5
私は地面を掘っていた。
涙と埃で汚れた顔も気にならない。
森はまだ炎を噴き上げていて、近寄れそうもない。だから出来る範囲で死んだ人達の死体を埋葬する。
自己満足と言われるだろう。
馬鹿で感情的な女だと笑われるだろう。
戦った兵士や、被害に遭った人達を無視するのかと責められるだろう。
そんな事はわかっている。
そして、そんなものは関係ない。
私は、空気が読めないと言われても構わない。
死んだ人達を前に、それを見ない事にする。当然のものとするなど、できないのです。
お腹を斬られて内臓が飛び出し死んでいる人。
腕や脚がなく血が流れ続けて死んだ人。
顔の半分が欠けたように斬られていて絶命している人。
生きたまま焼かれ、それでも戦って死んだ人。
たくさんの人が私の目の前で死んでいる。
たしかに、この人達は悪い事をしていた人達だ。でも、だからといって殺されても良しとするのは私には理解できない。これは、私がこの世界の人間ではないからだろうか。私は被害者じゃないから、親や兄弟や恋人を殺されたわけでもない全くの他人だから、こう考えるのだろうか。
大切な人を奪われた事のない人間が言う、偽善に過ぎないのだろうか。
これを偽善の一言で済ませるほど、私は賢くない。
私はこれに慣れることができるだろうか。
いや、できない。できないと思う。慣れるなんて絶対にない。人がこうも殺される現実が、日常であるなんてあってはいけないと思う。
甘い理想と現実の区別もつかないぬるい女だと笑われるに違いない私は、でもだから私は、ここから逃げないと決めることもできるのだ。
隣で作業をしてくれていたハザルさんが手を止めた。
私は彼の足元を見る。
そこには、まだ息のある人がいた。でも、肩と腹からの出血はもう助からないとわかる。
私は膝をつく。
彼は、かろうじて動く手を必死に動かしていた。
私はそれを両手で包むように握った。
「お……お母さん? お母さん」
その人の手を握ったままの私は、それに頬を当てる。
「お母さん……痛いよ……ごめんよ、ごめん。会えない。もう会えな……」
彼の目は開いていたが、何も見えないのかもしれない。ただ私の頬に触れる手の指が、母親を求めるように動く。
「大丈夫……ここにいるから」
私の声に、彼は見開いた目から涙を流した。
「お母さん……寒い……お母さ……」
彼の手から力が抜け、たった今、死んだのだと私は知る。
どんな人にも家族はいる。
私は彼の目を指で閉じさせると、死体から離れ地面に嘔吐した。もう何度目かわからない。
ジェロームさんが背中を撫でてくれる。
「私……ごめんなさい。私、兵隊さん達には悪いけど! 必死で戦った皆に悪いけど! 私はこの人達に死んで欲しくなかったよ!」
叫んだ私は、ジェロームさんの助けを借りて立ち上がる。そしてまた道具を持ち、穴を掘る。この時、これまで冷めたような目で私を見ていた兵隊さん達が、手に道具を持ち地面を掘り、死体を運び始めた。
「俺も、殿下に雇われてなかったら、こいつらと同じようになっていたかもしれないから」
兵士の一人が、私に呟く。
私達の作業は、夜が明けて穏やかな陽光が大地に届き始めても終わらない。
ハザルさんが言う。
「エミリ、今回は我が軍に死者が出ていないから、お前のしていることにも皆は寛容だ。それを間違えるな」
この人は強いだけじゃなく、とても優しいのだと改めて知る。
「うん……ありがとう」
ジェロームさんが私の手からスコップを取り上げた。
「あと少しだから大丈夫。殿下の幕舎に行きなさい。さ、謝罪をしてくるのです」
「うん……」
気が重い。
ハザルさんが私に言う。
「大丈夫だ。殿下はやはりお前を気に入っておられるから、ちゃんと誤魔化さず誠実に謝罪すれば許してくれるだろう。だが、当分は飯抜きかもしれんぞ」
