絶対的なる傍観者 【新暦312年】
新暦312年。精霊王として名を馳せた黄昏の精霊ディルが、その長き生に終止符を打った。
人を憎み、嫌い、人を押さえ込むことで平和を保とうとしていた彼が、最後は人間を助けるためにその命を投げ出した。副官であり対である暁の精霊エセルに全てを託し、精霊の森を飛び出した数年間で、彼の心境にどんな変化があったのか、今となってはもう誰も分からない。
しかし、この世界は今、確かに暗黒時代から平定に努めてきた優れたリーダーを一人失った。それだけが、僕に託された事実なのである。
◇◆◇◆◇
「…………歩きにくい」
ぽてぽてぽて、と。深く生い茂る森を、掻き分けるようにして僕は進む。木々の隙間から僅かに差し込む月明かりだけが、僕の足元を照らしていた。
道など無いに等しい森はただでさえ歩きにくく、さらに僕はいつものごとく、この世界の司祭達が好んで着る裾や袖を長く引きずる服装をしていた。少し進むごとに木の枝に服が引っかかり、どうにもこうにも前に進まない。
別に引っかかってばかりなのは服装が問題なわけではないのだが。
「あー、もう……道を空けてくださいー!僕は、オラオルに、用があるんですっ!」
『だめー。オラオル様フィーア様に会いたくないー』
『オラオル様に怒られちゃうー』
『来ないでー』
『帰ってー』
僕が叫べば、さわさわと木々が枝を揺らす。一歩進むごとに小枝が僕の服を掴み、僕の前進を必死に押さえ込もうとしていた。
『オラオル様、フィーア様に用事ないー』
『オラオル様厄介ごと嫌いー』
『帰ってー』
『フィーア様しつこいー』
(これはちょっと、想定外……)
よもやここまで木の精霊達の反対を受けるとは。むしろすんなりと通してもらえることを期待してほとんど備えをしていなかったのに。
一度引き返したいところだが、他にも回らなければならない場所が多い以上、あまりここに時間をかけたくない。
運悪く枝に足を取られた僕は、地面に倒れこんだままうめいた。
「あぁもう……お願いですから通してください。僕は精霊王エセルの命を受けてオラオルに会いに来てるんですよ!」
僕の名前はフィーア。これでも一応、元は神と呼ばれた者の一人である。
しかし、いろいろな事情により天界を追われ、力も失い、悲しいことに現在は地べたを這いずり回るしか能の無いただの子供と化している。呆れられたり馬鹿にされることも多いが、今の生き方を僕はそう嫌っていなかった。神としての制約を持たないことは、ひどく身軽で自由だ。
そして今日は、僕の友人であるエセルの頼みにより、世界中に散らばる大精霊達に声をかけに来ている。天界にいることを強制されない落神であるからこそできることだ。
『オラオル様、嫌だってー』
「大切な話なんです。けしてオラオルに無理強いはしませんから、ね?」
『でもオラオル様のところ、今人が居るー』
『真夜中のお客さん、オラオル様のお気に入りー』
『邪魔すると怒るー』
「もう怒られてもいいですから」
粘り強く説得を続けた僕に折れたのか、枝達がすっと道を空けた。後ろから精霊達の盛大なため息が聞こえた気がするが、僕はあえて聴かなかったことにした。
「さて、行きますか」
重い手足を引きずって、再び前に進む。
神々しくそびえる大樹は、もう目と鼻の先だ。
◇◆◇◆◇
「とく去ね」
「ここまで苦労してやってきた昔なじみへの最初の一言がそれですか……」
オラオルは意外にも、大樹から少し離れた場所に居た。気がつかずに大樹の元へと向かおうとする僕に盛大な舌打ちを浴びせかけた後、首根っこを掴んで草むらに引きずり戻し、そしてこの一言である。
