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「―――、―――?」
少女が目を覚ましたのは温かいベッドの上だった。
長い逃避行の疲れが残る体は重く、まぶたを開くのにも一苦労。――単純に彼女が朝に弱いというのもあるかもしれないが、今回は疲労のせいだ。
カーテンの隙間からは、高い所にある太陽の明かりが差し込む。その穏やかな時間は少女に久方ぶりの安らぎを与えた。
部屋には机と『研究所』にもあったPC端末が置いてある。
他には本棚に沢山の本。残念ながら少女にはそれが何と書いてあるかわからないが、難解な文字のタイトルだとはわかる。
(……懐かしい)
少女が思い出していたのは育ての親である一人の男。少女は色んな事を教えてくれた父親代わりの男をドクターとだけ呼んでいた。
名前は他の人間と会話していたのを聞いたので知っている。しかし、なぜか名前で呼ぶことはなかった。
この飾り気のない部屋はそのドクターと重なる。少女は霞む景色を乱暴に目を擦り、ゆっくりと体を起こした。
「おはようございます、しっかり休めたようですね」
「――!」
少女が寝ていた部屋に来たのは知らない大人の女性。それはエプロンを付けた祥子であった。彼女は簡単な英語で挨拶し、警戒する少女を気にせず手に持った機械のスイッチを押す。
「っと言いましても。私も英語が堪能というわけでもないので、こちらを付けてもらえますでしょうか」
祥子が電源を入れたのは翻訳機である。必要な機能以外を省き、少女の小さな手にも収まるサイズまで小型化した物を机の上に置いた。
この機械があれば会話ができる。それがわかった少女は恐る恐る翻訳機を手に取るが、イヤホンの使い方が分からず困惑している。
「耳にかけるだけで良いですよ」
祥子はそう言って少女の耳にイヤホンをフィットさせる。
すると少女はありふれた技術である骨伝導式イヤホンに目をぱちくりさせて驚く。耳からではなく骨を通して音を聞くというのは不思議なのだろう。
「――ありがとう……ございます」
「どういたしまして。改めて、私は黒木祥子。ここのハウスキーパーをしております」
「わたしは……13番です」
「もう一度……名前を聞かせてもらえますか?」
祥子がもう一度聞きなおしても、彼女は「13番」だと名乗る。
(なるほど、これは御調に聞く事が増えましたか)
どう考えてもそれは名前ではなく、被検体番号だ。どこぞの非合法な研究所とテロリストが喰いあう、まるで蟲毒のようだと祥子は考えた。
「あの……ここはどこですか。――昨日の男の人は?」
「仁様は懐かれたみたいですね」
真っ先に仁の居場所を確認する少女に、祥子は少し目を細める。少女も少し考えて恥ずかしかったのか、あうあうと混乱している。
それでも忘れないように何度と仁の名前を小さく呟くのは命の恩人だから、だけなのか。
「詳しい話は食事を交えながらにしましょう。もうお昼ですし、――お腹が空いているのじゃないかしら?」
ご飯と聞いて少女がお腹で飼ってる虫がか弱く鳴き始めた。それを聞いた彼女が顔を赤くしたまま、こくりと躊躇いがちに頷いた。
目覚めた少女は一般家庭……とは言い難いが、それに近い家を物珍しそうに。――まるで初めての場所に来た猫のように動き回った。
最終的には玄武のお気に入りであるソファーでまったりと初めてのテレビを見ていた彼女であるが、体調が万全というわけではない。
学校の帰り道に祥子が頼んだ買い物を済ませた仁と春奈。二人が家に着く頃には少女の電池が尽きていた。
「祥子さん、例の子は?」
「お帰りなさいませ。先ほどまで静かにテレビ端末で番組を漁っていましたが、今は――眠っているようですね」
それを聞いて静かにテレビの前に移動すると、確かに猫のように丸まって寝ている少女と玄武が目に入る。
