第三章『仮面を被るもの』⑨
一年前、私――一之瀬美桜は、ストーカーに悩まされていた。
ほんの些細なきっかけ、ちょっとした遊び心。魔が差した、とはこういうことを言うのかもしれないけれど――私は、絶対に悪くない。
その男は今時珍しい荒くれ者達をまとめあげているリーダー的存在だった。
私がリリヴェにハマっていた頃、噂に聞いた強いプレイヤーがいる、なんて話を信じて向かった先は、夜の街――小汚い飲み屋であり、そこにいたのがその男。
その頃の私は誰にも負けたことがなく、ただ純粋に自分より強い人間がいる可能性という夢を追い求めた。
結果として、そんな存在はいなかったけれど――私はひとりの男に付きまとわられてしまうことになってしまった。
「美桜、大丈夫? なんだか顔色が悪いけど……」
心配する友人をよそに、私は毎日のようにあの男のことで悩まされ、夜も眠れぬ日々を送っていた。
「ストーカー!? ねえ美桜、詳しく教えて」
ある日、限界になってその友人に話をした。
彼女は親身になって私の話を聞いてくれて、少しだけ気が楽になった――と思ったけど。
「ごめんね、美桜……私、何もしてあげられなくて……」
その子は、結局、話を聞くだけで、何か解決案を提示することさえもできない、能無しだったのだ。
小鳥遊雫。
リリヴェでも私にずっと勝てない、ただの取り巻き。私が彼女を友達だなんて思ったことはない。ただ、傍に置いていれば自分が優位に立っていられる、優越感を得るための置き物――ただ、それだけの存在。
どれだけリリヴェを教えても上手くならない。ずっと同じ手ばかりを打つ、脳みそがないんじゃないかと思うほどの低能な人間。
オンラインで知り合って、直接会うようになって、ちょっと私を持ち上げてくれるから気持ちよくなって付き合っていてあげたけれど、こいつに価値なんてない。
その実、私が与えてばかりで、この女は私に何も与えてはくれないじゃないか。
悩みを打ち明けたことを後悔しながら、私はこれからどうしようかと考えて、考え続けて――
「ああ、そうか」
あのゴミ男に、差し出せばいい。
私の代わりに穢れてくれたらいい。
だって、あの子にはそれぐらいしかできることなんてないのだから。
――そうして、事件当日。
あらかじめ男を呼び出していた場所に、雫を待たせておく。
彼女は何の疑いもなく私の言う通りに公園へとやってきた。本当に馬鹿な女だ。同じ人間だとは思えない。
男は、何故か複数の仲間を連れてやってきた。
これまで無視し続けていた私が呼び出したことに警戒したのかはしらないが、別に構わない。
ここで雫を差し出して、私は見逃して貰う。
これ以上、付きまとわないでくれと、お願いする。
やることはシンプル、ただそれだけのこと。
「ねえ、待って……なんで私まで!? 辞めてお願い! 離してぇっ!」
――けれど、男たちは雫だけでは満足しなかった。
あの女が馬鹿なのは私しか知らない。それに、お前ら男どもは馬鹿だろうが穴があればいいでしょ? どうして私までこんな目に合わなくちゃいけないの!?
――気が付くと、数人の警察官が男たちを取り囲み、捕まえていた。
私は助かったのだと安堵したが、その後に待っていたのは軟禁という名の地獄。
どうやら男は他にも仲間がいるらしく、外に出たらそいつらに報復されるかもしれない、と警察に話を聞かされた両親は、私を死亡扱いにして家から出ないように閉じ込めた。
世間では死んでいて、一部の関係者にも海外留学していると嘘のでまかせを流す。
よくやるものだ、過保護にもほどがある。
そうして一年間、私は耐えに耐え抜いた。
今日このときをどれだけ待ち望んだかわからない。
ただ欲しかったのは自由だけ。
外に出て怯えて暮らすことよりも、内側に縛られていることのほうがよっぽど苦痛だったのだ。
「はあ、はあ……なんなの、あの人……」
ミカエル、という女性を思い出す。
彼女は普通じゃない。異常だ。そしてなにより、その彼女と顔が瓜二つな絵溜もまた同じなのだろう。
結局、友達なんてものは信用ならない。
私に何かをもたらしてくれる存在など、この世のどこにもいやしない。
だけど、今は――今だけは、もう、自分ではどうしようもない。
「誰か……っ、誰か、助け――」
走っていたはずの脚が、崩れ落ちる。
力が入らない。まるで棒にでもなってしまったかのようだ。
「う、く……っ――」
涙があふれる。嗚咽がこぼれだす。
どうして、私が不幸にならなければならないのか。
これだけの才能を持って生まれたのに。
自由を奪われ、オシャレもできない。髪だって本当はもっと伸ばしたい。昔のように遊びたい。可愛い服を着たい。なのに、なのに、どうして、どうして!
