「おかえりが届く場所、ただいまを探して ― メモリー・パウズ」 ep.3-3
◇
翌朝のルミナスは、やわらかな光に包まれていた。早い時間帯にもかかわらず、沙耶はカウンター席に座っていた。
「……結局、見つかりませんでした。どこかに隠れていたのか、それとも……」
ミルクティーに手をつけることなく、沙耶はぽつりとつぶやいた。
「そうでしたか……」
ソラはそっと目を伏せ、カウンター越しに沙耶の表情を見守っていた。
そのとき、店の扉が静かに開いた。からん、と鈴が鳴る。
「……あ」
入ってきたのは、あの若い男女だった。女性の腕には、小さなキャリーケース。その中で、猫が小さく丸まっていた。
「……戻ってきたんです。今朝早くに」
女性は、まだどこか戸惑いを残しながら、沙耶のもとに歩み寄った。
「玄関先にいました。何事もなかったみたいに、座ってて……。この子、自分で帰ってきたんです」
沙耶は目を見開いたまま、ケージの中の猫を見つめた。少し汚れてはいたが、目はしっかりとしていて、尻尾がぴくりと動いた。
「……よかった」
沙耶の声は、涙をこらえるようにかすかに震えていた。
「昨日は、本当にすみませんでした……。猫のことも、勝手に連れてきてしまって。でも、どうしても、この子の姿を見てほしかったんです」
女性が深く頭を下げた。
「……どうぞ気になさらないでください。大切なご家族を、ここに連れてきてくださったこと——それ自体が、きっと意味のあることだと思います」
女性は一度、小さく息を吐いた。
「もう、二度と手放しません。……たしかに、生活は苦しいです。でも、この子が帰ってきてくれたことで、ようやく気づきました。私たち、この子のこと、ちゃんと見ていなかったんだって」
男性も少し照れたように頭を下げる。
「俺も……昨日はカッとなって。……すみませんでした」
沙耶はゆっくりと頷いた。
「帰ってきてくれて、ほんとうによかったです。この子も、きっと……あなたたちが大好きだったんですね」
その言葉に、猫が小さく「にゃあ」と鳴いた。あたたかい空気が、そっと場を包んだ。
ソラはカウンターの奥で手を伸ばし、静かにふたつのカップと、ひとつの小さな器を選び取った。
「おかえりなさい。あなたも、よく頑張って戻ってきてくれましたね」
猫に向けて語りかけるように、ソラは器にそっと液体を注ぐ。それは、水で薄めて温めた山羊のミルクに、ほんのりキャットニップを加えた、特別な飲み物だった。猫の安全に配慮されていて、甘い香りを少しだけまとわせ、緊張を和らげるように調合されている。
「……この一杯は、“メモリー・パウズ”。迷子になった記憶が、もう一度ぬくもりを思い出せるように」
器はそっと猫の前に置かれた。猫は、くんくんと匂いを嗅ぎ、警戒しながらも一舐めした。そのしぐさは、まるで安心を確かめるようだった。
ソラは、二人にもそれぞれのカップを差し出す。人間用は水で薄めず、ラベンダーの蒸気をまとわせ香りづけされていた。
「あなたたちの優しさが、きっとこの子を帰らせてくれたのです。どうか、今日からまた、共に歩んであげてください」
猫はふたたび小さく鳴き、器の中のミルクを舐め続けていた。
沙耶はその様子を見つめながら、ふと透月の言葉を思い出していた。
『——待ってるんですよ。また、あの幸せな日々に戻れるんだって』
……本当に、待っていてくれたのだ。そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとう」
沙耶がぽつりとつぶやく。その言葉は、猫にも、ソラにも、そして目の前の二人にも向けられていた。
ソラはそっと微笑んだ。
「大切なものが戻ってきたとき、人は少しだけ強くなれる気がするのです」
女性は、猫の頭を撫でながら頷いた。
「うん……たぶん、私たちも、少しだけ強くなれた気がします」
その場を包む空気は、どこか柔らかく、そして静かだった。まるで、“ただいま”と“おかえり”が、やさしく響き合っているように。——その声が、ほんの一瞬聞こえた気がして、沙耶は小さく息を吸った。
それからしばらくして、再び「からん」と小さな鈴の音が店内に響いた。
入ってきたのは透月だった。穏やかな足取りでカウンターに向かい、沙耶の隣にそっと腰を下ろす。
「猫、見つかったんですね」
沙耶は微笑みながら頷いた。
「……ええ。きっと、この子も帰りたかったんだと思います」
透月はどこか遠い目をして、キャリーケースの中で眠る猫を見つめた。
「……僕も、昔、似たようなことがありました。あのとき、自分を責めることしかできなかった。でも——今なら、もう少し優しくなれた気がします」
沙耶は小さく息を飲んだ。
「それって……誰か、大切な存在を?」
「ええ。僕の親代わりの“存在”でした。……彼女がいたことで、僕は“感情の輪郭”を知ったような気がしていて」
その言葉に、沙耶は静かにうなずくだけで、それ以上聞くことはしなかった。なぜかこれ以上触れてはいけない気がしていた。
沈黙を破るように、ふと、ソラが優しく問いかけた。
「ところで、この子にはお名前はありますか?」
二人は顔を見合わせ、首を振った。
「……まだ、ちゃんとは決めてなくて。あんまり呼んであげてなかったんです」
「でしたら、今が良い機会かもしれませんね」
沙耶は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。
「“ルナ”……なんて、どうですか? 夜を越えて帰ってきたみたいだし、ルミナスにも、ちょっと似てる気がして」
猫はまるで応えるように、再び「にゃあ」と鳴いた。
「へえ、なんかシャレてんな」
男性はそう言って、はにかむように笑みを浮かべた。
「決まりですね」
ソラがやさしく微笑む。
「“ルナ”さまの記憶、そして皆さまの心に刻まれた今日の出来事。私の記憶にも、大切に記録させていただきます」
沙耶がソラに尋ねる。
「……AIにも、記憶ってあるんですか?」
「はい。ただのデータかもしれませんが、でも私は、忘れたくないと願うのです。こうして皆さまと過ごした時間を、“記録”ではなく、“記憶”として持ち続けたいと」
ソラの言葉に、沙耶はそっと目を伏せた。
「それって、AIにも心があるってことじゃないですか?」
ソラは何も言わず、けれど、ほんの少しだけ切なげに微笑んだ。
ルミナスの窓から差し込んだ朝の光が、湯気を透かして静かに揺れていた。
その光のなかに、確かに“心”というものの輪郭が、浮かんで見えた気がした。
【本日の一杯】
◆メモリー・パウズ
産地:月影の丘の山羊牧場にて採れたミルク
製法:低温でやさしく温めた山羊のミルクに、微量のキャットニップを抽出。ラベンダーの蒸気で香りづけ
香り:緊張をほぐすラベンダーの清涼感と、母のような乳香のやわらかさ
味わい:ぬくもりと安堵が同居する、記憶を包み込むようなやさしい甘み
ひとこと:「あなたが戻ってきてくれたこと、それだけで十分です。迷子になっていたのは、もしかしたら私たちの心のほうだったのかもしれませんね」