後編
あいつ――オルロフ。オレの旦那ってことになってる。不本意だけどな。
夢の中、あいつは、静かに荒れていた。もともとしんねりムッツリってタイプでついでにムッツリすけべぇだけど、あそこまで眼つきが剣呑なあいつを、オレは、これまで見たことがない。人間だと三十代から五十代くらいのどことでもとれるような厳しい顔は整ってはいるけど、どう考えたってとっつきにくい。ただでさえそんな顔してるのに、夢の中のあいつには、絶対近づきたくないってオーラがまといついてる。んで、あいつの目の前には―――オレか? はは、オレが、眠ってる。
なんだよこれ。
オレまで眠り病か?
眠り病、はやってんのか? 今。
このシンクロ二シティに、オレは、混乱しちまった。
もしかして、オレも、黒い魔法にやられちまってんのか? いや、あいつとのキスなんざ日常茶飯事だし今更だけどさ。だから、キスひとつで魔法が解けるなんて、逆に考えられない。そんな簡単なことだったら、あいつに解きかたがわからないはずがない。――どころか、とっくに試してるに決まってる。そうなら、とっくにオレだって、ハリネズミから自分のからだに戻ってるだろうしさ。そんなこと、あいつにとっちゃ、造作もないことだ。
なぜって。
あいつってば、魔王だかんな――――――――。
だから、あんな怖ろしげな顔をあいつがするってことは、それが、鍵じゃなかったってことだろう。
―――――そこまで考えて、オレは、これは夢だろ、夢! って、ひとりで自分に突っ込みを入れた。けど、頭の隅の辺がさ、これは夢じゃないって、妙に醒めてたんだ。と、
『ラック』
耳慣れた声に呼ばれた気がした。
オルロフが、オレを、見ていた。
ハリネズミのオレをだ。
すっと、オルロフの人間のオレの手を握っていた手が、ハリネズミのオレに差し伸べられる。
これはほとんど習い性なんだけど咄嗟に逃げようとしたオレの前脚を、オルロフの手が握りしめた。
――ような気がした。
ピィッ!
思わずあげた悲鳴。
気がついたとき、そこは、女王さまのベッドの上だった。
オルロフの姿はない。
やっぱ夢だったのか――と、オレは、伸びをした。
「ん……」
疲れて眠ってでもいたのか、クンツが眠そうな目で、オレを見る。深い青い目が、ぼんやりとオレを見ている。
オレは、ちょこちょこと歩きにくい布団の上を這って、クンツの目の前に移動した。
クンツの差し出した掌に乗ると、クンツが顔の前にオレを持ち上げる。
「どうした?」
オレの目の前でクンツのくちびるが動く。
そうか。口角の下がり具合がなんとなく、オルロフのと似てるんだな――と、オレは、クンツのくちびるに、手を当ててみた。
かわいて、ほんの少し、冷たい感じがする。でも、やっぱり、やわらかい。
深い考えがあったわけじゃない。
何かを考えてたわけでもない。いや、思いついたんだ。助けてくれた恩返しってやつだよな。うん。
オレは、クンツのくちびるに、鼻面をよせていった。
軽く、触れる。
そうしてクンツの掌からベッドの上に飛び降りた。
無謀な行動だったかもしれない。って、ハリネズミの手足ってメチャクチャ細いんだ。で、オレはお約束みたくちょっとよろめいて、転んじまった。けど、別に、骨も折れなかったみたいだし。
よたよたとオレは布団の上を這って、女王さまの顔に近づいた。
安らかな寝息が、なんとなく、甘い気がする。
女の子のくちびるは、ほんのり赤くて、見てるだけなのに、照れてしまう。
これから、しようとすることを考えるとしかたないか。
オレは、女の子と、キスしたことないもんな。
オレが知ってるのは、あいつのだけ。
いや、それはどうでもいい。
オレは、クンツのくちびるの感触が残る口で女王さまのくちびるに、軽く触れた。
そうしてオレは、クンツを振り向いた。
あんたがキスすれば、簡単に解けるんだ。
叫ぶけど、クンツには、通じない。
クンツの青い目は、不思議そうにオレを見てるだけだ。
そりゃそうだろうと思いはするけど、でも、こんだけオレが、恩返ししようってがんばってるんだし、少しは通じてくれたっていいだろうって、焦れたオレが、もう一度――と、クンツの腕をよじ登ろうとした時だった。
突然の大きな雷に、オレは、足を踏み外して、ベッドの上に落ちちまった。
「大丈夫か」
伸びてきたクンツの腕が、オレを抱き上げ、止まった。
「なにやつ」
誰何の声も厳しく振り返ったクンツの目の前に、あいつが、立っていた。
あいつの機嫌そのままのような闇色に閉ざされた部屋の中に、開いた窓を背にした、あいつが立っている。
ゴロゴロと雷が鳴り響く中、時折りの雷光に、あいつが、照らし出される。
窓から吹き込む風に、長い髪が蛇のようにうねる。
「私のものを返してもらいに来た」
「おまえのものだと?」
クンツの訝しげな声に、スッと、あいつの右腕が上げられた。
長いマントが、あいつの動きにあわせて複雑な襞を描く。
キィッ!
