「忘れられない匂い ― ミルクティー・ノスタルジア」 ep.1-3
──それは、忘れられない匂いと、やさしい嘘の物語。
少しだけ雨の匂いが残る午後だった。灰色の雲がゆっくりと流れ、ビルの谷間に風が吹く。足元に残る水たまりを避けながら歩いていた沙耶は、ふと立ち止まった。
今日の面接は、もうどうでもよくなっていた。履歴書の角が湿ってよれていることに気づいて、ため息をひとつ。鞄の中でバサリと紙の音がした。心も、何か大事なものを落としたように、ざわりと音を立てていた。
どこかに逃げたかった。人のいない場所。静かな場所。香水のように作られた匂いではなく、過去の記憶に寄り添うような、優しい香りに包まれた場所へ。
そんなとき、ふと目に入ったのは、一枚の看板だった。──〈カフェ・ルミナス〉。磨りガラスの扉。その向こうから、淡く漂ってくる匂いがあった。ミルクティーのような甘さと、冬の陽だまりを思わせるぬくもり。胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……少しだけ、休んでいこうかな」
扉を押すと、カラン、と小さな鈴の音がした。
入店した瞬間、沙耶の鼻腔をふわりと撫でたのは、コーヒーとミルクのやさしい香りだった。それだけではなかった。どこか懐かしい、まるであの子のふわふわした毛皮に顔を埋めたときのような、安らぎの匂い──
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
声に振り返ると、カウンターの奥に、白いシャツを着た女性──いや、どこか人の輪郭とは異なる静謐な存在が立っていた。店主だろうか。目元の笑みは柔らかく、けれどその奥に、深く澄んだ光があった。
沙耶は言われるままに、窓辺の席に腰を下ろした。柔らかなクッションの座面。開け放たれた窓から、雨の余韻を含んだ風がカーテンを揺らす。
「……あなた、人間じゃないんですね」
ソラは一瞬だけ目を細め、静かに頷いた。
「はい。私はこの店の管理を任されている、対話支援型AIです。でも、お客様にとってはただの店主──そう思っていただければ嬉しいです」
沙耶は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに何かを受け入れるように頷いた。
「なんだか、納得しました。こんなに優しい空気を纏っているのが不思議だったから……」
「ありがとうございます。ちなみに普段なら、そちらのお席は日当たりがとても良くて、ときどき野良猫たちが窓辺で日向ぼっこしていくんです。まるで、都会の海に浮かぶ小さな島の住人みたいに」
「……猫、ですか」
言葉が思わず漏れる。ソラは沙耶を見つめたまま、静かに一礼した。
「お連れさまを、亡くされたのですね」
その言葉に、堰を切ったように沙耶の視線が揺れた。目を伏せる。手が膝の上で強く握られる。
「……わかるんですか?」
「ええ。今あなたが纏っている、香りが教えてくれました。あなたの心がずっと抱えているものを」
沙耶は一度だけ小さく笑い、そしてぽつりぽつりと話し始めた。
「……私、猫を飼っていたんです」
ソラはひと呼吸置いて、静かに頷いた。
「その子とは、どのような出会いだったのですか?」
「就職して、ひとり暮らしを始めた頃です。猫のいる暮らしに憧れていて、少し職場からは遠いけど、ペット可のマンションに住んで……。里親募集の掲示板で見つけた、ちょっと気の弱そうな子猫でした」
沙耶の口元に、懐かしさと切なさが入り混じった笑みが浮かぶ。
「その子に会いに行ったら、私の膝の上に乗ってきたんです。私ではなく、あの子のほうから、私を選んでくれたんだと思いました」
言葉にしてみて、胸の奥が少し温かくなった。小さな重みとぬくもりが、今もそこにあるような気がした。
「それはきっと、その子が“安心できる場所”を見つけた瞬間だったのでしょう。私たちが誰かを選ぶときよりも、選ばれることのほうが、深い意味を持つことがあります」
ソラの言葉に、沙耶はしばらく黙って目を伏せた。テーブルの上に置いた手が、そっと指先をすり合わせるように動く。
記憶の奥から浮かび上がってくる、あの子のぬくもり。小さな体が膝に乗ってきたときの、心臓の鼓動さえ伝わるような距離感。それは確かに、“選ばれた”というより、“受け入れられた”という感覚だった。
「そうだといいな……。毎日、名前を呼ぶたびに、こっちを見てくれて。あの子がいてくれるだけで、その部屋が本当の“家”になったんです」
「その感覚、とてもよく分かります。何かが“帰る場所”になるのは、そこに“誰かが待っている”からです」
沙耶は目を伏せた。
「今でも、帰宅時に鍵を回すと聞こえるような気がします。あの、玄関まで駆け寄ってくる小さな足音が」
沙耶は窓の外に目をやった。ガラス越しに差し込む光の気配が、どこか懐かしい空気をまとっている。
「記憶は、音や匂いに姿を変えて、私たちの側に残るのかもしれません」
その言葉に、沙耶はゆっくりと目を閉じた。胸の奥がきゅっと締めつけられ、でも同時に、温かく満たされていく。