周囲で笑い声があがり、私はいくらか楽になった。
作業を続ける皆に深く頭を下げ、顔をあげた私は歩き出す。
フェリエスに謝るのだ。
私がどう考えようとも、それは無責任な立場であるからこそのものだ。でも、人が死んで良しとする事など私にはできない。
私は、これからも悩むだろう。
でも、だからといって一方的にフェリエスを批判するのは良くないと思えた。
ハザルさんとジェロームさんが言ってくれたから、私はそう思えるのかもしれない。
だから、私から謝らなければならない。
許してもらえるかな……。
フェリエスに会うのがとても辛い。
私は大公殿下の幕舎に近づくにつれ、気分を沈めていった。
-Féliwlice & Emiri-
「ごめんなさい」
虎が猫になって帰って来た。
幕舎の中に入って来たエミリを見て、フェリエスはそう思う。彼は甲冑を脱ぎ捨てた格好で寝台に腰掛けていて、目の前のエミリを見上げる必要があったが、彼女はそうと気づき、膝をついた。
許してやりたいし、やりたくない。
複雑な内面を表に出さない努力を必要としたフェリエスは、上半身を露わにしたまま汗を拭い、何も発しない。
それは、彼が今、内で生じている疑問を自らに問うているからだ。
穏便に済ませようと考えているのは何故だ?
彼は王族であり公爵であり、そしてベルーズド地方の領主だ。その彼に失礼極まりない事をやってのけた少女は、誰がどう考えても国外追放より優しい処分は妥当ではないだろう。だがそんな事を彼は望んでいない。
何故だ?
俺はどうしてこうまでエミリに甘い?
単に、境遇が似ているというだけでは説明がつかない。
「私、フェリエスに酷い事を言った。謝ります」
震える声で謝罪した彼女は、言い訳をしなかった。
それでも、彼は言わずにはいられない。
「謝りに来るまで、随分と時間がかかったようだが?」
意地悪な質問に、エミリは首をすくめる。それを見た彼は、思わず許してやりたくなる。
「あの、やっぱり埋葬はしてあげたかったから、皆に手伝ってもらって……」
俺の気も知らんで、さらに罪を重ねおって!
フェリエスは気分を害した。
そして、ハザルやジェロームが未だに現れない理由はそれかと察し、撤収作業を命じるも現れたアリストロが、「森に残党狩りにでも行ったのでしょう。今、しばらくお待ちください」と答えたのみだった。
なんという事はない。
全員で山賊達の死体を埋葬していたのだ。
「兵まで使ったのか?」
大公がじろりとエミリを睨み、彼女は脅えを隠さず、だが頷く。
フェリエスはここで、兵達が彼女を手伝ったという事実に意外さを覚えた。その理由は何かと考えるも分かるはずもなく、悩むうちに面倒となる。
彼は、大きく息を吐き出し吸うと、言う。
「許してやらん事はないが、兵達が俺とお前のやり取りを見ていた。何も咎め無しというわけにはいかない」
「はい」
随分としおらしいエミリに、フェリエスも怒気を削がれる。だが、今の彼女は恐れからではなく、反省だけではなく、努力してそうしようとしていると彼は察した。もちろん、彼女のそこには怒りや反発はない。
この世界で生きていくには、受け止めるしかないのだとする彼女がいた。
「エミリ、受け入れろとは言わない。まずは受け止めろ」
彼はそう言い、彼女を手招くと自分の隣に座らせる。
それは、どうして自分があのような決断をしたのか、彼女に説明したいからだ。
「お前は俺を人殺しだと非難した。それは事実で、俺はそれを否定しない。しかし、あの者共は何も罪のない人々の幸せを暴力で奪ったのだ。自業自得であると俺は思うし、俺が罰するのも当然の事で、彼等は彼等の行いでそうなった面が強い。お前はそうは思わんか?」
