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【第二十九話 嵐のあと】

 まず何よりも、彼女の覚悟を讃えるべきだろう。

 こんな捨て身の特攻は、ロニアであっても難しい。

 あまりにも泥臭くて、あまりにも美しい。


 皆が戦っているであろう場所から、少し離れた林で着陸した。

 肉体は、もう人間のものに戻っている。


 お互いに、ぐしょぐしょに濡れている。


 目を閉じて、まるで眠っているような彼女。

 まるで死んでしまっているのではないかと、不安にもなった。


 一度、地面に寝かせる。石畳が、水を吸って黒く濡れた。


 失礼を承知して、柔らかな胸元に触れてみる。

 とくん。とくん。彼女の鼓動。


 よかった、生きてた。

 そう確認すると、笑みがこぼれた。どうしようもなく安心した。


 力が抜ける。彼女が息をして拍動していることが、たまらなく嬉しかった。


 彼女が水気を含んだ咳をした。

 こんな時、どうすればよかったのだろう。


 天界には海がないため、いつになく慌てた。

 レヴィアタンと遭遇した際のマニュアルを、ミカエルが作っていたはずだ。


 思い出せ、天使だったころのロニア。

 『びっくりガイド。レヴィアタン編』の416頁。

 『万が一襲われたら』の項目にあったはずなのだ。


 記憶の底から、文字が浮かび上がってきた。


【天使に溺死はないが、人間に対しては非常に危険だ。溺れていた場合は人工呼吸をするとよい】。


 カレンの唇に、視線を注ぐ。ぷるんと潤っている。

 人工呼吸。相手と密着し、その唇を塞ぐ。


 息が漏れないように。


 自分と、カレンが? だって、これではもう。


 ――キスと同じではないか。


 まだ、彼女の純潔を奪いたくない。

 自分の、こんな唇で。しかし、今しなければ彼女が危ない。

 水を吐かせ、気道を確保する。


 ええい、ままよ。ロニアの視界が、やがて彼女一色に染まり――。


 唇が、重なった。

 柔らかい感触。温かい。彼女の石鹸が香った。

 冷えたロニアの体温が、いくらか上がった。

 息を吹き込んだ。ロニアを生かす呼気を、彼女の中へ。


 水音が辺りに響いた。淫らな感覚はしない。

 ただ、『目覚めてくれ』という願いだけがあった。


 何度も、何度も、彼女と唇を重ねる。

 これは救護活動だ。接吻ではない。

 けれど、こうして唇を重ねることで鎖がロニアの首をきつく締めあげる。


 自分は天使だ。天界を追放された、悪しき堕天使だ。

 それなのに、ロニアの本能は目の前の彼女を生かしたいと叫んでいる。

 理性と本能がせめぎ合い、後者がやや優勢だった。 


 辺りはやけに静かで、二人の音だけが響いた。

 あまりにも無垢な接吻。いや、これはその内に入らない。


「うぅ……」


 カレンが唸った。なぜか、心がじんわりと温まる。


「カレン? 聞こえているかい、ボクだよ」


 彼女の頬を、痛くないようにぺしぺしと叩いてみる。

 閉じられた瞼が開いた。サファイアが姿を現す。

 半開きではあったが、彼女はロニアの紅の瞳を捉えただろう。


「ロニ……ア、くん?」


「ああ。ボクだよ。お昼寝は済んだかい?」


 カレンは、自身の唇が湿っているのを覚えた。

 いや、湿っているし温かい。

 確か、あのまま溺れて、羽の生えた誰かに……。


 真っ赤な瞳、生糸のような頭髪に、純白の翼。

 彼女は、微笑みを浮かべた。


 そして、首筋に手を回す。袖が濡れていて、うなじをしっとりと濡らした。

 けれど、冷たさは感じない。ロニアの体温で、それは今や蒸発寸前なのだ。


「助けてくれてありがとう。ロニアくん。これで――」


 2回目だね。彼女が言った。心臓が止まるような感覚。

 2回目。今までに、彼女を助けた回数はそれどころじゃない。


 人型砕獣のときも、クロウルのときも。

 もしやと構えるロニアの頬を、液体が濡らした。

 濡れたままの髪か、それとも汗か。


「あの時……私たちを助けてくれたのは……ロニアくんだったんだよね」


「……さあ、なんのことかな」


「ふふっ。ごまかしても無駄だよ。やっと……確信に変わった」


 やっと。きっと、最初から気づかれていたのだろうか。

 カレンと初めて出会って、ロニアが、必死にごまかしたあの時から。


「ロニアくんって……」


 天使なんだよね。そう言われるだろう。構える。

 一陣の風。林のにおい。


