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記憶と夢の珈琲店〈Cafe Luminous〉  作者: 寶井かもめ
第七話 「再出発の音色 ― シュクレ・セレナーデ」
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「再出発の音色 ― シュクレ・セレナーデ」 ep.2-5


 そして、窓からやわらかな光が差し込むテーブルに、母娘が腰を下ろした。 母は深く座りながら、ほっとしたように小さく息を吐く。


「すみません……普段はあまり外に出たがらない子で。今日は、この辺りのカフェにもパンケーキがあるって聞いたときから、ずっと来たがっていて」


「ありがとうございます。お嬢さまの大切なひとときに、ルミナスを選んでくださって光栄です」


 ソラの言葉に母親はふっと微笑み、メニューをそっと閉じた。


「私はコーヒーを。この子には、ミルクティーとパンケーキをお願いします」


「かしこまりました」


 ソラが注文を受けてカウンターへ戻ると、アケミが母娘をちらりと見て、声を落として尋ねた。


「ねえソラ。あの子、ちょっと……元気なさそうじゃない?」


「……ええ。おそらく、なにか心に抱えているものがあるのでしょう」


「そっか。パンケーキ、特別に可愛く盛りつけてあげてよ」


「もちろんです。苺とベリーをたっぷり添えた、春色のパンケーキにしましょう」


 ソラはそう言って、奥の厨房へと向かった。


 やがて、湯気をたてたパンケーキが運ばれてきた。ふわふわに焼き上げられた二枚の生地の上には、赤や紫のベリーが鮮やかに盛られ、白いクリームがそっと寄り添っていた。粉糖がふわりと降りかけられ、皿の縁には小さなミントの葉が飾られている。


「お待たせいたしました。春色のパンケーキです」


 ソラの言葉に、このかはゆっくりと視線を上げる。その目に、ほんの少しだけ光が差したようだった。


 続いて運ばれてきたミルクティーは、淡い琥珀色をしていて、やさしい湯気を立てていた。ひとくち飲んだこのかは、驚いたようにまばたきをした。


「……甘い」


 それは砂糖の甘さではなく、どこか安心感をくれるような、まろやかな味わいだった。


 アケミがカウンター越しにそっと笑いかけた。


「美味しいでしょ、そのミルクティー。私も好きなんだ」


 このかは何も言わなかったが、ほんの少しだけ、頷いたように見えた。


 そのわずかな仕草に、アケミはそっと胸を撫で下ろす。


 静かでやさしい時間が流れていく。春の陽射しがカーテン越しに揺れ、グラスの縁を静かに照らしている。


 このかはパンケーキを半分ほど口にすると、ふと窓の外に視線を向けた。


 けれど、その目は何かを見ているようで、何も見てはいなかった。ただ、遠くの景色に心を預けるように、ぼんやりと焦点の合わないまなざしを漂わせている。


 ひととき、すべてが止まっているようだった。

 店内のざわめきも、時計の針の音さえも、彼女の世界から遠ざかっていく。


 やがて、このかがパンケーキを食べ終えると、母が立ち上がり、コートを手に取った。


「そろそろ行こうか」


 このかは黙って頷き、そっと椅子を引いた。


 レジの前で、母は小さく頭を下げた。


「今日はありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございます。またいつでもお越しください」


 ソラの声に、このかはふと立ち止まり振り返る。そして小さな声で言った。


「……パンケーキ、美味しかったです」


 それは今にも消えてしまいそうな声だったが、確かにソラに、そしてアケミの胸に届いた。


 からん——と、扉の鈴がふたたび小さく鳴り、母娘はルミナスをあとにした。


 静かな旋律だけが、空間を満たしていた。アケミもソラも、何も言わずにその余韻に耳を澄ませていた。


「……今日ってさ、平日だよね」


 そんな中、アケミがぽつりとつぶやいた。ソラは小さく頷く。


「ええ。おそらくこのかさんには、なにか学校に行けない理由があるのでしょう」


 テーブルに残されたカップの輪染みが、光に透けてゆっくりと乾いていく。それはまるで、このかの胸に残された感情の跡が、そっと静かに馴染んでいくかのようだった。



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