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逃げたいです

ずいぶん背が高い男だった。


え・・・・・・?!

男?!


見えているものが頭に伝わるまでになんだか時間がかかってしまった。

男がここにいるはずはない。この後宮に男の使用人は入ってこない。むろんお客様もここまで入って来ない。

何で?! どうして?!

混乱すると頭が働かないし体も動かない。

とにかく逃げよう!

やっとそこまで頭が働いて体が動き、後ずさったときには、ちょっと遅かった。


「初めて見る顔だ。新人か」


素早く目の前に移動してきたその男は、やっぱりえらく背の高い男だった。そしてえらく整った顔をしている。覆い被さらんばかりに近づいてくるから、とうとう後ずさりしたまま衣装部屋に戻ってしまった。


げ、これで逃げ道がなくなった。男が青ざめる私を見て困ったように曖昧な笑顔を浮かべた。


「驚かせてしまったようだ。ああ、君の名前は?」


答えていいのだろうか? いや、ダメだろう。

とりあえず卑屈に見えるくらいに深くお辞儀をしてやりすごすことにした。頭を下げたために、男の下半身だけが目の前にある。金糸の抜いとりのある、絹の上着の裾が嫌でも目に入ってくる。裾のラインはつれもなくまっすぐで美しい。縫い取りの綴じ糸は驚くほど目が細かい。すごいな。

同じく金糸飾りのある絹のズボンに革の外出靴。

貴族の、それもかなりの地位にある人物。


一瞬だけ大公殿下かと思ったけれど、そうであれば裏通路をやって来るはずがない。そもそも若い。

悪びれもせずにこの衣装部屋に押し入ってきたこの男はいったい誰?


「そう身構えないでくれ」


いや、それは無理、と思う。

っていうか誰ですか?

男が目の前から離れて部屋の中を歩き始めたので、ようやく私は顔を上げることができた。上質な亜麻糸のような髪。カメオ細工か何かのような秀麗な顔。背も高いが足も長い。衣服を縫う人は大変そうだ。剣は見当たらないけれど剣を下げる帯はしている。武人? でもそのわりにはずいぶん色が白い。歳は・・・・・・30より上くらいだろうか。


男は廊下へ出る扉に鍵がかかっていることに気が付いて、はっはっと笑った。

何でこの人、こんなに楽しそうなんだろう?

・・・・・・違う。

笑っているけど不機嫌なんじゃないだろうか、この人。

ちょっと怒ってるというか、負の感情が揺らめいているような気がするのはなんでだろう。


あ、そうだ、早く助けを呼ぼう。


やっと気が付いた私は、呼び鈴の紐を目指して駆けた。が、男の方が素早かった。瞬間移動したようにいきなり真横に現れた。もう少しで紐に手が届きそうだったのに、私の手首を男がガシッと捕らえてしまった。


「君がここにいるのはファティマ様のご命令なんだろう?」

男が聞いてきたが、私もこの際だんまりを通すことにした。


そうですね。メイド長に言われたんですけど、言われたんですけど、きっと妃殿下の命令ですね。私は内心で答えたが、口はつぐんだ。


「貝のような娘だなあ」

またもや高らかにはははっと笑って、男は私の顔を覗き込んでくる。けぶるような睫毛が長い。瞳も大きくて目も大きくて、眼光が強い。やはりどこか困ったような表情で眉を垂れ下がらせているけれど、たぶん本当に困ってはいないと思う。明らかに何かにたいして怒っている。でも、とりあえず目の前の私を丸め込もうと美しい笑顔を向けてくる。


