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アルメニア王国歴三四六年、夏。
アルメニア王国の王フェリプ三世は、自ら大軍を率い、ゴーダ騎士団領国との国境へと迫った。
彼は大陸の覇者たるアルメニア王国の国王であり、大陸でも屈指の歴史を持つアルメニア王家の主である自分に対し、あくまでも不遜な態度を取り続けるゴーダ騎士団を、この世界から消し去る決意であった。
国王の親征に馳せ参じた貴族達の軍は万を超え、国王直属の軍も合わせると、その兵力は十万をはるかに超えるものとなり、小国であるゴーダ騎士団領国の命運は尽きたと、誰もが思ったのは無理もない。
ベルーズド地方を国王より賜ったフェリエスも、軍を率いこれに参加している。彼が率いる一軍が、アルメニア王国北東の要、バノッサに到着した時、城壁の外にまで溢れたアルメニア軍の威容を目の当たりにした。
彼は金色の髪を風に撫でさせながら、すぐ後ろに続く護衛の少女に振りかえる。
「エミリ、バノッサが見えてきたぞ」
「ふえぇ。すごい人だねぇ」
乗馬の上達ぶりに目を見張るものがある少女が、艶のある黒い髪を手で押さえて感嘆の声をあげる。
二人の前後には、ベルーズド公爵旗を掲げる軍勢が、長い列を作りバノッサへと向かっている。騎兵のみで編成された三百人からなるベルーズド公爵軍は、統一された白い甲冑とマントを、照りつける陽光に反射させた。
フェリエスは、エミリから視線を逸らし前方に威容を誇る城塞都市を睨んだ。アルメニア王国北東に鎮座する城塞都市バノッサは、五万人が生活する市街地の周囲を二重の城壁と、深い外堀が守っている。さらにこの都市の周辺は複雑に川が入り組んでおり、攻めにくく守りやすい地形である。
まさしく難攻不落であり、アルメニア王国の対ゴーダ騎士団領国の前線基地でもあるバノッサを前に、フェリエスは感想を述べた。
「確かにこの都市を力で陥落せしめるのは難しいであろう。俺であれば、周囲の街道を封鎖し、川にかかる橋を落とす。補給を絶ったうえで包囲すれば……兵よりも先に市民が不安を大きく膨らませる。彼らよって門は開かれるだろう」
こう言った彼の隣で、エミリが黒い瞳を揺らして笑う。
「また始まった。お城を見る度にこうだよ……」
フェリエスは優しく微笑み、彼女の髪にそっと触れた。
「俺はすぐに国王に謁見する。ハザルとアリストロの言う事を聞いて、おとなしくしておるのだぞ」
「……私、そんなに信用ない?」
「信用とは、普段の言動の上に成り立つものだと俺は思っている」
意地悪な返答をしたフェリエスは、拗ねたように口を尖らすエミリに微笑んだ。
彼女と出会って三カ月ほどが経つ。
フェリエスにとって欠けてはならない大切な存在となった少女は、黒い瞳に大公を映した。
「おとなしくしてるからさ……早く帰ってきてね」
可愛らしいことを言うようになったエミリに、フェリエスは青い瞳を揺らして笑った。
機嫌よく馬を速めたエミリの背中を見つめるフェリエスに、ハザルの弟であるアリストロが馬を寄せる。ハザルと血が繋がっているとは思えないほど、端正な顔立ちに上品な口元の青年が、金色の髪を揺らしたフェリエスに目だけで許しを得る。アリストロは切れ長の目を鋭く細め、口を開いた。
「殿下、モリエロ州の件、ジェローム殿から知らせが届きました。仕込みが終わりましてございます」
「そうか、であれば後は火をつけるのみだな」
覇気を両眼に漲らせた若き大公は、前方で手を振って見せるエミリに右手をあげて見せたのだった。
(俺はまた、彼女を苦しめるかもしれん)
影を作ったその笑みは、雲が覆う空のように晴れなかった。
-Féliwce & Emiri-
バノッサ城の一室に通されたフェリエスは、三年半ぶりに甥と再開した。
伯父である彼より、甥である国王は十三歳も年長で、複雑な対立の原因ともなっている。
国王は諸侯を左右に控えさせ、酒色で濁った眼をフェリエスに向けた。
(俺と一対一で会うのが怖いか)
国王へと歩を進めながら、フェリエスは胸の中で毒づく。
「ベルーズド公、遠路はるばる御苦労であった」
たるんだ顎を震わせたフェリプ三世の労いは、白々しいほどに上辺だけのものであり、眼前に跪いた大公は一礼の後、苦笑する。顔をあげないまま、誰にも見られないその仕草は、精一杯の抑制によるものだった。
「公には、本陣にあって大局的な助言を求めるつもりだ」
「御意にございます」
「よいよい、面をあげよ」
(あげたくないから、下を向いているのだ!)