「妾は言ったはずじゃぞ。そなたとは会いとうない。去ね去ね」
そう言ってオラオルは細い腕でしっしっ、と追い払うようなしぐさをとる。僕は眉をひそめたまま、彼女の肩口からその向こう――大樹の傍に居る男の姿を、見た。
「彼が貴方のお気に入り、ですか?」
「うん?まぁ、そう言えなくもないのぅ。あの者らは見ていて面白い。妾に下らぬ願掛けなどに来る奴らとは根性が違うようじゃ。自らの力で運命の女神に立ち向かう、そんな人間は、見ていて飽きぬじゃろう?」
ほほほ、とひとしきり笑ったオラオルは、慈しむような視線を男に投げかけた。
見たところ、出で立ちからして男は傭兵のようだ。しかし立ち振る舞いは生真面目さが漂い、荒くれ者といった形容詞とはやや離れている。元はどこかの騎士団に所属していたのかもしれないと考えさせられるほどだ。
「あの男はの、妾のことなど微塵も信じてはおらぬ。大切な女子を守るため、猟師から傭兵になったそうじゃ。……それが血の臭いを纏う決断でなければ、妾は心からあの男を祝福できたのじゃがな……」
「オラオルは、剣を取る人間が嫌いですか」
「妄信者の次にのぅ。傷付けることを厭わぬ者は、嫌いじゃ。妾の森を荒らすのも、そのような心無い者達じゃからの」
そう言って、オラオルはそっと目を伏せた。新緑の瞳にさっと影が落ち、深い濃淡を生み出す。たとえ人々に認識されることはないとしても、金の髪に花冠を戴く彼女は森の王。森に住む全ての生物の保護者なのだ。
「オラオル、貴方に頼みがあってきました」
「お断りじゃ」
僕が改まった口調で切り出すと、彼女は即答して僕に背を向けた。いつの間にか男は大樹を離れ再び森の中へと姿を消すところだった。オラオルは男の姿が見えなくなるのを確認してから大樹のほうへと歩き出す。
「待ってくださいよー、せめて内容を聞くぐらいしてくれたっていいじゃないですか」
「阿呆めが。こんな辺鄙な場所にわざわざ足を運ぶほどの用件、妾が把握しておらぬとでも思うたか。大方、新たな精霊王の補佐官を探しておるのじゃろう。嫌じゃ嫌じゃ。妾は面倒事は好かぬ」
「お願いしますよー、エセルだけじゃ無理なんですって。この世界にたった六人、いや、もう五人か、ほとんどいない大精霊の一人じゃないですかー。協力してあげてください」
「何、止めればよいのじゃ。それで万事解決じゃろう」
「止めるって……」
言葉を失った僕に対し、オラオルはひどく淡々と言葉を紡ぐ。
「高々精霊二人で、大陸全土の平穏を保とうなどというのが土台無理な話だったのじゃ。ディルは救いのない阿呆じゃの。殲滅することもせず、かといって放置するわけでもなく。半端に手を出す故に噛み殺されるのじゃ。妾は人には関わらぬ。妾は傍観者。たとえ何を望まれようと、たとえどんな惨劇が繰り広げられようと、妾はただ、見守るのみ。――他を当たるが良い、フィーア。もっとも、そなたらの酔狂に付き合う物好きがいるとは思わぬがの」
「酔狂、ですか」
僕はぎゅっと、強く拳を握り締めた。
ディルとエセル、二人が願ったものは、他の高位の精霊たちにとっては愚かで馬鹿げた行為だったのだろうか。そうだとしたら、その夢のために命を落としたディルは、ただの大馬鹿者となる。
「……このままではいけないんです。オラオル、貴方の大切な森を傷つけないためにも、僕達は人の争いを収める調停役でなければいけません。その歯止めとなる為には、貴方の力が必要だ」