「――美桜!」
絶望の淵に倒れ込んでいた私の名前を呼ぶ、声がした。
「……、え?」
「良かった……探したんだよ、美桜。ずっと、ずっと探してた……」
そこにいたのは。
かつて私が捨てたはずの、トモダチだった。
◆◆◆
小鳥遊雫。
彼女は倉庫から逃げ出してきた私を見つけ、手を差し伸べて、近くにある小さな物置きへと匿ってくれた。
「……うん、ここなら誰にも見つからないと思う」
ショートヘアに眼鏡をかけた地味な女。
昔と相変わらずのそれは、私に向けて笑顔でそんなことを言っている。
「なん、で……」
「友達を助けるのは当たり前でしょ?」
その女は――雫は、そう言って、私の隣に座り込んだ。
「わ、私は……昔、貴女を……」
「うん。でも良いんだ。私はずっと美桜に会いたかった。顔が見たかった。それだけだから」
そう言いながら、雫は私の顔を覗き込む。
至近距離、少し前に出れば唇が触れ合ってしまうくらい、近くで。
「ねえ、美桜。落ち着いた?」
「え、ええ……あの、ありがとう……雫」
私は心にもなく感謝の言葉を口にした。
まだこの身体はこんなにも虚実にまみれているというのに、雫はそんな私を慈しむかのように見つめている。
「そうだ。リリヴェやろうよ、美桜」
「……は?」
唐突な提案に、私は理解できないまま、ただ目の前で準備を始める雫の姿を眺めていることしかできない。
「私、美桜に会ったらまたリリヴェやりたいなって思ってたんだ」
「そ、そう……」
言われるがまま、私は雫とリリヴェを始める。
辺りは暗いけれど、物置きには電灯が備えられていて、雫がそれを点けてくれた。
「さあ――やろうよ、美桜」
そうして私は、雫とリリヴェの対戦をした。
昔と変わらない光景。
懐かしさすら感じる――どこか、罪悪感に苛まれるような、ひととき。
結果として、私は。
「負け……た?」
雫とのリリヴェで、初めての敗北を喫していた。
「美桜、悔しい?」
「……たまたまでしょ。運勝ちしたからって調子に乗らないで」
私はすぐさまもう一度リリヴェをやるための準備を始める。
雫は無言でそれに付き合っていた。
「――嘘でしょ?」
けれど。
結果は、またもや敗北。
「まだよ。ちょっと疲れが溜まっていただけ……」
それから何度やっても、何度やっても、私は負けた。
昔と同じ光景なのに、全然違う結果。
こんなのおかしい、間違っている。
だって、
「貴女……どうしてよ!? 昔はあれだけやってもずっと下手くそのままだったじゃない!」
雫は――この女は、馬鹿で、低能で、ずっと私にくっついているしかできないような人間だったはずじゃないか。
「だって、勝ったら私のこと嫌いになるでしょ?」
……そうして。
雫は何か、よくわからない台詞を吐いた。
「なに、が?」
「美桜は自分より上の人間が許せない。ううん、視界にすら入ってなかった。下の人間を見下して、馬鹿にして、そういう人たちだけを相手にして、自分が上だと優越感に浸って、そうやってずっとずっと生きてきたんでしょ?」
雫は、気が付けば先程までの笑顔は消え失せている。光のない、どこまでも虚ろな瞳で私を見つめていた。
――ああ、その顔は。
いつかどこかで、見たことがあるような。
「だから私、練習しなかったよ。ずっと美桜と仲良くしたかったから、美桜にとって見下す存在でいなくちゃいけなかったから。そうしていたら、ずっと美桜は私と一緒にいてくれるって信じていたから」
この女は、いったいなにを言っている?
