この人誰ですか
「で、君の名前は?」
男が朗々した声で聞いてくる。私の手首をつかんだまま。
裏通路は人がすれ違って通れるくらい広くて、私は半ば引きずられて進む。通路の天井がもっと低かったらこの大男が歩くのはもっと大変だと思うのに、残念ながら裏通路なのに広々だ。そして手足が異様に長い男の大股歩きは、やたら早い。
手首が痛いよう。足も痛いよう。
「こっちだ」
と今度は階段を上らされた。引っ張りあげるより楽なのか、今度は階段を押し上げられるように進む。
衣装部屋の上階には、何があったっけ?
裏の通路と表の通路は、つながりかたが全く違うから、上階に何があるか考えてもわからなかった。
途中で篭を抱えた洗濯人二人に出会った。
彼女たちはサッと篭を脇に避けて私たちを通した。ちらりと私の顔を盗み見たものの、大男の存在にはまったく驚いた様子がなかった。
「私の名前はエルマです」
階段の終わりで、私は答えた。
答えなくてもいいのかもしれないが、こんなふうに後宮の裏通路を堂々と通り抜けていくのを見ると、この人はそういう立場の人だと思うしかない。けれど、この男はただの一度も自分が何者であるか教えようとしない。高位の者は高位の者なりに自分の身分に敬意を払わせようと尊大に名乗るものなのに。
こちらが名前を教えれば相手も身分を明かすのではないかと思ったのだが、残念ながらそうはならなかった。
「そうか」
男が後ろで立ち止まり、振り返る私を見た。階段の部分は光が差し込みにくいのか暗くて、お互いの顔を見るには近づかなくてはならない。階段のせいで男との身長差が縮まり、男の顔が目の前にある。というか、この段差で私より顔が上にあるって、どんだけ背が高いんだろうか。肩幅も大きい。この人の服を作るのは絶対に大変だと思う。
「ではエルマ」
男が私を呼ぶと、また乳香が強く立ち上ったので、くらっときた。
「どうやら状況を考えるに、ファティマ様は君を釣り餌にするつもりらしいが、君はどうなのかな?」
「は? 釣り餌?」
ええと、つまり私はこの大男に食べていいよと差し出された餌なの?
んん??
釣り餌ってなんだっけ?
「君は大公殿下のメイドだろう。大公殿下のご寵愛が欲しいのだろう?」
「・・・・・・はい、まぁ、そうですね」
なんか違うような気もしたが明確に違うと否定するのもおかしいのでモゴモゴと答えていると、男に大きなため息をつかれた。
「そうだな。いやこれは聞いた私が阿呆だ。君たちは、大公殿下の寵を得ようと必死なのだからな」
え、いや。
そんなに必死じゃないです
首を振ろうと思ったが、無作法だから、慌てて首をかしげてごまかす。
「あの、私はまだ殿下にお目通りしていません。ここに来て間もないので」
とりあえず言い訳めいたことを言ってしまった。ところが男は別の意味にとらえてしまったようで、大きくうなずいた。
「わかった。とにかく近々大公殿下に会わせてやる」
安易に約束されても実感がわかない。というか、そんな約束を始めるこの人の身分のほうが知りたい。
「いえ、あの、私は別に・・・・・・」
「なんだ? そういった遠慮めかした大人しいふりはあまり好かないな」
「ふりって、そんなのじゃありません」
私は今の役目は悪くないかもとは思っている。お客様の接待をする仕事は、今は右も左もわからないけれど、もっとたくさんのことを覚えて頑張ったら役に立てる人間になれそうな気がする。。それにもしも大公殿下のお目に止まったりしたら、ファティマ妃に憎まれるとしたら、そんなのは嫌だなと思ってしまうくらいには、私は大公妃が好きだ。
だから、今、ちょっと胸が苦しい。何かファティマ妃の気に触ることをしてしまったのかな、と思うから。
「まあいい。大公殿下のご寵愛以外では、何か望みはあるか?」
「そうですね・・・・・・」
ファティマ妃にまたいつものようにやわらかく微笑んでいただけるなら嬉しいかな、とか一瞬考えてしまう。
「例えば金が欲しいとか宝石が欲しいとか、あるだろう」
「いいえ」
即答してから慌てて否定する。
「あ、いえ、もらえるなら欲しいです」
宝石と聞くとフーライン様のキラキラした姿が脳裏に浮かんでくる。なんだろう。あれを見ると宝石が一杯ほしいという気持ちがどこかへいってしまうんだよね。私の答えに熱がこもってないので、男もちょっと納得したらしい。
「金や宝石でないなら何だと言うんだ。恋人のもとに戻りたいとか家に帰りたいとかいうやつか」
そういう願い事を思いつくってことは、やっぱりそういう境遇のメイドが多いってことかなぁと頭の隅で思った。でも、私には帰るところがない。
「私の夫は亡くなりましたし、帰る家もないんで帰りたいわけでもないです」
半ば投げやりに言うと、さすがに男は少しばかり驚いた顔をした。寡婦ということに驚かれたのかと思ったが、男がうなずきながら返してきた言葉は、なかなかぶっ飛んでいた。
「そうか。では、夫のかたきを討ちたいと大公殿下に願い出るつもりなのか」
「は? え? ち、ちがいますよ!」
「そうなのか」
真面目に聞き返してくるこの人、おかしい。
フレイは事故で死んだけど、別にかたきなんてないよ!
というか、夫が死んだ話からすぐにかたき討ちに発想が行くって、どういう生き方をしてるのか。
暗い階段部を抜けて光の差し込む通路に出ているから、見上げれば、真剣な表情の横顔がよく見える。ふざけて言ったわけではなく、この人なりに私の話を聞いてくれたのだと気が付いた。身分が高そうなのに。
本当になんの権限があって、殿下に会わせるとか約束してるんだろうこの人。
だいたい大公殿下はもうすぐお戻りになるという噂だけで、まだ、大公宮にはお戻りでないのに。
ついそう思って、しかも口に出してしまった。
男がかはっと笑った。さっきまでの不機嫌が少し直っている。
「本当に私のことを知らないようだな。まったく。ファティマ様も何を考えているんだ」
少し屈んで私の顔を覗き込む男が、口にするのはファティマ妃のことで、しかもなんだか妙に甘さがある。そしてよく考えたら、この人は大公妃を名前で呼んでいる。
もしかして、想像以上に身分が高い人なんじゃないだろうか。
ぞくっとしたが、もうずいぶん気軽に話をしてしまった。気にしないことにして、私はあえて口を開いた。
「私、一流のメイドになりたいんです。必要とされる人間になりたい」
「ああ、メイドは必要だね。君のようにいい女なら言うことはない」
「そういうメイドじゃありません」
ムキになって言うと、男がくすりと笑った。
「それにしてはたいそうな胸をしている。その胸を必要とする男だって多いぞ」
これには本気でむかついた。そして悲しい。あなたにメイドなんて務まらないとアーマイゼ伯爵夫人に言われたことが頭の奥によみがえる。
「私はメイドとして必要とされたいんです! でも、そうですね。私もあなたのお顔が好きです。私が女王様だったら鎖でつないで愛でたいくらいに!」
やけになって叫ぶと、途端に男は目を見開いてはははっと笑った。
「そうか。それは光栄だ」