「鳥人種だったんだね」


 ズコッ。力が抜ける音。体勢を崩し、転倒する。

 視界に、カレンの顔が近づく。勝ち誇ったような顔から一転。

 焦りが浮かんだ。避けようと体を捩ろうとする。


 間に合わない。


 唇が、再び重なった。


 二人は、大きく目を見開き、特にロニアの顔がみるみる紅潮する。

 カレンは、ロニアの肌が急激に熱を帯びるのを感じた。

 今の彼の額で卵を割ると、目玉焼きを作れそうなほどだった。


 離れるべきだが離れられない。


 不思議な力が働いたように、体を動かすことができなかった。

 密着したまま。互いの瞳を見つめる。

 彼女の瞳に映る自分。彼の瞳に映る自分。


 心臓の鼓動が、誰のものかもわからない。

 とくっとくんとくっとくん。

 合わないリズム。それが、まるで二人の関係性を表しているようだ。


「お~い! カレ~ン! どこなのですぅ~!?」


 鳥のように響くあの声は、マチィナだ。

 それをトリガーに、縛られた様に動かない二人は解放された。


「はぁっ……はぁっ……」


「……大胆だね」


「違う。これは事故だよ」


 口元を震わせる自分の姿は、きっと滑稽に映っているだろう。

 まるで、子供が怖がっていることを虚勢でひた隠しにするよう。


 それにしても、鳥人種か。まさか、そう来るとは思わなかった。

 しかし、さすがに天使だなんて考えないだろう。それは伝承にしか存在しない生き物で……。


 ウリエルの降臨を思い出した。ロニアの建てた、体のいい仮説は、この大天使に尽く潰される。

 何もかも、上手くいかない。けれど、それでも呪うべき運命はなかった。

 腹立たしいはずなのに、気分が清涼としている。


 目を閉じる。本当に、自分は絆されたものだと苦笑した。


 ─────────◇─────────


 唇を奪われた。人工呼吸という目的なのは解っている。

 私が何よりも驚いているのが、彼がこんなにも優しい口づけを知っていることだった。

 彼の吹く息が私の肺を満たすとき、同時に別の何かも満たされたような気分だった。


 彼が怠惰なのは知っている。ほぼ毎日、一緒にいるから。

 だからこそ。そんな彼がここまで慌てて、ここまで必死になってくれるのが嬉しかった。


 泥濘のような眠りから覚めたのは、意外にもすぐだった。

 彼が初めて私の唇を奪ったときからだ。

 

 深海に沈むような私を、引き上げてくれた。

 暗闇の中で光るそれは案外小さくて、何よりも明るい。


 太陽や月までとはいかないけれど、それでも目を細めてしまうほどの光。

 明星に輝く、ヴィーナス。私にとっての彼がそうだった。


 でも、びっくりした。1回だけじゃない。何度も、何度も。

 念入りに、私の肺を彼で満たしてくれた。もう十分すぎるくらいに。

 思ったよりも、過保護だったんだ。思わぬギャップで、私は笑みを我慢するのに必死だった。


「うぅ……」


 いけない。喉が鳴っちゃった。彼が私を呼ぶ。

 しょうがない。乗ってあげよう。彼の名を呼ぶ。


 昼寝は済んだか、だって。相変わらず、キザだね。

 そこが、背伸びしているロニアくんらしいけど。


 それにしても、彼と私の唇は、こんなにも温かく湿っている。

 こんな形で、初めてを獲られるなんて思わなかった。


 湖中で見た、あの人物を回想する。

 今までの記憶から推算するに、間違いなくロニアくんだ。


 ダンジョンで私たちを救ってくれた()使()()()

 あの時は暗くて証拠がつかめなかったけど、これではっきりした。


 私たちと、ロニア・ロンドは別の生き物だ。それを、彼も理解している。

 けれど。私はそれでも追いつきたい。ロニア様ではなく、ロニアくんに。


 だから、ちょっと揶揄ってあげようかな。


 打ち明ける。あの時私たちを助けてくれた。これで2回目だ。

 もしかして、ロニアくんは――。


 天使だったのとは言わない。彼は、それを負い目に感じているだろうから。

 私も、彼の傷を穿るようなことはしたくないから。


 だから、受け入れるよ。あなたを。

 首筋に、手を回す。


「鳥人種だったの?」


 自分ながら、程度の低い冗談だと思った。

 そんなはずはないのに。けれど、彼には言い訳が必要だから。


 ロニアくんには効果抜群だった。

 彼は、バランスを崩し――。


 また、私の唇を奪った。

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