オレは、オレのからだが引っ張られるのを感じて、悲鳴をあげていた。
クンツが、オレを、反射的にとどめようとした。
けれど、オレは、オルロフの手に、移動していた。
「それは、おまえのハリネズミなのか?」
「いや」
「ならば、もどせ。それは、私が女王陛下に差し上げたものだ」
「が、私のものを、このハリネズミが持っている」
「なにを馬鹿な」
オルロフの黒い目が、オレを、見下ろす。
バレてるんだ。
オレは、なんかもう、疲れちまって、そのまま、オルロフの掌でじっとしてた。
そんなオレを持ち上げて、オルロフは、オレに、くちづけた。
はい?
オレは、呆然としてた。
だって、な。オルロフにくちづけられたと思った瞬間、オレは、オレに戻って、オルロフに抱きしめられてたからだ。
なんでよ?
なんで、キスひとつで、呪いが解けるわけ?
キスが解呪の鍵なら、とっくに、解けてないとおかしいだろ?
それとも、こいつ、意識のないオレにはキスしなかったんだろうか?
混乱したままぼんやり見上げてると、
「私以外の誰とキスしたのか、後でじっくりと聞かせてもらおう」
そんなことを言って、オレの目を、意味ありげに、覗きこんだんだ。
へ?
いや。
まさか。
もしかして、解呪の鍵って―――――
「そんなっ。オレはっ、クンツに、解呪を教えようってそれで、ふたりにキスしただけだっ」
咄嗟に、叫んでた。
「それにっ、あの時のオレは、ハリネズミだったんだし。そんなの、無効だっ」
「どんな姿をしていようと、おまえは私のものだろう」
「ち、違う。オレは、ハリネズミの中に閉じ込められてただけなんだっ。だから、ハリネズミとオレは、別のっ」
「だが、キスをしたのは、おまえの意思で――だろう?」
ならば、私以外のものとキスを交わした罰は、受けてもらわねばな。
楽しげに言い放たれ、オレは、全身の力が抜けてゆくのを感じていた。
どうせオレは、こいつに敵わないんだ。
「というわけだ。女王の呪いは、おまえのくちづけひとつで解ける」
ラックが世話になったな―――
そう最後に言い置いて、オルロフは、オレを連れてその場から姿を消した。
後に残されたクンツが女王にキスをしたかどうか、オレは知らないけど、しないわけないとオレは思うんだ。きっとあのふたりは、いつまでも仲良く暮らしました―――って、ハッピーエンドなんだろうなぁ。
ああ、そうだ。オレにかけられた呪いは、とばっちりに過ぎなかったらしい。魔王に戦いを挑んだ魔法使いの術が、何の因果かオレにかかったんだと―――。あいかわらず名前とは逆の運の悪さに、オレが投げやりになったとしても、しかたがないよな?
原因はオルロフじゃないかと噛み付いたって、オルロフが聞く耳持ってなければ、意味がない。
結局、いつもみたく、オレは、あいつのいいようにされちまうんだ。
オレは、オレの運のなさを呪って、深い溜め息をついたんだった。