内心はともあれ、甥との再会を喜んでいるかのような表情を作ったフェリエスに、アルメニア国王が厚い唇を震わせ笑った。
「公には、銀の礼をまだ申しておらなんだな。この場を借りて礼を言わせてもらう」
「恐れ多いことでございます」
再び一礼したフェリエスの頭上に、フィリプ三世の言葉が降りかかる。滑らかな舌が生み出す雑音が、大公の右耳から左耳へと通り過ぎる。
(意味のない事をべらべらと……この男は単に、俺をこうして上から見下ろすのが好きなだけなのだ)
大公は自嘲気味に口端を緩め、あくまでも穏便に謁見が終わるのを待つ。
「して、公よ。予の耳にも届いているのだが、公は妾を持ったのか?」
突然の質問に、構えていたフェリエスも意表を突かれ、思わず許しもないのに顔をあげていた。
そうと気付き、慌てて顔を伏せるフェリエスに、フィリプ三世が鼻を鳴らす。
「公と予の間で堅苦しいことは抜きだ。予としては、宮廷の美女達を悉く退けてきた公が、傍に置いた女に興味がある。許してつかわすゆえ、連れて参れ」
(……! そうきたか)
フェリエスは柄にもなく汗をふき出し、国王に恥をかかせぬ断り文句を考えたが、短い時間でそれは不可能なことであった。
(しかし、どうして国王が、エミリに興味を持つのだ?)
「ヴラド、ストラブールからバノッサまで、どれほどかかる?」
王に名前を呼ばれた筋骨逞しい偉丈夫が、一礼と共に進み出た。
ヴラド・ヴィシュル・ワラキア伯爵。
王国でも屈指の用兵家であり武人である彼は、別名『血のヴラド』と呼ばれていた。それは、彼の軍の進むところ、非戦闘員でさえも立っていることを許されないからである。昨年のイスベリア侵攻戦では、投降した敵兵を全て斬首した。さらにそれらの首を敵軍の眼前に並べ、色めき立つイスベリア軍中に突撃し、戦場一帯をイスベリア人の血で赤く染め上げたのは、記憶に新しい。
「申し上げまする。ストラブールより馬車で四日というところでございましょう」
嫌になるほど正確な報告をしたヴラドに、音が立たぬよう舌打ちしたフェリエス。
彼は汗を顎から滴らせると、ようやく口を動かした。
「恐れながら陛下。ゴーダ人どもを殲滅する大事な時に、私めの側女ごときの為に時を費やすのはいかがなものと思いまする」
フィリプ三世が、侍女から受け取った葡萄酒の杯を、金色の頭に投げつけた。
「其の方、予に盾突く気か?」
葡萄酒で髪を濡らした大公が、震える唇を噛みしめた。
一瞬の沈黙に、居並ぶ諸侯が息を飲んだ。
滴る葡萄酒をそのままに、フェリエスが深く一礼したのは、国王が太った身体を玉座から浮かそうとした、まさにその時であった。
「滅相もございませぬ。このフェリエス、陛下のご威光なくして、いかが致しましょうか。さすれば必ず、側女を呼びますれば、陛下のお目汚しにならぬよう願うばかりでございます」
フェリエスの言葉は、吐き出す度に彼自身を締め付けた。
ただでさえ、エミリは特殊な事情の子だ。彼女を、この男の前に連れだす恐怖に、大公は流れ出す汗を止めることができない。
国王の前を辞した彼は、濡れた髪を手で掻き上げる。その時、左耳の耳飾りに指が触れた。
鳩を飛ばし、それを受け取ったストラブールから馬車でバノッサまで到着するまで四日間。
ヴラドの計算は、フェリエスのものと完全に一致していた。
(四日間で、エミリは作法を完璧に覚えられるか? ……無理だ)
