「それは無理だね、だって離したらそれを打ってくるんだろう? だったらこのまま逃げさせてもらうさ」
男の子は少女を盾にしながら、ゆっくりと後退りを始めた。
それを見ている私は、内心舌打ちをする。
日々の練習でそれなりに魔法がうまくなったのだが、それでもこの状況下で、少女に当たらないようにしてヤツだけに命中させるのは難しい。
やって出来ない事はないと思うのだが、それでも少女に当たったらと思うと、どうしても実行を躊躇してしまう。
だがそうやって歯噛みしていると、思わぬところから助け舟を出された。
「『紅の力よ 我が魔力に集いて――」
「なっ! キミも魔法が使えるのかい!? ちょっと黙っててくれないか、な!」
「――うぐっ!」
つかまっている少女が腕の中で詠唱を始めると、男の子は驚いた拍子に少女を離し、慌てて殴りつけるのが見えた。
あああああ! また私のせいで少女が傷つけられてしまった。コイツはもう、絶対に許さない。
「しまっ――あぐぁ!?」
隙が出来た男の子に向けて四本の氷柱を叩き込むと、一瞬の悲鳴の後に地面に倒れ、動かなくなる。
私はすぐさま少女の下へと駆け寄った。
「だ、だいじょうぶ!?」
「はぁ、はぁ、あーちゃん……」
「う、うぅ……ごめん、ごめんね」
殴られた腹部を押さえている少女を見ると、涙が溢れ出て来る。
私のせいで、私のせいで……! 謝っても謝っても気持ちが治まらず、繰り返し少女へ謝り続ける。
「これくらい大丈夫よ」
「ごめっ、うぇ……ごめんね……!」
「……っは」
一瞬笑い声のようなものが聞こえてきて動きを止める。
そちらへ視線を向けると、瀕死の男の子が青い顔をして息を吹き返していた。
「はは……この、魔人族の、裏切り、もの、め……」
その言葉に、背中に氷でも入れられたかのような寒気を感じた。
コイツ、今なんて言った……?
改めて声の主に目を向けて見るが、喋れたのは今の一瞬だけだったようで、死体となっていた。
「ま、じん……?」
隣から少女の呟くような声が聞こえた。
私は体の震えを感じながら、ゆっくりと少女の方へと顔を向ける。
「あーちゃん、私は……」
「っ!」
いやだいやだいやだいやだ!!!
この少女だけには知られたくなかった!
続きの言葉なんて聞きたくない!
「ご、ごめんっ!」
「あっ、あーちゃん!! 待っ――ごほっ」
私は傷ついた少女を置いて、その場から一気に駆け出していく。
少女はいきなり大きな声を出したので、先ほど殴られた影響で咳き込んでしまったのだろう。でも、続く言葉が聞こえなくて良かった。
……そうやって逃げても仕方が無い事は、私だって良く分かっている――けど! 決定的な言葉を聞くくらいなら、こうして逃げだしたほうがマシだ。
「うっ、うぅぅぅ……うわぁぁぁぁぁん!」
私は全力で走りながら、思いっきり泣く。
初めて暖かい場所を手に入れたのに、どうしてみんな邪魔をするの? ねぇ、あーちゃんは何か悪い事したの?
だったらごめんなさいするから、元に戻してよ! 痛いのだって我慢する、苦しいのだって、辛いのだって我慢するから、独りなのは、寒いのだけは嫌なの。
「うぅ、うぇぇ……うぇぇぇん!」
ただ、暖まりたかっただけなのに……なんで、なんで! なんで!!!
どのくらいそうしていたのか、いつの間にか見知らぬ場所まで走り抜けていたようだ。
「うぇ……ぐすっ」
当然、ここには私独りしかいない。
また振り出しに戻ってしまった。
「うぅ……」
あの子から貰った暖かさは、今もちゃんと残ってる。
でも、もう手に入らない。もしまた手に入ったとしても、あの狭い場所で過ごすだけであんなに邪魔が入ってしまったのだ。どこにいたって同じように、イラナイもの達が邪魔をしてくるのだろう。
……寒い。
久しく感じていなかった寒さが、以前にも増してまた私を襲う。
もう、やだ……。
これも全部、イラナイものが多すぎるのがいけない。
私にはあの子がいるだけで充分だったのに、それももう、失くしてしまった。
寒い、寒いの。
暖かさを知ってしまった後では、もうこの寒さは耐えられない。
もう泣かないから、怒らないから、笑わないから、望まないから――だから、もう私を苦しめないで。寒いのはもう、嫌なの。
……分かってる。今までだってそうやって願ってきたけど、誰も助けてくれなかった。
だったらどうすれば、私は助かるのだろうか?
……
…
「『動くな止まれ 静止しろ』」
気づいたとき、私は呟くようにして詠唱を始めていた。
「『寒いのは嫌 暖かいのも嫌 嬉しいのも悲しいのも全部嫌』」
不思議な事に、詠唱を進めるごとに心が穏やかになっていくのを感じる。並行して、寒さが緩和されて……いや、私が寒さを普通だと認識してきている事に気がつく。
ハッキリ言っておかしい事はよくわかっているのだが、私にこの詠唱を止めようという考えは、まったく無かった。
「『凍てつき凍れ 不要な万物』」
ここまでくると、さすがに私でも今紡いでいる魔法がどういったものなのか理解できた。
これは私の願い……前からずっと、思っていた事だった。
こんなに寒いのなら、その冷気で私の心も凍らせて欲しい。何も感じず、心動かなければ、こんなにも苦しんだり悲しんだりする必要は無いのだ。
もはやあの子を失ってしまった私には、イラナイものしか残っていない。
でも、もしまたあの子に会えたのなら……そしてもし騙していた私を許してくれるなら……そんな空想の未来を、無駄だと知りつつも仮定する。
今回は失敗しちゃったけど、この魔法で次こそ完全な『あーちゃん』として、イラナイもの達から彼女を護りたい。
そろそろ詠唱が完了する――じゃあね、馬鹿な魔人族の私。
「『心蝕魔法 ゼロ・エフェクト』――全て止まれ」