「でもね、捨てられたときに気付いたんだよ」
この女は、どうして私を助けたのか?
「ああ、私が本当に欲しかったのは、本当に見たかったのは、私を見下している美桜の顔じゃなくて――」
……そう言えば。
この女は、なぜ、私がここにいることを知っているんだ?
「自分が上の存在じゃなくて、ただのその辺によくいる性格の悪い人間で、別にこの世は自分のためにあるわけじゃなくて、誰かを裏切れば自分もまた裏切られるんだって、そういう見て見ぬふりをしてきたものすべてが、自分の敵になったときの――その絶望した顔が、私は見たかった」
そう言って、雫が私に馬乗りになる。
え、私が下なの?
貴女が上?
どうして?
なんで、こんなことになっているの?
「思い出したんだ。ずっと忘れていたけど、一年前のあの日、私は美桜に見捨てられることに気付いてた。でも、抵抗するつもりはなかった。むしろ丁度良いと思ってた。ただ、美桜が死ぬのは嫌だったから、警察に通報だけはしておいた」
首が、苦しい。
なにかが、私を、私の喉を、締め付けて、
「これでストーカーがいなくなるなら、私が役に立てるならそれでも良いと思った。本当だよ? だって友達だったから、私たち」
息が、できない。
視界が、赤く、あか、く――
「でもね、そのときに気付いた。私が本当に見たかったものがなんなのか。私が心から望んでいた、本当の、気持ちに」
な……に、も、見え――
「だからさ、今日、美桜が大会に出るってわかって、あの日の続きをしようと思ったんだよ。美桜がずっと悩まされていた問題を解決するため――なんて、自分に言い聞かせて。私は良いことをしているんだって。あの男の人たちも、まさか本当に『OMI』が美桜だと信じるなんて、ねえ?」
あ。き、える――消える、私の、ぜんぶ。
「ただ本当は、美桜がこうして絶望している顔を見たかっただけ。それだけなんだよ」
手が、離される。
ひゅう、ひゅう、と、足りない酸素を取り込むために、私の意思とは関係なく、呼吸が繰り返される。
「でも、よかった。『OMI』が美桜じゃないって気付いたときには焦ったけど、きっと美桜のことだから全部お見通しだったんだよね?」
「な……に、言って……るの、しず……く」
「だからさぁ。全部、私がやったことなんだって」
わけがわからない。
ストーカー男の仲間の残党を処分しようと計画したのは私だ。
では、この目の前にいる女は、なにをした?
「男たちに『OMI』の情報を流したのも。百瀬探偵事務所に依頼をして美桜の計画を潰したのも。全部、私がやったんだよ、美桜」
「あ、ああ――ああああああ!!」
叫んだ。
それしかできなかった。
私は、この女の手のひらで転がされた。
ずっと見下してきたはずの、捨てたはずの、この女に。
リリヴェでも負けて、私はとうとう、この女に勝てるものがなくなってしまった。
「ふ――あは、あはは」
女は笑う、狂ったように。
私なんて取るに足らない、くだらない存在なのだと、それがたまらなく面白いのだと言うように、どこまでも私のことを見下しながら。
「あはは、あはははっ! あは――」
「これで満足した?」
そこに現れたのは、ひとりの女。
絵溜――ではない。似た顔だが、中身はまるで別人だ。
彼女の名は――
「小鳥遊雫。貴女の復讐劇はこれでおしまいよ」
「……ミカエル、さん」
そうして、私は、狂気の女から解放された。
けれど、脳裏には彼女の笑い声がこびりつくように残り続けて――
「行くわよ、ふたりとも」
自由を得られると思っていた私は、それ以上に大切な何かを捨ててしまっていた。
/仮面を被るもの・了