彼女は無言で彼を見る。
フェリエスは、黒い瞳に映る自分が、穏やかに微笑んでいると知り笑った。
エミリが、ぎこちなく微笑む。
彼の手が、彼女の手を取る。大公は、彼女以外の誰にも聞かせることがない声色を出せた。
「仮に俺が奴らを許したとして、あれらが再び、悪事に手を染めないという保証などない。そうなれば、俺は罪人を解き放ち、領民の生活を脅かしたという二重の罪を背負うことになる。それも、自分が優しい領主であると思われたいがためにだ……これこそ、非道である」
フェリエスは彼女の濡れた睫を、指先で撫でた。
エミリが瞬きと共に細い声を出す。
「私……私の育った国とは随分と違うから、それに私は無責任な立場だから……」
彼女は言葉を絞り出す。
「それでも私、人を殺すのは良くないと思う。やっぱりそう思う。でもそれは、フェリエスの立場を無視した私の勝手な考えで……だから、謝ります」
いつもの生意気そうな瞳は色を鈍らせ、唇は激しく震えていた。
「ごめんなさい」
エミリが口を閉じる。
フェリエスは彼女を見つめまま、自分の想いと正対していた。
それは、彼女の言葉に様々な感情と想いがあり、しかし最も強いのは、彼と仲直りしたいという気持ちであると大公に伝わったからだ。
フェリエスは理解した。
自分がなぜ、エミリにこだわるのか。それは執着といってもいいかもしれない。彼女がどれだけ不敬を働こうとも、彼はこれからも許してやりたいと思うだろう。
それは、彼が彼女に惹かれているからだ。
「エミリ、お前は俺をフェリエスとして接してくれる」
彼の言葉に、彼女は首を傾げる。それは、当たり前だと言う意思の表れで、どうしてそんな事を問うのかという疑問もそこにはあった。
だからかと彼は微笑み、自分の感情に従う。
フェリエスはエミリを抱き寄せると、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
微かな少女の抵抗も、彼の手が黒髪を撫でると止まる。
しばらくそうして、ゆっくりと離れた二人はお互いの瞳に、それぞれの顔を映した。だが、それが一瞬で離れる。
エミリは頭を払うと彼から離れた。
「駄目! 私、駄目!」
フェリエスは手を伸ばし、彼女の腕を掴むと引き寄せた。
彼は、腕の中で自分を見つめる彼女を無言で見つめる。
黒い瞳が揺れた。
「私、この世界の人間じゃない」
「だから、どうした?」
「今日のような事を、私はまたするかも……私、フェリエスをまた酷く言うかも……勝手な私の気持ちを押し付けて、フェリエスを傷つけるかもしれないよ……」
大公は、嘘はつかないと決めた。
「俺はできない約束はしない。だから、お前の嫌がる事はしないなどと言うつもりはない。俺はお前を苦しめるだろう。今日のような事は、これからいくらでもあるだろう。だが、それでも俺はお前が欲しい。これは俺の勝手な想いだ。お互い様だな?」
「私……元の世界に戻れる時が来たら、戻っちゃうかもしれないよ?」
「エミリ、俺を置いて帰るというのか?」
自分の発言が、彼女を苦しめるとフェリエスには分かっている。
それでも、言わざるを得ないほど、彼は余裕がなかった。
エミリが俯き口を開く。
「後悔……するかもしれないよ」
フェリエスは彼女を抱きしめていた。
「後悔……これを恐れていては何も始める事などできない。俺もお前も……人は生きるから……何かを決めて進むから後悔もするし喜びもする」
彼は黒い髪に頬を寄せ、彼女の温もりに瞼を閉じる。
「エミリ、俺といろ」
彼が再び、彼女に口づけをしようとした時、幕舎の外から声が掛けられた。
「殿下! お待たせしました!」
ハザルだ。
