【第百三話 当主パワー】
「その書類って、取り消すことはできないんですか?」
ロニアが、机上の死亡届を見つめながら呟いた。
確かに、「ローレンス・ロンド」と署名されてある。
父親の筆跡は知らないが、こうして受理されているということは本物のローレンスなのだろう。
「非常に申し上げにくいのですが、すでに教会との手続きは済んでおりまして……」
「教会……そんなものありましたっけ?」
ローラが首を傾げ、天井を見上げていた。
ロニアは、この地域の地理に特別詳しいわけではない。しかし、この近くに教会があったという記憶はなかった。
クリスタリアの教会は、このスーノス地区にいる人間らにとってはロンド家がその代わりを担っていると言ってもよい。
あのとき見せた住民らの狂乱。そして、ロンド家の子孫が持つ神の御子という神性。
教会という組合は、すでに必要がないはずなのだ。
セスですら、顎に手を当てて考え込むように唸っている。
「実は、十七年前にはこの近くにあったんです。今は、廃墟となってしまいましたが」
ならば知らないのも無理はないとロニアは思った。
しかしそれと同時に、とても面倒なことになったと眉間に皺を寄せる。
手続きを取った施設が無くなれば、承認を取ることもできない。
つまり、打つ手なしというものだろう。
「どうにかならないのですか?」
セスが、ロニアの頭に右手を優しく添えながら尋ねた。
役人が目を伏せ、身分証を返却しようとしたときだった。
ローラが、机を叩きながら立ち上がった。
「そうだ。わかりましたよ。ワタシはここの当主です。なら、政治を変えましょう」
荒唐無稽とも思えるローラの言葉に、その場にいた誰もが息を呑み、目を丸くした。
「……政治を、なんて?」
ロニアが笑顔を取り繕いながら言った。
「政治を、変えるんですよ。スーノス地区の管理は、今この瞬間からロンド家が執り行います。この役場も、ワタシの管理下に置きますから」
「と、当主さま!? それはいくらなんでも横暴では……」
役人が、顔を真っ青にしながら立ち上がるが、ローラが冷ややかに一瞥して制した。
「理不尽と瑕疵を残らず潰す。それが当主の役割であり責務です。お兄さまのような解決不可能な問題は、土壌から引っくり返せばどうにかなるんですよ」
溜息を零したのはセスだった。
しっかり者だと思っていた息子の妹が、まさか息子よりも問題児だったとは。
そう言いたげな息が、ロニアの襟足を揺らした。
「こうしてはいられません。ヴァレンティノスとアマクサを呼んできてくれませんか、お義母さま。書類作業に取り掛からせます」
「……気の毒だな、彼らは」
「……ホントにね」
─────────◇─────────
「……どうして私らまでやらなきゃなんだい?」
「ぶ~! ヨハネちゃんたちはお客様なのに~!」
葉巻の香しい匂いが漂い、ラティファとヨハネが文句を垂れているのはロンド家の執務室だった。
机を並べ、堆く積まれた書類の山。
アマクサ、ヴァレンティノスと並び、客人であるはずのラティファたちも何故か筆を走らせていた。
ロニアは、その惨状ともいえる光景をわずかに開いたドアの隙間から眺めていた。
「……よかったぁ。ボクまで手伝わされなくて」
「まあ、ロニアくんのためにやってるみたいなものだからね」
ロニアの後ろで苦笑するのはカレンだった。
ローラは帰宅した際、ホーラドゥナの役場から職員数十人を連れて、書類の受け継ぎを行っていたのだ。
学院長の祖父を持つカレンは、「なんて横暴なの」とひどく呆れ果てていた。
「ローラちゃんって、口は悪いけど面倒見がいいんだね」
「ええ、口が悪いだけじゃないの?」
「聞こえてますよクソ兄貴。そこまで言うなら手伝わせましょうか?」
「あ、いや、結構です」
思わず背を正し、ドアを閉じてしまったロニア。
冗談じゃない。数ページのエッセイですら拒否反応を示すロニアなのだ。
あんな、地層のような書類を見たら口から泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。
ロニアは最悪の未来を創造し、顔色を青くする。
それに、なんだか肩の傷も疼いてきた。
なんだか気力が削がれ、ロニアは自室に戻ろうと足を上げる。
「あれ、ロニアくん。どこ行くの?」
「ねる。なんかもう疲れたし、肩がズキズキする」
「じゃあ、私も一緒していい? ずっとおなかの調子が良くなくって……」
言って、カレンは茶色い衣服を捲りあげた。
白皙としたカレンの腹部には、グズグズと焼け爛れたような痕が、痛々しく残っていた。
それを目にしたロニアは目を大きく見開き、膝を突いて患部を睨めあげる。
堕天使ベレトとの戦いによる傷だとカレンは語った。
けれど、ロニアにとってはそんなことどうでもよかった。
「カレンが怪我をした」というその事実が耐えられなかったのだ。
困惑しているカレンの顔を見上げると、視界が潤んでいることに気づく。
怒りや驚きよりも先に、ロニアを悲しみが襲っていだ。
「ごめんね、カレン……。ボクがもっと早く駆けつけていたら、こんなことには……」
今にも張り裂けそうなその声色に、カレンは目を閉じて微笑みを見せた。
カレンが同じく膝を突き、ロニアを自身の胸元に押し付ける。
甘い石鹸の匂いが、ロニアの鼻腔に優しく広がった。
ロニアの好きな香りだ。
「ううん、ロニアくんのせいじゃないよ。それに、私だってうんと強くなったんだから」
子供に言い聞かせるよう、静かに囁くカレン。
彼の後頭部に腕を回し、右手で頭頂部をとんとんと叩く。
「なら、よかったけど……」
「もう、ロニアくんったら。強いくせに泣き虫なんだね」
「これはっ……! その、カレンだけにしか見せないっていうか……」
ガバッと顔を上げるロニア。
揺れる彼の毛髪が、カレンの顎をくすぐった。
頬の皮下組織が熱を帯びたように、ロニアは紅潮している。
「あと、そんな怪我ぐらいボクなら治せるし」
「でも、使いたくないんでしょ? 無詠唱の白魔法は」
まるで見透かしているかのようなカレンに、ロニアは微かに頷いた。
「だから、ゆっくり治るのを待つよ。焦らなくてもいいからね、ロニアくん」
ロニアは、コートの袖で目元をぐしぐしと拭いた。
立ち上がり、カレンの袖を摘まんだ。
「ふふっ。いい加減、手を繋いでくれてもいいんだよ?」
「それはちょっと恥ずかしい」
「……いつも通りに戻ったね」
二人は、カレンの部屋へと歩いて行った。
おそろいの指輪を、互いの指で光らせながら。