「妾には分からぬ。監視の必要な種を何故わざわざ残す必要があるのじゃ?争うと知りながら放置し、そしてそなたはさらに、再び人間に魔術という武器を返したと聞くぞ。それでいて調停役じゃと?ふん、笑わせるな。そなたのしていることはただの茶番じゃ。何を期待しておる、フィーア。よもや人がいつか善良で無害な存在になるとでも?仮初の平穏など何の意味もない。どれだけ手を尽くし、押さえ込もうとも、我らの力が尽きれば再び同じことを繰り返すのみ。そなたはその無意味な時間稼ぎのためにこれ以上犠牲を出すとでも言い出すのか?笑えぬな、実につまらぬ冗談じゃ」
そう言って、オラオルは鼻を鳴らした。
「我々の力は、人間にとってはなんと魅力的なものじゃろうのぅ。精霊や神は絶対に手の届かぬ高嶺の花であるべきじゃ。存在は知られてはならぬ。理解されてはならぬ。故に、妾は人の為には動かぬ。人は自らの力で平穏を勝ち取るべきじゃ。あの男のように、自らの足で進まねば。誰かに与えられた偽りの平穏など、何の意味もなさぬわ」
「そう、ですか……。それが貴方の意見ですか……」
人々の願いを叶えるというオラオルの樹。彼女らしくないがずいぶんと性格が丸くなった、と噂を聞いた時は思っていたのだが、所詮は噂の一人歩きに過ぎなかったらしい。涙目でがっくりとうなだれた僕の頭を、からかうように彼女は一撫でした。
「落ち込んでおるのか?その姿では、げに幼子のようじゃな」
「うぅ……ちょっと心が折れました。あと好きでこんな姿をしてるわけじゃないです」
「そのまま折れてしまえば良いと言うに」
「それは嫌です」
ぶすくれたままそう言えば、オラオルはころころと笑った。精霊達の中でも特に引きこもりの彼女は、未だ時代錯誤な言動を引きずっている。変化を拒んでいる、ととることもできるかもしれない。
「そうじゃ、フィーア。餞別としてそなたに良いことを教えてやろうぞ」
「はぁ、何ですか?」
何じゃ、妾の親切に対してその生返事は、とオラオルはやや頬を膨らます。
「ここからやや西に行ったところに、渓谷があるのは知っておろう。そこにキールという名の風の精霊が住み着いておる。あの男は物好きな奴での、もしかすればそなたの案に賛同してくれるやも知れんぞ。まぁ、大精霊ほどの力は持たぬがのぅ」
「本当ですか!」
オラオルにしては珍しい親切。僕は彼女の手を掴んで何度もお礼を言った。途中からオラオルがひどくうっとうしそうな視線を向けてきたが、知ったこっちゃない。
(次の目的地はそっちですね……よし、がんばろう!)
精霊の森で一人悲しみに耐えながら精霊たちを取り仕切っているエセルのことを思い出す。彼女が壊れる前に、なんとしてもその重責を取り除かなければ。
「それじゃ、また遊びに来ますね、オラオル!」
「もう来なくて良いわ。とく去ね去ね」
心底迷惑そうな顔のオラオルを残し、僕は早々に西に向かって歩き出す。
新たな精霊王の補佐官を探す旅は、まだまだ始まったばかりだった。
◇◆◇◆◇
「良いのか、付いていかぬとも」
木々の隙間に吸い込まれていく小さな背中を見送りながら、オラオルは小さな声を背後に投げかけた。
オラオルの声に吊られてがさり、と茂みが鳴り、その後おずおずと一人の少女が顔を出した。身長は大の大人の腰ほどまでしかない、まだ幼い娘だ。焦げ茶色の髪を肩口まで伸ばしており、くりっとした新緑の瞳はオラオルを伺い見るようにきょときょとと動く。
「お、オラオル様……いつからお気づきに?」
「たわけが。最初からじゃ。もっともあの阿呆は妾を説得するのに忙しくて気付かなかったようじゃがの」
近う寄れ、とオラオルが手招きをすると、少女はゆっくりとした足取りでオラオルの隣に立った。オラオルの視線の先、フィーアの背中は、もうほとんど見えない。