最近、少しずつではあるが言葉使いや態度に改善が見られるものの、あの国王の前に出すなど以ての外である。
「いかん、いかんいかん」
(考えろ)
フェリエスは、うかつにも感情も露わに自陣に帰り、そこでエミリに顔を見られた。彼女はおとなしくしていろというフェリエスの言いつけをまんまと破り、武官姿で陣地内をうろついていたのだった。いつもなら、小言の一つでも言ってやるのだが、この時ばかりはその余裕すらない。
黒髪を揺らして歩み寄って来た彼女は、笑みを浮かべていた頬を強張らせ、唇を薄く開いてフェリエスを見つめてきた。
「エミリ……、すまんが厄介事があってな」
少女は、不安げに声を震わせる。
「王様になんか酷い事、言われたの?」
(俺の心配をしてくれるのか)
フェリエスは堪らず愛しい少女を抱きしめようとしたが、視界の端に長身の男が映る。
エミリの後方に、ハザルの姿があった。
彼は馬に乗っており、空馬の手綱を右手に持っていた。どうやら乗馬の練習を二人でしていたらしい。
勝手にエミリが言いつけを破ったと勘違いした詫びも含めて、フェリエスは己の欲求に応じる。彼は彼女の頬に唇を寄せた。
「ちょ!」
慌てた彼女を抱きとめ、逃がさないように捕まえると、頬に唇をつけ、次に彼女の唇を奪う。
(俺は……俺はどうすれば、エミリを守れる?)
自問自答する彼に、エミリの照れたような抗議が重なった。
-Féliwce & Emiri-
王様のところから帰ってきたフェリエスは、明らかに様子がおかしかった。彼は私にキスをしてくれた後、アリストロさんと一緒に天幕の中に入って行ってしまわれた……。
ああ、そんなご無体な……。
ポツーン……てこの事なり。
独眼竜のおっさんに名前を呼ばれ、私は渋々と乗馬の練習を再開する。
「エミリ、ご機嫌斜めだな」
「そんな事ないっす」
馬に乗った私は、ハザルさんから手綱を受け取る。私の愛馬が首を微かに振って鼻を鳴らす。
「国王に面倒な事を言われたのだろう。アリストロと相談し終わったら、またお前を呼んでくれるさ」
いかつい顔のくせに優しい独眼竜はそう言って笑うと、私の馬の首を撫でる。
「ほら、馬まで落ち着かない。馬は乗り手の感情を読む。お前がこいつに心配されてどうするんだ?」
「はぁい、気をつけます……」
愛馬の鬣を私が撫でると、気持ちよさげに嘶いてくれた。
「よし、気分転換にちょっと川まで行くか。おい!」
ハザルさんが右手をあげると、馬に乗った兵士、騎兵と呼ばれる人達が私の周囲に集まる。
「川まで遠駆けする」
騎兵達に周囲を守られ、私は緊張した面持ちで手綱を握った。
慣れないんすよぉ……。こんな大袈裟にされるのって。
だいたい、私は護衛ですよ? 護衛の護衛をしてどうすんの?
「お前に何かあったら、殿下に申し訳が立たん」
ハザルさんは、私の表情から頭の中を読み取ったらしく、笑顔を向けてそう言ってくれた。
周囲の騎兵達からも、笑い声が起こる。
一緒に訓練をしているせいか、随分と仲良くなれました。あの陰湿なメイド達とはえらい違いだわ。嫉妬っつーのは格好悪いね。私も気をつけよ。
馬に乗るのは、こっちの世界に来てから始めた事で、最初の頃は全く駄目だった。思う方向に進んでくれないわ、止まれと言っても走るわで、それはもう大変だったけれど、最近は馬の背中で風を浴びるのがとても気持ち良い。自転車と違って、こう生き物に乗るっていうのは、とても素敵な事なのです。
心が通い合うのを確かめる的な……?