アリストロに兄を呼べと言い付けていたと思いだし、今頃になって来るなとフェリエスが苛立つ。
「ハザル! 撤収は明日にしろ! 埋葬で疲れただろうからな!」
幕舎の外で恐縮しているに違いない幕僚を想像したフェリエスが小さく笑い、エミリを抱きしめたままでも頭痛が襲ってこないと喜ぶ。
彼女は顔をあげて、彼を見つめた。そして、遠慮がちに彼の背中に手を回す。
フェリエスもまた、壊れ物を扱うように優しく彼女を抱きしめた。
二人の唇が寄り合うも、エミリがか細い声をあげた。
「ちょっと……タンマ」
「タンマ? なんだそれは?」
彼の問いに、彼女は身じろぎ答える。
「待って……という意味……泥だらけだし……汚いか――」
彼女の言葉を遮ったのは、フェリエスの唇だった。
彼は薄く目を開く。
可愛い彼女の顔を近くで見たいと思ったからだ。
エミリは目を閉じていた。
眉も睫も良く見えた。
きめ細かい肌に、フェリエスは触れたくなる。
彼女の黒髪を撫でた彼は、少女の耳で光る耳飾りを見つけた。
サクラという花だと彼女が教えてくれたものだ。
フェリエスは瞼を閉じる。
背中に回された彼女の手に力が入ったと感じた彼は、応えるように強く抱きしめる。
不思議と、幻聴、頭痛が襲ってくる事はなかった。
-About 1000 years later-
僕は、目の前に腰掛ける女性が何者だろうかと推測しながら、彼女の優雅な所作に見入った。紅茶を口元に運ぶだけであるけれど、とても洗練されているとわかる。手の動き、姿勢は主張しているように思え、白髪すら美しく映える彼女に問う。
「ご用件を窺います……が、その前にお名前をお聞きしても?」
「申し訳ありません。ご無礼この上ない事と存じますが、名前はご勘弁願えますか?」
僕は黙る。
初対面で、さらに名乗らない相手を家に招き入れた僕ではあるが、ここで改めて尋ねて拒否されるというのはあまり考えられない。犯罪者ではあるはずがないと、身につけている衣服やアクセサリから窺える初老の彼女が、ではどうしてかと首を捻る。
「約束なくお越しになられた……名乗りもされない貴女をこうしてもてなす僕はおかしいですか?」
「感謝の言葉もございません。追い返されても仕方ないと思いつつ意を決して参りましたが、しかし本当にありがとうございます。貴方のお人柄にすがるしかない老婆をお許しください」
「いえ……ですが、以前にどこかでお目にかかったでしょうか?」
僕は彼女と、どこかで会ったかもしれないと思えていた。
彼女は微笑む。
「最初は書店で……サインを頂きました」
僕が出した本を買ってくれた人で、書店で会っていたようだ。それにしても、どうして僕を訪ねて来たのだろうか……。
彼女の足元ではご婦人を見上げご機嫌の犬――僕の愛犬であるテスがいて、ゴーダ犬特有の、先が白い尻尾をぶんぶんと振って感情を露わとしている。テスはご婦人に垂れ耳を撫でられ、笑うかのような表情を保っていた。
「それに助教授、半年程前の握手会でもお会いしておりますの。お忘れになられましたか?」
僕は赤面し、出版記念の握手会に彼女も来てくれていたのだと感謝を一礼で示す。そうしながら、その声、物腰、口調に思い当たるところもあると記憶を辿る。
顎をつまみ考えた僕は、クレルモンフェランの大型書店で握手会をした時のご婦人だと気づき、口を「ああ」と形作った。
彼女は微笑み言葉を続ける。
「実はあの本が理由で、こうして訪ねて参りました」
伏し目がちに語った彼女に、僕は紅茶のカップを持ち上げつつ応える。
「エミリですか……」
「そう、エミリ・ホリカワ。彼女のことで参りました」
エミリ・ホリカワ。
