「その距離に、ひとひらの優しさを ― ソルティ・カラメル」 ep.1-3
からん——。
静かな鈴の音が、店内に控えめな余韻を残す。
いつになく賑わっているカフェ・ルミナス。その奥のカウンター席では、アケミが他愛のない会話を交わしていた。アケミの隣には、長い髪をきっちり結い上げた女性、円香が座っている。白のカーディガンに膝丈のワンピース、ブランド物のトートバッグを椅子にかけ、どこか不機嫌そうにカップを見つめていた。
「円香、ここ雰囲気いいでしょ? 最近のお気に入りなんだ」
「ふーん……まあまあかな」
円香はぶっきらぼうに答えつつも、ちらりと店内を見渡す。
アケミが隣で小さく笑うのを横目で見ながら、そっとカップを持ち上げた。
カウンターではAI店主のソラが、忙しそうにしながらも一人ひとりの客へ丁寧に対応している。その所作は滑らかで、まるで風景に溶け込むようだった。
そして、再び扉が開き、店内に新たな来訪者が現れる。
落ち着いたベージュのコートに身を包んだ女性が一人。そしてその傍らには、やわらかなクリーム色の盲導犬——ビビが静かに寄り添っていた。
「いらっしゃいませ。……おかえりなさい、詩織さん」
ソラの声に、女性——詩織は小さく微笑む。
「こんにちは。今日は随分賑やかですね。お席、空いてますか?」
「もちろんです。ご案内しますね」
詩織とビビがゆっくりと歩みを進める中、ざわめきが一瞬だけ広がる。
「わぁ、かわいい」
「あの犬、すごいお利口さん……」
「盲導犬かな?」
若い女性客が手を伸ばそうとした瞬間、ソラが穏やかに制した。
「申し訳ありません。この子は今、お仕事中なんです。どうか、そっと見守ってあげてください」
若い女性は「ごめんなさい」と小さく謝り、手を引っ込める。
そのやりとりを見ていた円香が、椅子を引いて立ち上がった。
「ちょっと、犬なんて店に入れていいわけ? 衛生的にも最悪じゃない」
店内の空気が、一瞬で凍りついた。
詩織が足を止め、顔を伏せる。
「ちょっと、円香……」
アケミが眉をひそめる。はっとしたようにして、円香は俯き目を伏せた。
ソラが、ゆっくりと円香の元へと歩み寄る。
「申し訳ありません、円香さま。ビビさんは盲導犬として、十分な訓練を受けたパートナーです。円香さまのお気持ちも、きちんと受け止めたうえで、お席もできる限り配慮させていただきます。どうか、この場だけでもお許しいただけないでしょうか?」
円香は唇を噛みながら視線を逸らした。
「……好きにして」
その言葉に、ソラはそっと微笑み、詩織とビビを店の奥の静かな席へと案内した。
アケミが小声でつぶやく。
「あんた、そういえば昔から犬苦手だったっけ? でも、あの子は盲導犬なのに、それでも駄目なの?」
「……仕方ないでしょ。盲導犬でも、ほんとに怖いんだから」
円香の声は、わずかに震えていた。
「私、小さい頃に野良犬に追いかけられたことがあるの。公園で、一人で遊んでたら、急に吠えながら走ってきて……。転んで、足を擦りむいて、泣きながら必死に逃げたのよ。何度も噛まれて、血がたくさん出て、ようやく通りがかったおじさんが追い払ってくれたけど、病院で検査もしたわ。……それ以来、犬を見るだけで体が強ばるの!」
円香の声は次第に大きくなり、周囲の客もちらりとこちらを見た。アケミが慌てて声をひそめた。
「ちょ、円香、声、声……。落ち着いて」
円香がはっとして口をつぐむ。そして小さな声で「……ごめんなさい」と呟いた。奥の席では、詩織が顔を上げてこちらを向いていた。
「……あの、聞こえてしまって、ごめんなさい。でも、お気持ち、お察しします。……そのとき、本当に、怖かったんですね」
円香はぎこちなく頷く。
「ちょっと違うかもだけど、私も、目が見えなくなり始めた頃は、毎日が怖かったです。目が見えないことで何もできなくなるんじゃないかって。……でも、ビビがいてくれたから、私はまた歩けるようになった。この子は、本当におとなしくて、優しい子です。でも……ビビの存在が、あなたの傷に触れてしまうのであれば、今日はこれで失礼しますね」
「あ、いえ……大丈夫です。いてください」
円香は、どこか慌てるように言い、それからぽつりとつけ加えた。
「……すみません」
ソラが、そっと言葉を紡いだ。
「円香さま、もし今でも、その記憶が胸の奥で疼くのなら……どうか、ご自分を責めないでください。それは、誰にとっても深い傷になるものですから」
その言葉に、円香は目を伏せたまま小さく答えた。
「……そうかもしれない、けど」