「野営地の外に出るからな。顔を隠しておけ」
ハザルさんに頷いた私は、首まで下げていたマスクを引っ張り上げ、鼻の上まですっぽりと隠す。
十人ほどの集団で、野営地を出た私達は、笑い声をあげながら川へと向かう。アルメニア王国の気候は、日本より随分と涼しい。今は始暑の月という、日本では六月にあたる月らしいんだけど、湿気はないし気温も高くない。非常に 過ごしやすい夏です。逆に言えば、冬はどうなるんでしょう。寒いのが苦手な私は、コタツのないこの世界の冬をどう乗り越えたらいいんでしょうか。
「止まれ!」
ハザルさんが怒鳴る。
私達は、一塊となって馬を止める。円形に固まっていたのだけど、ハザルさんの指揮で縦列へと変化する。街道を空けるためだ。
先頭のハザルさんが、私達に馬から降りるよう手で合図した。バノッサへと向かうその一団が私の視界に入った時、隣の兵士が「エミリ殿、頭を下げて」と教えてくれる。
ゆっくりとバノッサへと向かうその行列は、先頭の騎兵から、歩兵や弓兵と続き、また騎兵が現れる。そして特に重厚な装備の騎兵に囲まれた豪華な馬車が、私達の前で速度を落とし、完全に停止した。
馬車を操っていた兵士が、窓を開く。
「伯父上の軍か?」
窓から私達に向かって声が放たれる。私は頭を下げたままだから、どんな人かは見ていないが、声の質は明らかに男性のものだった。
恐い。
私はなぜか、その男の人に声をかけられた瞬間、恐怖を感じた。それはまるで私達を人ではなく物であるかのように思っているほどに一方的だったからだ。
「お許しを得て申し上げます。ベルーズド公爵軍騎兵連隊を預かるハザル・ドログバでございます」
ハザルさんが、相手の顔を見ないように、身をかがめて数歩近づき、そこに畏まる。
「陛下はお優しすぎる。妾腹の子に領地を与え、さらに軍まで持たせているなど、周辺諸国に我が王家は笑われておろうぞ」
妾腹の子……。
フェリエスのこと?
「ハザル、お前のような腕が立つだけの暴れ猿が、分家とはいえ、王家の軍を率いるようになれば、そうも礼儀を真似られるようにはなるのだな」
ハザルさんは、逡巡の迷いもなく深く一礼する。
「ありがたきお言葉。猿めに殿下のお言葉を頂けるなど、末代までの栄誉でございます」
「はは、伯父上によろしく伝えよ」
不快と腹立ちで私を震えさせた男は、「行け」と声を発して、馬車を進めた。
馬車の後方にも、多数の兵士達が隊列を組んでいて、それらが完全に通過するまで、私達はその場で頭を下げ続ける。
「よし、もういいだろう。馬に乗れ」
ハザルさんの声に、兵士達から安堵の声が漏れる。
「何? あの嫌な奴は」
私は手綱を掴むと同時に、たっぷりと溜めこんでいた負の感情を、声に込めて吐き出した。
「王弟殿下ですよ」
隣の兵士が私に教えてくれた。
「へん! 王様の威を借る狐ってことだね!」
私は頬を膨らませ言い放つと、周囲の兵士達から拍手が沸き起こった。
フェリエス、皆から好かれていて良かったねぇ。主君を悪く言われて、皆、頭にきてたんだね。
ハザルさんが、列の先頭から私の隣まで馬を返してきた。
「エミリ、今日は帰ろう。殿下に報告せねばならん」
「むぅ……残念。でも、何を報告するの?」
ハザルさんは、片目だけとなった目を忌々しげにバノッサの方角へと向けた。
「王弟がバノッサに到着した。これだけで殿下に報告する価値があるのだ」
「ふうん。よく分からないけど」
私は、何も起こりませんようにと願いながら、馬の鬣を撫でたのだった。
-Féliwce & Emiri-
「モリエロで暴動を起こさせるのを早めよと?」
「そうだ」