「留守の間にわかったことをお伝えしたいので、地下でお話をよろしいですか?」
「うん、寝てる間に面倒な話は済ませとこ。青龍は荷物運び、玄武は――うん、そのままで」
食材や少女に必要な日用品と衣服を青龍に預けて、三人は防音対策がしっかり施された地下へ移る。
地下にはWSDの簡単な調整が可能なメンテナンス室と隣には射撃訓練場がある。
「そういえば、名前は聞いたん? 祥子さんや」
「――サーティスと」
メンテナンスに使う端末に小型のメモリーを差し込み、何らかの操作をしている祥子は本人から聞いた名前を告げる。
「十三番を縮めただけ……だな。それも後で考えた方がいいのか?」
「彼女を今後どう扱うか決めてからでも遅くはないでしょう」
「それもそうか、愛称はティスでいいよな」
家族の元に帰せるのか、それとも御剣で預かることになるのか、それさえ未定なままなのだ。暫定でティスと呼ぶことにした仁に、春奈はジト目だ。
「先に情報の共有化を進めましょう」
祥子は用意した資料を端末モニターに表示させる。最初に目に付くのは上空から撮られた白い建物と、「非公式」とある注意書き。
御調から提供されたのだろう画面を手でタップして、祥子はその白く堅牢な建物の画像を拡大する。
「偵察衛星の画像か。この火の手が上がってる建物は?」
「一週間前、武装集団に襲撃された研究施設です」
画像を見た時点でわかっていたが、不穏な単語を聞いた二人は嫌な顔を隠さない。
「……この状況で非公式と研究所の組み合わせは面倒事しかないだろ」
「どうみても研究員って見た目じゃないし、モルモット扱い以外選択肢がないじゃないですかー、やだぁ」
やはり少女の居る場所でできる話ではなかった。祥子が地下に場所を移すことを提案した時点でそんな気がしていたが、憂鬱になる話に仁はうんざりといった様子である。
「御当主か、御守にでも全部投げますか?」
そう聞かれた仁はおちゃらけた態度から一変、真面目な顔できっぱりと言い切る。
「しねえよ。全部を全部、俺らだけで完結させるつもりはないが――。中途半端に投げ出すつもりはない、だよな?」
隣の春奈に確かめると、頷きながら「もちろん」と答えた。
「あはっ、仁君らしいね。とりあえずティスちゃんは何らかの実験の被害者ってことでええの?」
その質問に祥子は少し考える。二人が留守の間に調べた資料が正しければ、完全な被害者とも言い切れなかったからだ。
「被害者……というのは正しくもあり、間違いでもあるかもしれません」
「どういう意味だ」
「まずはこの研究所ですが、――場所はロシアにあり、その存在は国も把握していなかったと『発表されています』」
「つまり反社会的組織か……、国が表に出せない研究をしていた場所ってことか」
「御調はその可能性を半々と考えています」
いつでも切り捨てられる備えがあった。そう言われもおかしくないほど発覚後は迅速な動きで処理されたと祥子は話す。
ソ連時代から黒い噂の絶えない国家だ、火のない所に煙は立たないとも言うので疑われるのは自業自得かもしれない。
「研究の内容はわかってはるん?」
「――現状からの推測でしかありませんが。この研究所に関わり、行方不明になっていた科学者もわかっています」
祥子は次の資料へ画面をスライドさせる。今度は50代ぐらいの神経質そうな男の写真データである。白衣姿で髭はきっちり手入れしているが、目の下に残る隈が人相を悪くしていた。
その男の名は「アドルフ=ローガン」、欧州で遺伝子工学の第一人者として知られた科学者だった。
「その有名人がなんで、ロシアの研究所に関わってるはるの?」
「すでに破棄されましたが――彼の論文に『魔法師のクローン』に関して発表されたことがあります」
どこぞの三流SF映画のストーリーでも聞かされてるようで、あまりにも現実味の無い話だ。