このとても変わった名前の持ち主はある日突然、歴史に現れ大きな仕事を成し遂げた。ホリカワという珍しい家名から異国人であると思われていたが、やはりそうだったとわかったのは長い歴史の中では最近の事で、発端は二百年前の花外交だ。あれがあり、彼女はアルメニア人ではなかったとなったが、ではどうして異国人の彼女が、遠く離れた国の人間が、交通網が発達していない当時のアルメニアにいたのかという謎となり、それは説明されることはなかった。ここで、それまでの説が否定され、彼女はやはり実在しておらず、後世の詩人達によって創作された存在であるとされ、今はそれが主流である。
僕はそれでも彼女は実在していたと思うし、願っているといえば学者らしくないが、でも実にこれがまさしくという表現になる。
僕は願っている。
エミリ・ホリカワが実在の人物であったというものが事実であればと願い、信じている。
理由はいくつもあるが、僕がシェスター家の人間だからといえば、論理的ではないと笑われてしまうかもしれない。それでもこれが最も大きな僕の動機だ。
僕がエミリ・ホリカワを調べる根なのだ。
そして、歴史とはいつも勝者によって作られたものであるという考えもある。
現アルメニア王家が悪というつもりはない。それを言い出したら、現体制の多くは全て悪となる。
勝者が歴史を塗り替えることは悪ではなく、混乱なく時代を紡ぐ手段として認められるべきとも思う反面、僕は真実を知りたい。
それは一つしかないものだ。
限りなく尊い存在であるはずと僕が考える真実を見つけ出し、手を伸ばし、掴んだ瞬間、心動く瞬間に浸ることができる。
しかし、真実はいつも正義とはならない。これを明かすことで傷つく者もいれば、悪意ある喜びに沸く者もいる。だからそれを明かすか否かは難しい面もある。
知るのも勇気がいる。
僕はご婦人に尋ねる。
「エミリ・ホリカワを貴女もお信じになられる?」
「ええ、信じるも何も……なぜなら彼女はいたんです」
ご婦人は微笑みを絶やさず、座るテスの頭を伸ばした手で撫でるのも止めず、そう言った。
「助教授……」
彼女は僕を真っ直ぐに見つめる。
「エミリ・ホリカワを調べて欲しいのです。どんな女性だったのか、言われている通りの人だったのかどうかを……貴方に調べて欲しい。お願い申し上げます」
僕は身動ぎすらできず、失った台詞を探しながら黙っていた。
-About 1000 years later-
ご婦人が帰った後、僕は書斎の机の前で犬を膝に乗せて椅子に座っている。そして、書棚に並ぶ本の背表紙達をただ眺めていた。
それらはアルメニア王国の歴史を綴る本で、大帝伝全五巻の横には、大帝の息子であるフェリエス・ベロア・ベルーズド公の本が並んでいる。大公と呼ばれた彼の記録は、大公記としてまとめられていて、それは全六巻からなる。
親子の本を眺める僕は、テスの背中を撫でながら考える。
大公と呼ばれたフェリエス・ベロア・ベルーズド。
彼の隣にいたはずのエミリ・ホリカワはどんな女性だったのか。
おとぎ話や伝説に過ぎない『お話』から察するに、彼女は戦いの中で生き、多くの人を助けた。
これが本当であれば、歴史にちゃんと名を刻まれていておかしくないはずだ。
僕は視線を転じて、部屋の中をぐるりと見回す。
ここにある本の多くは歴史に関するもので、中には本当におとぎ話に過ぎないものもある。それでも、このエミリ・ホリカワという女性に関していえば、少ないながらも記録に残されているから、お話通りではないにしても、実在していた可能性はあるのだ。しかしどうしてかそれは無視され、薄い可能性はゼロに等しいとばかりの扱いを受けてしまっている。
だから僕は興味を持ち調べたのだ。そして彼女に関りのある人物も謎の多い人であるから、僕はライフワークとしてこだわっているのだ。公にできないとしても、こうして趣味でする分には誰にも文句は言われない。
