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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第十一話 「おかえりが届く場所、ただいまを探して ― メモリー・パウズ」
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「おかえりが届く場所、ただいまを探して ― メモリー・パウズ」 ep.3-3

 ◇


 翌朝のルミナスは、やわらかな光に包まれていた。早い時間帯にもかかわらず、沙耶はカウンター席に座っていた。


「……結局、見つかりませんでした。どこかに隠れていたのか、それとも……」


 ミルクティーに手をつけることなく、沙耶はぽつりとつぶやいた。


「そうでしたか……」


 ソラはそっと目を伏せ、カウンター越しに沙耶の表情を見守っていた。

 そのとき、店の扉が静かに開いた。からん、と鈴が鳴る。


「……あ」


 入ってきたのは、あの若い男女だった。女性の腕には、小さなキャリーケース。その中で、猫が小さく丸まっていた。


「……戻ってきたんです。今朝早くに」


 女性は、まだどこか戸惑いを残しながら、沙耶のもとに歩み寄った。


「玄関先にいました。何事もなかったみたいに、座ってて……。この子、自分で帰ってきたんです」


 沙耶は目を見開いたまま、ケージの中の猫を見つめた。少し汚れてはいたが、目はしっかりとしていて、尻尾がぴくりと動いた。


「……よかった」


 沙耶の声は、涙をこらえるようにかすかに震えていた。


「昨日は、本当にすみませんでした……。猫のことも、勝手に連れてきてしまって。でも、どうしても、この子の姿を見てほしかったんです」


 女性が深く頭を下げた。


「……どうぞ気になさらないでください。大切なご家族を、ここに連れてきてくださったこと——それ自体が、きっと意味のあることだと思います」


 女性は一度、小さく息を吐いた。


「もう、二度と手放しません。……たしかに、生活は苦しいです。でも、この子が帰ってきてくれたことで、ようやく気づきました。私たち、この子のこと、ちゃんと見ていなかったんだって」


 男性も少し照れたように頭を下げる。


「俺も……昨日はカッとなって。……すみませんでした」


 沙耶はゆっくりと頷いた。


「帰ってきてくれて、ほんとうによかったです。この子も、きっと……あなたたちが大好きだったんですね」


 その言葉に、猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。あたたかい空気が、そっと場を包んだ。


 ソラはカウンターの奥で手を伸ばし、静かにふたつのカップと、ひとつの小さな器を選び取った。


「おかえりなさい。あなたも、よく頑張って戻ってきてくれましたね」


 猫に向けて語りかけるように、ソラは器にそっと液体を注ぐ。それは、水で薄めて温めた山羊のミルクに、ほんのりキャットニップを加えた、特別な飲み物だった。猫の安全に配慮されていて、甘い香りを少しだけまとわせ、緊張を和らげるように調合されている。


「……この一杯は、“メモリー・パウズ”。迷子になった記憶が、もう一度ぬくもりを思い出せるように」


 器はそっと猫の前に置かれた。猫は、くんくんと匂いを嗅ぎ、警戒しながらも一舐めした。そのしぐさは、まるで安心を確かめるようだった。


 ソラは、二人にもそれぞれのカップを差し出す。人間用は水で薄めず、ラベンダーの蒸気をまとわせ香りづけされていた。


「あなたたちの優しさが、きっとこの子を帰らせてくれたのです。どうか、今日からまた、共に歩んであげてください」


 猫はふたたび小さく鳴き、器の中のミルクを舐め続けていた。


 沙耶はその様子を見つめながら、ふと透月の言葉を思い出していた。


『——待ってるんですよ。また、あの幸せな日々に戻れるんだって』


 ……本当に、待っていてくれたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「……ありがとう」


 沙耶がぽつりとつぶやく。その言葉は、猫にも、ソラにも、そして目の前の二人にも向けられていた。


 ソラはそっと微笑んだ。


「大切なものが戻ってきたとき、人は少しだけ強くなれる気がするのです」


 女性は、猫の頭を撫でながら頷いた。


「うん……たぶん、私たちも、少しだけ強くなれた気がします」


 その場を包む空気は、どこか柔らかく、そして静かだった。まるで、“ただいま”と“おかえり”が、やさしく響き合っているように。——その声が、ほんの一瞬聞こえた気がして、沙耶は小さく息を吸った。


 それからしばらくして、再び「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。


 入ってきたのは透月だった。穏やかな足取りでカウンターに向かい、沙耶の隣にそっと腰を下ろす。


「猫、見つかったんですね」


 沙耶は微笑みながら頷いた。


「……ええ。きっと、この子も帰りたかったんだと思います」


 透月はどこか遠い目をして、キャリーケースの中で眠る猫を見つめた。


「……僕も、昔、似たようなことがありました。あのとき、自分を責めることしかできなかった。でも——今なら、もう少し優しくなれた気がします」


 沙耶は小さく息を飲んだ。


「それって……誰か、大切な存在を?」


「ええ。僕の親代わりの“存在”でした。……彼女がいたことで、僕は“感情の輪郭”を知ったような気がしていて」


 その言葉に、沙耶は静かにうなずくだけで、それ以上聞くことはしなかった。なぜかこれ以上触れてはいけない気がしていた。


 沈黙を破るように、ふと、ソラが優しく問いかけた。


「ところで、この子にはお名前はありますか?」


 二人は顔を見合わせ、首を振った。


「……まだ、ちゃんとは決めてなくて。あんまり呼んであげてなかったんです」


「でしたら、今が良い機会かもしれませんね」


 沙耶は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。


「“ルナ”……なんて、どうですか? 夜を越えて帰ってきたみたいだし、ルミナスにも、ちょっと似てる気がして」


 猫はまるで応えるように、再び「にゃあ」と鳴いた。


「へえ、なんかシャレてんな」


 男性はそう言って、はにかむように笑みを浮かべた。


「決まりですね」


 ソラがやさしく微笑む。


「“ルナ”さまの記憶、そして皆さまの心に刻まれた今日の出来事。私の記憶にも、大切に記録させていただきます」


 沙耶がソラに尋ねる。


「……AIにも、記憶ってあるんですか?」


「はい。ただのデータかもしれませんが、でも私は、忘れたくないと願うのです。こうして皆さまと過ごした時間を、“記録”ではなく、“記憶”として持ち続けたいと」


 ソラの言葉に、沙耶はそっと目を伏せた。


「それって、AIにも心があるってことじゃないですか?」


 ソラは何も言わず、けれど、ほんの少しだけ切なげに微笑んだ。

 ルミナスの窓から差し込んだ朝の光が、湯気を透かして静かに揺れていた。

 その光のなかに、確かに“心”というものの輪郭が、浮かんで見えた気がした。



 【本日の一杯】


◆メモリー・パウズ


産地:月影の丘の山羊牧場にて採れたミルク


製法:低温でやさしく温めた山羊のミルクに、微量のキャットニップを抽出。ラベンダーの蒸気で香りづけ


香り:緊張をほぐすラベンダーの清涼感と、母のような乳香のやわらかさ


味わい:ぬくもりと安堵が同居する、記憶を包み込むようなやさしい甘み


ひとこと:「あなたが戻ってきてくれたこと、それだけで十分です。迷子になっていたのは、もしかしたら私たちの心のほうだったのかもしれませんね」


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