アリストロに頷いたフェリエスは、ジェロームから届けられた手紙から視線を逸らし、切れ長の目を細める幕僚を見た。
「あの国王が、エミリに興味を持った。ここに連れて来いと言いだしたのだ」
アリストロの目が大きく開かれた。
彼の兄と仲の良いエミリは、自然とアリストロとも接する機会も多い。
大公の大切な少女は、その寵愛を受けようとも尊大な態度をとることもなく、逆に周囲の幕僚や官僚、使用人達をたてる気遣いを見せる。そういう理由もあって、エミリは家中の多くから好かれている。かくいうアリストロも、彼女を友人として、また同僚として気に入っていた。
あとは言葉使いと、おてんばぶりを直せば完璧なのだが、その短所を叩けば長所も失ってしまうだろうと、アリストロは脳裏に描いたエミリに笑いかけるように、頬を弛める。
大公はこの時、目の前の幕僚が場違いな笑みを湛えているのを見て、部下がエミリの危機を楽しんでいるのかと疑い、注意をする。
「笑うところではないぞ」
「申し訳ありません……」
笑みを苦笑に変えたアリストロは、主君と少女のために案を出す。
「殿下、替え玉を用意しては?」
「……その手もあるな。しかし、数日しか凌げんだろう」
青い目を曇らせた大公は、ぬるくなった葡萄酒を飲み、顔をしかめる。
「アリストロ。どうあっても長居はできなくなった。ここは、王軍が北に目を向けている好機でもあることだし、モリエロ州を動かす」
「畏まりました。しかし、殿下。身代りの件でございますが、アレクシ様にはあくまでも、エミリどのを庇うというより不敬のなきよう取り計らうのが目的としたほうがよろしいでしょう。それと、モリエロ州のほうも、好機だからこそと伝えねばなりますまい」
アリストロの言葉に、フェリエスが舌打ちをする。
「自分が傍に置けと言いだしたくせに、今となって文句を言いだすとは、アレクシには困ったものだ」
そうなのだ。
フェリエスがエミリを寵愛することに、彼女を側女に推薦した本人が難色を示し始めたのである。これは大公の頭痛の種であった。
アレクシは事あるごとに「あくまでもお役目でございますぞ、殿下。エミリはお役目を果たしておるだけでございますぞ」と言い、フェリエスは耳が痛い。
うんざりとした表情を作るフェリエスに、アリストロがアレクシの肩を持つ。
「殿下、ご家老はあくまでも、政略を考えて危惧されておるのだと思えます。つまり、殿下があまりにもエミリどのを――」
「わかった、わかった。もう言うな」
フェリエスが照れたように笑った。
アリストロは、この優れた統治者に従うようになって随分と経つが、その主君がこんな照れるという顔をするのかと目を瞬かせ、すぐさま思案する。
(殿下も人の子だ。だからこそ、アレクシ様の危惧も分かる)
アルメニア王家の一員であるフェリエスは好き嫌いで相手を選べない立場であるから、アレクシが苦言を呈しているのを、アリストロは察知しているのだ。
彼は、若い主君に叱られることを承知で口を開く。
「殿下、あえて申し上げます。エミリどのは確かに良い子です。だからこそ、ご自制なさいますよう。ただでさえ、エミリどのは複雑な事情をお持ちなのですから」
「そんなに俺はエミリに甘いか?」
「甘うございます」
断言してみせた幕僚に、フェリエスは苦笑を返した。
(そういえば、エミリが来てからというもの、大公と彼の周囲の関係に変化がある。フェリエスは以前に比べ、臣下達が彼に対して親しみを込めて接するようになったと感じていた。エミリが来る前のアリストロであれば、先ほどのような発言はまずしなかったであろう)
周囲の変化をエミリ一人に押しつけた大公は、まさか自分までも感化されているとは気付いていない。だからこの時も「アリストロ、悔しかったらエミリのような可愛い女を見つけろ」などと軽口を叩いた。