発表するかどうかとは別の問題である。
名乗らないご婦人が、エミリの事を調べて欲しいと訪ねてきたのも何かの縁かもしれない。あの不思議な女性は、しかしとても人を惹きつける。説明しろと求められれば、学者失格と言われるかもしれないが僕はできないと答える。だが事実として僕はあのご婦人に惹かれている。
趣味として調べ、彼女にそれを伝えるのは、何ら支障はないはずだ。
僕の知的好奇心も満たせる。
いつの間にか手の動きを止めていたらしく、テスが甘えるように僕を見上げていた。
茶色と黒の毛並みを愛しむ様に撫でてやると、彼女は垂れ耳を動かし姿勢を変えようと膝の上で動く。そして丸くなって瞼を閉じた。
犬は人によって姿形を操作され、使役に相応しい性格、容姿に変えられている。
僕の膝で眠るテスはゴーダ犬で、彼女達は昔、軍用犬として活躍に足るようにと今の形にされている。それが現在に至り、愛玩犬として愛されていても、当時のままの姿形と性格で僕の前にいるのだ。
歴史もまた同じである。
人によって今に残る形が違うのは、この世の全てに通じる事なのかもしれない。
エミリ・ホリカワを徹底的に調べよう。
そうすれば、逆にもう一人の人物の謎も解けるかもしれない。
彼女が仕えたフェリエス・ベロア・ベルーズド公だ。
僕はテスを抱きかかえ、目を覚ました彼女に頬を舐められながら書棚に歩み寄る。
トラスベリア戦役の横……戦乙女エミリという一冊の本を抜き取る。
黒髪を冑からこぼして剣をかざした女性の表紙が描かれているそれを見つめた。
エミリ・ホリカワ。
貴女は、どんな人生を歩んだのですか?
エミリは、フェリエスの屋敷、池に立っていたと戦乙女の本には書いてある。そしてそれは、王国歴三四六年の春だ。しかし、大公記にはそのような記載は為されていない。
戦乙女の本が作り物であるからだとするなら分かりやすいが、しかし大公記のほうに、無視できないものが載っている。
『身元不明の少女を保護。住み込みの使用人で雇うと大公。情厚い御仁なり』
とても気になる。
ただし、まだまだ疑わしい。これがエミリだという証拠はなく、本当に二人が出会ったのか分からない。そもそも、戦乙女の伝説ではどうして、王国歴三四六年の春と言われているのだろうか。
そこには信憑性があるのではないか。
わざわざ、三四六年としているからだ。
記録を漁るしかないが、この時間では図書館は開いていない。
時刻は深夜となっていて、僕は膝の上で眠るテスを抱えて書斎を出た。
食堂に向かいながら考える。
フェリエス大公の業績でいえば、三四六年の春はそう目立ったものはない。まあ、派手なものはないという程度で、交通網や宿場町の整備など精力的に動いていたのは事実なのだが……。
あと、治安回復にも当たっている。
ベルーズド地方の大きな山賊を討伐し、これを皆殺しにしている。見せしめなのだろう。なぜかというと、これ以降、彼は領内の不法者達に投降しろと呼びかけているのだ。
『軍で雇う。生活に困り仕方なく道をはずれた者もいるだろう。これまでの罪をそれで償えるとは言わない。しかし、償う気持ちがあるならば、姿勢、行動で示せ。その者達ならば俺は助ける。そうでない者達は伏して臆しておれ。剣を以て裁きを与える』
つまり大公フェリエスは、大きな山賊を潰し、その実績をもって不法な集団に降伏か否かと迫ったのだ。
これによって少なくない者が大公に軍兵となって雇われた。彼等はこの後、屯田兵として重要な役割を果たしている。
食堂に入った僕は、テスを床に置くと棚のひとつを開いた。
配達をしてくれる飲食店の連絡先一覧メモがそこにはある。
さて、どこに電話をしようか……。




