↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-  作者: 寶井かもめ
第十一話 「おかえりが届く場所、ただいまを探して ― メモリー・パウズ」
PR
36/57

「おかえりが届く場所、ただいまを探して ― メモリー・パウズ」 ep.3-3


 ◇


 翌朝のルミナスはやわらかな光に包まれていた。早い時間帯にもかかわらず、沙耶はカウンター席に座っていた。


「……結局見つかりませんでした。どこかに隠れていたのか、それとも……」


 ミルクティーに手をつけることなく、沙耶はぽつりとつぶやいた。


「そうでしたか……」


 ソラはそっと目を伏せ、カウンター越しに沙耶の表情を見守っていた。

 そのときまた店の扉が開いて、からん、と店内に鈴の音が鳴る。


「……あ」


 入ってきたのはあの若い男女だった。女性の腕には小さなキャリーケース。その中に猫が小さく丸まっていた。


「……戻ってきたんです。今朝早くに」


 女性はまだどこか戸惑いを残しながら、沙耶のもとに歩み寄った。


「玄関先にいました。なにごともなかったみたいに座ってて……。この子、自分で帰ってきたんです」


 沙耶は目を見開いたままキャリーケースの中の猫を見つめた。少し汚れてはいたがその目はしっかりとしていて、尻尾がぴくりと動いた。


「……よかった」


 沙耶の声は涙をこらえるようにかすかに震えていた。


「昨日は本当にすみませんでした……。猫のこともすみません、勝手に連れてきてしまって。でも、どうしてもこの子の姿を見ておいてほしかったんです」


 女性が深く頭を下げた。


「どうぞ気になさらないでください。大切なご家族をここに連れてきてくださって、ありがとうございます。それ自体が、きっと意味のあることだと思います」


 女性は小さく息を吐いた。


「もう二度と手放しません。たしかに生活は苦しいです。でもこの子が帰ってきてくれたことで、ようやく気づきました。私たちもこの子に救われてたんだなって」


 男性も少し照れたように頭を下げる。


「俺も昨日はカッとなって……すみませんでした」


 沙耶はゆっくりと首を振った。


「こちらこそ、突然責めるようなことしてすみませんでした。でも、帰ってきてくれてほんとうによかったです。この子もきっと、あなたたちが大好きだったんですね」


 その言葉に猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。あたたかい空気がそっと場を包んだ。


 ソラはカウンターの奥で手を伸ばし、ふたつのカップと、ひとつの小さな器を選び取る。


「おかえりなさい。あなたも、よく頑張って戻ってきてくれましたね」


 猫に向けて語りかけながら、ソラは器にそっと液体を注ぐ。それは水で薄めて温めた山羊のミルクに、ほんのりキャットニップを加えた特別な飲み物だった。猫の安全に配慮されていて、甘い香りを少しだけまとわせ、緊張を和らげるように調合されている。


「この一杯はメモリー・パウズ。迷子になった記憶が、もう一度ぬくもりを思い出せるように」


 キャリーケースの扉が開けられ、器がそっと猫の前に置かれた。猫はくんくんと匂いを嗅ぎ、警戒しながらもひと舐めすると勢いよくミルクを飲み始めた。それを見たソラがふっと微笑む。


 ソラはふたりにもそれぞれのカップを差し出す。人間用は水で薄めず、ラベンダーの蒸気をまとわせ香りづけされていた。


「あなたたちの優しさが、きっとこの子を帰らせてくれたのです。どうか今日からまた、共に歩んであげてください」


 猫はふたたび小さく鳴いて、器の中のミルクを舐め続けていた。


 沙耶はその様子を見つめながら、ふと透月の言葉を思い出した。


『——待ってるんですよ。また、あの幸せな日々に戻れるんだって』


 ……本当に待っていてくれたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……ありがとう」


 沙耶がぽつりとつぶやく。その言葉は猫にも、ソラにも、そして目の前のふたりにも向けられていた。


 ソラはそっと微笑んだ。


「大切なものが戻ってきたとき、人は少しだけ強くなれる気がするのです」


 女性は猫の頭を撫でながら頷く。


「うん。たぶん私たちも、少し強くなれた気がします。だから大丈夫ですよね」


 その場を包む空気はどこかやわらかく和やかだった。まるで『ただいま』と『おかえり』がやさしく響き合っているように。——その声がほんの一瞬聞こえた気がして、沙耶は小さく息を吐いた。


 それからしばらくして、再び「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。


 入ってきたのは透月だった。店内を一瞥すると穏やかな足取りでカウンターに向かい、沙耶の隣にそっと腰を下ろす。


「猫、見つかったんですね」


 沙耶は微笑みながら頷いた。


「ええ。きっとこの子も帰りたかったんだと思います。やっぱり猫って、強いんですね」


 透月はどこか遠い目をして、キャリーケースの中で目をうとうとさせている猫を見つめた。


「僕も昔、似たようなことがありました。あのときは自分を責めることしかできなかった。でも今ならもう少し優しく、そして強くなれた気がします」


 沙耶は小さく息を飲んだ。


「それって……誰か大切な存在を?」


「ええ。僕の親代わりの存在でした。彼女がいたことで、僕は感情の輪郭というものを知ったような気がしていて」


 その言葉に沙耶は静かにうなずくだけで、それ以上聞くことはしなかった。なぜかこれ以上触れてはいけない気がしていた。


 沈黙を破るように、ふとソラが優しく問いかけた。


「ところで、この子にはお名前はありますか?」


 ふたりは顔を見合わせ、首を振った。


「まだちゃんとは決めてなくて。あんまり呼んであげてなかったんです」


「でしたら、今が良い機会かもしれませんね」


 沙耶は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。


「ルナ……なんてどうですか? 夜を越えて帰ってきたみたいだし、ルミナスにもちょっと似てる気がして」


 猫はまるで応えるように目を開けて、小さく「にゃあ」と鳴いた。


「へえ、なんかシャレてんな」


 男性はそう言って、はにかむように笑みを浮かべた。


「決まりですね」


 ソラがやさしく微笑む。


「ルナさまの記憶、そして皆さまの心に刻まれた今日の出来事。私の記憶にも、大切に保存させていただきます」


 沙耶がソラに尋ねる。


「AIにも、記憶ってあるんですか?」


「はい。ただのデータかもしれませんが、でも私は、忘れたくないと願うのです。こうして皆さまと過ごした時間を、記録ではなく、記憶として持ち続けたいと」


 ソラの言葉に沙耶はそっと目を伏せた。


「それって、AIにも心があるってことじゃないですか?」


 ソラはなにも言わず、けれどほんの少しだけ切なげに微笑んだ。

 ルミナスの窓から差し込んだ朝の光が、湯気を透かして静かに揺れていた。

 ソラはその光のなかで、心というものの輪郭が浮かんで見えた気がした。



【本日の一杯】


◆メモリー・パウズ


産地:月影の丘の山羊牧場にて採れたミルク


製法:低温でやさしく温めた山羊のミルクに、微量のキャットニップを抽出。ラベンダーの蒸気で香りづけ


香り:緊張をほぐすラベンダーの清涼感と、母のような乳香のやわらかさ


味わい:ぬくもりと安堵が同居する、記憶を包み込むようなやさしい甘み


ひとこと:「あなたが戻ってきてくれたこと、それだけで十分です。迷子になっていたのは、もしかしたら私たちの心のほうだったのかもしれませんね」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。