「鋭意、努力致します。では」
フェリエスの冗談に、真面目くさって一礼したアリストロは天幕の外に出て、鳩小屋へと向かった。荷馬車に載せられたその中に、羽根を休める白い鳩が四羽、小さく鳴きながら首を動かす。
小さな紙に、素早く文字を書いたアリストロは、鳩小屋から鳩を出し、脚に紙を結び空へと解き放った。
激しく羽根を動かした鳩が、水平に移動し南へと羽ばたいて行く。
「殿下は以前に比べて、我らにも壁を作らなくなった。これが良い方向に向かえばよいが……」
切れ長の目を細めた彼は、鳩の姿が見えなくなるまで、その場を動く事はなかった。
-Féliwce & Emiri-
バノッサの城壁から東へ少し離れた場所に、私達が寝泊まりする野営地がある。ベルーズド公爵旗は、黒字に金色の獅子と鷲が向かい合っているような絵柄で、それが野営地にはためいている。
その中に一本だけ、白地にサクラの花が描かれた旗があるんだけど、それはフェリエスが在陣しているという合図の旗です。
えへへ、私は幸せ者ですよ。
ハザルさんと一緒に、大公殿下の天幕に入ると、そこには難しい顔をしたフェリエスが椅子に腰かけ、テーブルの上に広げられた地図を睨んでいた。
「ただいま。アリストロさんは?」
「仕事だ。それより、乗馬の訓練は終わったのか?」
「報告がございまして切り上げました。殿下」
ハザルさんがフェリエスの許しを得て、彼の向かいに座る。私は二人の為に水を木製の杯に入れて運ぶ。
「王弟が到着致しました」
ハザルさんの言葉に、フェリエスは綺麗な眉をこれでもかというほどにしかめ、口をへの字に曲げる。
そんなに嫌いなんですね。私と趣味合いますね。
「カミュルが来たのか。これはさっさと退散せねばならん」
「何があったのです?」
「そうそう、何があったの?」
大公殿下に顔を近づけた私と独眼竜。
最近、このおっさんと息が合ってしまうのが私の悩みの種です。良い人なんだけどねぇ。
「国王がエミリに興味を持った。ここに呼べと言ってきたのだ」
ふんふん、国王がエミリって子に興味をねぇ。
……!
「私じゃん! それ」
呆れた顔をした独眼竜が、「他に誰がいる」と呟く。
国王に私と会わせろって言われたんだね? もちろん、そんなの断ってくれたよね!?
……。
難しい顔をする彼を見れば、断れなかったのは明白です。
「むむむむ……無理無理無理無理無理。絶対に無理!」
「分かっている。だからこうして考えているのだ。落ち着け」
大公殿下は苦笑して、私の腰に手を回すと、膝の上に乗せてくれました。
「落ち着いたか?」
「ふぁい」
ああ……、こういう事なら、いつも慌てておりたいです。
「ここはアリストロの案と、モリエロ州を動かす案の同時進行でいく。ハザル。軍をまとめておけ。いつでも帰れるようにな」
「承知致しました。弟はなんと?」
「替え玉を用意する」
ハザルさんは納得したように笑みを浮かべ、水の入った杯を口に運ぶ。でも、すぐに怪訝な顔をして、私を見る。
「背格好がエミリに似ている女は探すのが難しいでしょう」
私もそう思う。なんて言ったらいいのかな。顔の造形がまず違うのです。えっと、私は日本人です。アルメニアは多種多様な人種がいますけど、東アジア系は皆無。
「ハザル……。何もこいつに似てなくともよい。国王には、それらしい女を会わせればそれで良いのだ」
「問題は誰を差し出すかですな」
ハザルさんの言葉に、フェリエスがつらそうに顔をしかめる。
……つまり、それだけ危険ってこと?
私の代わりに、危険な目にあう人がいるということ?
