第七十話 港を揺らす影
1.不安の芽
交易船が次々と港に入るようになってから、町はかつてない活気に包まれていた。
魚の干物に加え、香辛料、異国の酒、珍しい宝飾――広場は日ごとに賑やかさを増していた。
だが、その陰で小さな不穏が芽を出していた。
「昨日の夜、倉庫から荷が消えたってよ」
「港の近くで喧嘩だ。異国の商人同士が揉めたらしい」
私の耳にもそんな話が絶えず届いてきた。
「旗は裂けなかった。だから今度は町そのものを裂こうとしてるんだな……」
ほうきを手にしたまま、私はつぶやいた。
2.見えない盗人
その夜、リナとリオと共に港の見回りに出た。
月明かりに照らされた波止場は静まり返っていたが、気配だけは確かにあった。
「来るぞ……」
リナが低くつぶやくと、闇の中から人影が跳び出した。
黒布に身を包み、素早く動く影。
リオが拳を振るうが、手応えはなく、影は煙のようにすり抜けて倉庫へ滑り込んだ。
「なんだあれ……人間か?」
リオが目を見開く。
リナは剣を構え、静かに答えた。
「影の術を使っている。裂け谷の一族の残党かもしれん」
3.大家の策
倉庫を狙われるのはまずい。交易の要を荒らされれば、町の信頼が揺らぐ。
私は下宿の広間に町の代表者を集めた。
「旗を守ったように、倉庫も守ろう。みんなで見張りを立てて、歌を響かせよう」
「歌……?」
商人たちは一瞬首をかしげたが、縫い子たちが頷いた。
「歌には影を遠ざける力があるんです。旗を繕った時と同じように」
リオが笑って拳を握る。
「いいじゃねえか! 影が嫌がるんなら、歌で町を満たしてやろう!」
こうして、町の夜は歌声に包まれることになった。
4.歌の守り
その晩、港では焚き火が焚かれ、漁師や職人たちが声を合わせて歌った。
「裂けぬ旗よ、裂けぬ心よ――」
波と風に混じって歌声が響き、町全体がひとつの合唱となる。
影の術を使う者たちが再び現れたが、歌声に包まれると次々と姿をかき消した。
「効いてる……!」
マリエが広場で喜びの声を上げる。
だが、影の中には歌を恐れぬ者もいた。
その一人が私の目の前に立ち塞がったのだ。
5.影との対峙
「大家か……噂通りだな」
黒布の影は低く呟き、刃を抜いた。
私は構えもせずに睨み返した。
「旗を裂けなかったからって、今度は町を裂こうってのか」
「人は裂ける。欲と恐れで、いくらでもな」
影は嘲るように笑い、私に斬りかかる。
リナが間に入り剣を受け止め、リオが横から拳を叩き込む。
影は後退したが、不気味な笑みを残して闇に溶けていった。
6.波紋の拡大
翌朝、町には別の問題が浮上していた。
「交易品の値段を釣り上げてる奴らがいる!」
「港の外で見知らぬ連中が武器を売ってる!」
影の襲撃は退けても、人の心に生まれた欲や不安は消えなかった。
私は唇をかみしめた。
「……影は町の中にも入り込んでるってことか」
7.希望の灯
そんな中、マリエが縫い子たちと共に新しい布を持ってきた。
「旗を繕った時と同じように、町の人たちの心をつなぐ布を作りたいんです」
それは旗よりも小さく、持ち運べるようにした「心の布」だった。
「これを広場や市場に飾れば、人々は思い出せます。裂けても繕えるって」
私はその布を手にし、深く頷いた。
「よし、それで町に灯をともそう」
8.迫る渦
だが、布が広場に掲げられた夜、再び港に黒い霧が立ち込めた。
影の気配は以前よりも濃く、数も多い。
「来るぞ……!」
リナが剣を抜き、リオが拳を構える。
私は心に誓った。
――旗も町も、この手で守る。大家として。
波が荒れ、港を揺らす影の渦が、いよいよ町を呑み込もうとしていた。