たしかに動物実験によるクローン実験は何度と行われているが、その結果はネガティブなモノである。異常の無いクローニングは不可能、あるいは困難というのが現代の通説となっている。
「マッドサイエンティストってやつかよ。本気で作れると思っていたのか?」
不完全な技術で人間どころか、魔法師を作ろうというのだ。仁がその科学者の正気を疑うのも仕方あるまい。
春奈は自分の方を見て仁が口にした言葉に、心外だという顔をする。
「うちを見て言わんでよ。倫理観はしっかり守ってるもん」
「いや、そっちじゃなくて作れるかどうかだよ」
仁にマッドだと言われたのかと、勘違いした春奈は「そっちかあ」と照れ隠しに笑って誤魔化す。
「最終的な目標は遺伝子操作で全ての人間を魔法師に進化させる、というモノでしたが……。彼は倫理的に問題のある人間だと学会から追放され監視処分になったらしいです」
そしてアドルフ教授はその後、監視の目を盗んで行方不明となる。
祥子はそれ以上詳しくは話さないが現在にどう繋がるかは聞かなくともわかる。
「着地点にも色々問題はありそうだが、一方的に悪いと思える内容ではないな。ただ、その過程で手段を選ばなさ過ぎたか」
「犯罪者もみんな魔法を使いだしたら面倒くさい社会になるやろうな」
「殲滅等級以上の魔法師が量産されたら終末世界もすぐだろ。――で、結論。あの子は吸血鬼のクローンなのか?」
話はようやくティスまでたどり着いた。
仁の出した答えに祥子も肯定する。クローニングで生み出された、被害者であり同時に誕生の切っ掛けとなったデザイナーチャイルド。祥子もどっちが正しいのか回答に困るも当然であった。
「おそらくは――。お二人から聞いた再生能力を考えると、最低でも第一世代の吸血鬼から作られたクローンの可能性が高いかと」
吸血鬼の異能は一人の真祖から始まり、直系の吸血姫と第三世代以降の爵位で呼ばれる吸血鬼や人間と吸血鬼のハーフ(ダンビール)などが居る。
彼女達は特定の国に加担しない魔法師の血脈である。もし、どこかの国家に所属すれば、それだけで世界の勢力図は大きく変わるだろう。
「このおっさんはアホか! どう考えても真祖に喧嘩売ってんじゃねえか! 不可侵領域にちょっかい掛けるとか馬鹿じゃねえの」
立ち上がった勢いで仁の座っていた椅子は後ろにこける。
ただでさえ都市一つ消せる禁忌等級のさらに上、規格外と別のランクが設けられた現人神の一人が真祖だ。
もし自分の異能を持つかもしれないクローンを気に入らないと思えば、東京ごと消される可能性だってある。
「でも理にかなってる。その科学者が非凡な事には間違いないよ」
「『根源の異能』を敵に回してるってのにか?」
倒れた椅子を自分で戻して座りなおし、仁はアドルフへの評価が高い理由を春奈に尋ねる。
「だって――吸血鬼の能力って何か知ってる?」
「血に関することじゃないのか?」
吸血鬼と日本やステイツはあまり関わりがない。吸血鬼達が拠点にしているのは欧州で、仁も戦う可能性が低い相手を知る機会がなかったのも当然だ。
「それは吸血女王と吸血姫だけの話やねん。それ未満の吸血鬼って実は血とあんまし関係ないんよ。彼が目を付けたのはその桁違いな生命力、クローンの持つ不安定さを吸血鬼の生命力で補おうとしたんちゃうかな?」
確かに吸血鬼は心臓に杭を打たないと倒せないと言われるほどの生命力を有する。陽に弱いなどの一部代償異能を持つが、根本的な生命力はとてつもなく高いのだ。
「……どうやってその遺伝子を手に入れたのかはこの際、無視だ。これからどうするか、親父に相談するか」
テロリストだけでなく、吸血鬼への対策も考えないといけないとわかった仁は頭を抱えたまま天井に見上げる。
「――そうでした、その御当主から指示が来てます」
「親父がか?」
「はい。――『帝様に会ってこい』、だそうです」
仁の頭を抱えていた手がゆっくりと額に移動していく。
「oh……真祖の前に別の現人神からのお呼び出しですか」