この男はまるで完璧に仕上がったドレスのようだと思った。どこからみても、ため息の出るような美しいドレス。


男でこういうタイプは初めて会うなと思った。女には時々出会う。自分の容姿に絶対の自信を持つタイプ。美貌で押せば相手は落ちると知っている。

「ああ、呼んだって無駄だよ」

突然、あやすような甘い声で男が言う。

あ、乳香、となぜだか思った。

声が香りをまとっている。そしてたぶん本当に乳香を焚いている。だとしたらどれだけ高位の貴族なのか。

「おそらく誰も来ないから」

甘い声で男は微笑んだ。亡き夫と笑いかたが似ている。すごく似ている。フレイはとにかく自信家で人が自分の申し出を断るはずがないと思っているような人だった。笑顔でぐいぐい押してくるのだ。


「ねぇ、僕の申し出を断るというの?」


ダメだ。フレイの声が頭に響き渡る。優しい優しい甘い声。そして、申し出を断られたらにっこり笑って「残念だよ」と言って引き下がれる男だった。


「は、放してください」

弱々しく言ってみた。眉を下げて弱弱しく可憐に。

けれどいっそう手首を強くつかまれて痛い。手首を折られそうな気がする。残念ながら目の前の男はフレイではなかった。

「痛い、痛い、放してくださいっ!」

こっちは悲鳴に近くなっているのに、大男は嬉しそうにふわりと笑う。

「やっと口をきいたな。うん、いい声をしている」

声のことを言われて、そうだ叫べばいいのかと、やっと思いつく。叫ぶためにはまず口を開けて息を吸い込まなくてはならず・・・・・・結果、口も塞がれた。

「いやっ、はがっ」

大きな手が口を塞ぐ。

「無駄だって言ってるのになぁ」

「うがぁっ」

私は夢中で首を振った。せめて噛みついてやりたいのに、大きな掌がうまく口を塞いで噛みつけない。大男に背後から抱き抱えられると暴れることすら難しかった。やばい。事態がどんどん悪くなっていく。大男にかぶさるように密着されて、暑くて苦しい。絞め殺されそう。


「私を呼び出したのはファティマ様だ。わからないのか?」

それはわかる。なんだかわからないけど、仕組まれたってことだけはわかる。

私はうなずいた。

もう疲れたので暴れるのもやめてみる。

「叫ぶなよ」

拘束がゆるんでいく。

「君は本当に私を知らないようだな」

やっと手を放した男にあきれたように言われた。男の体温が離れていくと共に、乳香が強く立ち上った。くらくらする。色々な意味で。

男は嫌そうに私の唾がついた手をハンカチで拭いている。金糸刺繍のリネンの白いハンカチで!

「その格好なのだからファティマ様のメイドだろう? なんと言われてここに来た」

「衣装部屋で待機しなさいと言われました。それしか言われていません」

しぶしぶ答えると、男はチッと舌打ちまでする。

眉がぎゅうっとしかめられて、男の顔には明らかな不機嫌が現れた。美しい顔がこうして歪むとものすごく落ち着かない気分になってしまう。逃げたい。というか、お願いだから消えてほしい。そうでないとこの密室で間違いを起こしてしまいそう。

抱きしめてあげたいとか、優しく抱きしめられたいとか思っちゃうじゃないの。

ちょっと混乱している私の前で、前で、男の方は方は気分をさっさとを切り替えることにしたらしく、すぐに輝くような笑顔を向けてきた。


だんだんわかってきたけど、この人、この笑顔で押せば女はどうにでもなると思ってる気がする。

まぁ、そうだよねぇ。フレイもそうだったもの。なんだかもう、この貴族の男を見ていると亡き夫のことが鮮烈に思い出されてくる。私としては、箱にしまって片付けてもう取り出さないつもりの記憶だったのに。


「ちょっと私と一緒に来てくれ」

「はぁ?!」

突然言われてつい口答えしそうになった。

「いえ、あの、私はここにいないと」

「いいから、こっちへ」

再び手をつかまれて、隠し扉の方へ引きずられてしまう。

「いや~」

「叫ぶなと言ってるだろう!」

再び大きな手で顔をおおわれそうになって、私は口を閉じてしまった。一度怖いと思ってしまうと、体が命令を聞いてしまう。そのまま私は裏通路に引っ張り込まれた。



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