「のう、ティナ。そなたは此度の話、どう思う」
「どう、とは……?」
「人とは、救いある種族じゃと思うか。フィーアの行いが人を正しき道へと導くと思うか。妾は、分からんのじゃ……。あの者のように希望に向かって突き進めるほどの気力は、妾は持ち合わせてはおらぬ」
ティナと呼ばれた少女は、しばらくじっと獣道を眺めていた。やがて、ぽつり、と口を開く。
「私も、分かりません。私はまだ、人というものをほとんど知りませんから……」
ティナは、精霊としての自我を持ち、実体を保てるようになってからまだ二百年ほどしか経っていない若い木の精霊だった。森の中で暮らす木の精霊は風の精霊や水の精霊よりも人間と関わることが少ない。それ故に、ティナにとって人間とは未知の存在だった。
「ティナよ、そなたはそれを知りたいか?」
「できることならば。時々、何で私は木の精霊に生まれたんだろう、って思います。風の精霊に生まれていれば、今頃世界中を旅していたかもしれないのに」
「ならば今からでも旅立てばよいのじゃ」
突然の言葉に、ティナは弾かれたようにオラオルの顔を見上げた。その瞳には、戸惑いと好奇心が入り混じって揺れている。
オラオルは知っている。ティナが精霊王や森の外の世界に憧憬の念を抱いており、風の精霊たちが噂話と共に森へと吹き込んでくるたび、羨ましげな視線を向けていることを。
「妾は、分からぬ。ティナ、そなたは妾の代わりに目となって、多くのものを見てきてはくれぬか。そしていつか妾に語っておくれ。そなたの見たもの、聞いたこと、全てをの。それがそなたに向いた定めじゃろうて」
「でも……いいんですか?私、私は……」
オラオルは柔らかく微笑んだ。そして、おもむろに大樹の葉を一枚手折ると、そこに指を滑らせる。すると葉脈の上に光の線が走り、それが緩やかに文字の形を成した。オラオルは木の葉の手紙を書き終えると、それをティナに渡す。
「これは妾からの命令じゃ。この書付をフィーアに届けてたもれ。フィーアはああ見えて面倒見の良い者じゃ。しばらくは厄介になればよいて」
「……はい。ありがとうございます、オラオル様!」
ティナは嬉しそうに頷くと、弾かれたように駆け出した。緩慢な動きの多い木の精霊らしからぬ活発さは、やはりこの森に留まるには向いていない。
(どうか、この先の未来に幸あれ……)
揺るぐことなき傍観者は、そう心の中で呟いて、静かに目を閉じた。
誰がオラオルの裏話を書けと言った→文章の神様が言った
オラオルのイメージをぶち壊す裏話ですこんにちわ。
オラオル様が予想以上に書きやすくて気がついたら五千文字も書いていた。本編を文章量で上回ったんだけどこりゃどういうこっちゃ。
誰にも通じない話題が山ほど織り込まれてます。なんせ時系列とかって言う言葉を完全に無視して書いてるもんで、ぜんぜん話が繋がってません。多分後三年ぐらいひたすら短編長編を更新し続ければ少しは話が繋がるはず。多分、きっとね?
・オラオル
大樹の精霊。リストール北西部の森にひっそりと生える神木に宿る傍観者。『人々の願いを叶える樹』などという異名があるが、オラオル自身は人間に対して手助けを行った例はなく、威厳のある樹を見た人々のイメージが勝手に一人歩きした結果である。精霊たちの中でも特に昔から生きている最古参。故に大精霊と呼ばれ、多くの精霊を束ねる立ち居地に居る。
出典:約束の木(短編/恋愛)
・ティナ
オラオルの森に住む若木の精霊。木の精霊らしくない活発さと好奇心の強さを持ち、後にフィーアと共に世界各国を渡り歩き、フィーアの弟子として二代目記す者となる。