表情を曇らせた私は、金色の髪を気づかないうちに触っていた。フェリエスが青い綺麗な瞳を私に向ける。
「最も良いのは、モリエロ州の動きに合わせて、さっさとこの地を離れる事です」
ハザルさんが、目の前に広げられた地図に視線を落とした。
フェリエスの領地、ベルーズド地方の南西に接するモリエロ州は、日本で言えば神奈川県くらいの広さだ。そこは少し前まで、クロエちゃんとジェロームさんのお父さんが治めていた土地だったけど、理由があって彼らは国王によって領地を奪われ、住む場所と財産を奪われたらしい。
フェリエスの屋敷に、クロエちゃんが住んでいるのは、ジェロームさん共々、大公殿下が二人を助けたから。
そのモリエロ州の地図を眺めたハザルさんが、指で一カ所をトントンと叩いた。
「州都ペジエまで、州境から約二日。このバノッサからだと四日がかかります。つまり、我々はジェロームより二日早く、動かねばならない。殿下、どう呼吸を合わせるのですか?」
フェリエスは私の腰に回していた手をほどくと、腕を組んで椅子に背中を預けた。彼は長い睫毛を揺らして瞬き、唸るように息を吐き出す。
「決行日を決めておき、そこから逆算してペジエに迫るという手もある。だが、最大の問題はだな。あの国王に俺がここを離れる事を認めさせる事だ。地方の混乱を治める為に、周辺の諸侯を動かすまでは問題ない。だが、俺がそれに加わるのを、あの道楽息子に認めさせねばならん」
難しいお話をする二人を交互に見た私。
ついていけませーん。
私が退屈そうな顔をしていたのが、二人にばれた。
「エミリ……。悪いがどうしても今は殿下と話をさせくれ」
ハザルさんが、申し訳なさそうな顔をする。
「どうぞ」
私は、聞きわけの良い女の子を演じて、フェリエスから離れる。すると大公殿下は、私の手を掴み、引っ張る。あっという間に、元の位置に置かれた私に、フェリエスが優しい声を発した。
「エミリ、お前が国王ならどう思うか教えてくれ」
はいはい、相手にされない可哀想な私に気をつかってくれてるんですね。
「お前は理より、感情で動く傾向がある。考えてみてくれ」
私……傷ついたぁ。
まだ根に持ってるんですか? フェリエスのことを酷く罵った件は謝ったじゃんよぉ。あの後、仲直りしたじゃん。いや……、仲直り以上の事をしたじゃん!
「ちょっと、どういう意味?」
ここは強気に出ます。
「責めているんじゃない。お前だから相談できるんだ。そうだろ?」
フェリエスが私の髪に触れ、柔らかい笑みを向けてくれた。
いいよ。
惚れた弱みですよ。
「分かったよぉ。でも、王様とフェリエスの関係とか、その人柄とかよく知らないんだけど」
「そうだな。俺が話すとどうしても偏るな。ハザル、説明してやってくれ」
ハザルさんの説明を、蜂蜜漬け檸檬を齧りながら聞く私。
「――という訳だ。おい、聞いてるか?」
「聞いてるよ。えっと、私が王様だったら、フェリエスの言うことは、どんなことでも絶対に聞きたくないな」
二人の目が丸くなった。
「だってさ。王様はフェリエスのことを大嫌いなんだと思うんだよね。その大嫌いな人が、どんなことを言っても、その通りにはしないと思うよ。だから何を言っても無駄だと思う。信頼している人から言われたことじゃないと、うんと言わないんじゃないかな」
ハザルさんはとても説明上手だ。軍人さんは報告慣れしているからかな。だから考える事が苦手な私でも、王様の人柄とフェリエスをどう思っているかが良く分かった。
先代の王様の長男というだけの理由で、王様になったフィリプさん。えっと、この名前を持つ王様は彼で三人目だからフィリプ三世というらしい。その彼は、大貴族達の後ろ立てがあり、能力的には欠陥を抱えながら、順等に玉座に着いた。でも、政治は全て大貴族達と弟のカミュルという人によって執り行われ、毎日、後宮というところに籠もって暮らしているらしい。その彼が、今回のように隣の国へ攻め込むって言いだしたのは、現在、自分の置かれている状況が気に入らないからだと私は思った。
自分の命令一つで、どうにでもなると周囲の人達に知らせたいという、なんとも情けない自己顕示欲? プライド?
私がそれらを説明し終えると、フェリエスが私を抱きしめてくれた。
「ひあああ!」
ちょっと! 独眼竜がいるっての!
「エミリ、お前に相談してよかったぞ。名案が浮かんだ」
大公殿下は、私を駄目にする笑顔を見せてくれたのでした。