「再出発の音色 ― シュクレ・セレナーデ」 ep.2-5
そして、窓からやわらかな光が差し込むテーブルに、母娘が腰を下ろした。 母は深く座りながら、ほっとしたように小さく息を吐く。
「すみません……普段はあまり外に出たがらない子で。今日は、この辺りのカフェにもパンケーキがあるって聞いたときから、ずっと来たがっていて」
「ありがとうございます。お嬢さまの大切なひとときに、ルミナスを選んでくださって光栄です」
ソラの言葉に母親はふっと微笑み、メニューをそっと閉じた。
「私はコーヒーを。この子には、ミルクティーとパンケーキをお願いします」
「かしこまりました」
ソラが注文を受けてカウンターへ戻ると、アケミが母娘をちらりと見て、声を落として尋ねた。
「ねえソラ。あの子、ちょっと……元気なさそうじゃない?」
「……ええ。おそらく、なにか心に抱えているものがあるのでしょう」
「そっか。パンケーキ、特別に可愛く盛りつけてあげてよ」
「もちろんです。苺とベリーをたっぷり添えた、春色のパンケーキにしましょう」
ソラはそう言って、奥の厨房へと向かった。
やがて、湯気をたてたパンケーキが運ばれてきた。ふわふわに焼き上げられた二枚の生地の上には、赤や紫のベリーが鮮やかに盛られ、白いクリームがそっと寄り添っていた。粉糖がふわりと降りかけられ、皿の縁には小さなミントの葉が飾られている。
「お待たせいたしました。春色のパンケーキです」
ソラの言葉に、このかはゆっくりと視線を上げる。その目に、ほんの少しだけ光が差したようだった。
続いて運ばれてきたミルクティーは、淡い琥珀色をしていて、やさしい湯気を立てていた。ひとくち飲んだこのかは、驚いたようにまばたきをした。
「……甘い」
それは砂糖の甘さではなく、どこか安心感をくれるような、まろやかな味わいだった。
アケミがカウンター越しにそっと笑いかけた。
「美味しいでしょ、そのミルクティー。私も好きなんだ」
このかは何も言わなかったが、ほんの少しだけ、頷いたように見えた。
そのわずかな仕草に、アケミはそっと胸を撫で下ろす。
静かでやさしい時間が流れていく。春の陽射しがカーテン越しに揺れ、グラスの縁を静かに照らしている。
このかはパンケーキを半分ほど口にすると、ふと窓の外に視線を向けた。
けれど、その目は何かを見ているようで、何も見てはいなかった。ただ、遠くの景色に心を預けるように、ぼんやりと焦点の合わないまなざしを漂わせている。
ひととき、すべてが止まっているようだった。
店内のざわめきも、時計の針の音さえも、彼女の世界から遠ざかっていく。
やがて、このかがパンケーキを食べ終えると、母が立ち上がり、コートを手に取った。
「そろそろ行こうか」
このかは黙って頷き、そっと椅子を引いた。
レジの前で、母は小さく頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます。またいつでもお越しください」
ソラの声に、このかはふと立ち止まり振り返る。そして小さな声で言った。
「……パンケーキ、美味しかったです」
それは今にも消えてしまいそうな声だったが、確かにソラに、そしてアケミの胸に届いた。
からん——と、扉の鈴がふたたび小さく鳴り、母娘はルミナスをあとにした。
静かな旋律だけが、空間を満たしていた。アケミもソラも、何も言わずにその余韻に耳を澄ませていた。
「……今日ってさ、平日だよね」
そんな中、アケミがぽつりとつぶやいた。ソラは小さく頷く。
「ええ。おそらくこのかさんには、なにか学校に行けない理由があるのでしょう」
テーブルに残されたカップの輪染みが、光に透けてゆっくりと乾いていく。それはまるで、このかの胸に残された感情の跡が、そっと静かに馴染んでいくかのようだった。