「声にならない詩 ― ノクターン・サイレント」 ep.2-5
◇
――古びた木の扉の前で、凛は立ち尽くしていた。扉の上に揺れるアイアンの看板には、《記憶と夢の珈琲店〈CAFE・LUMINOUS〉》と刻まれている。
ここを見つけたのは偶然だった。街の喧騒を避けて音の少ない路地を彷徨っていたとき、この看板と、静かに息づく木の扉に出会った。けれど、その扉を開くには、ほんの少し勇気が必要だった。
“ここに入ってしまえば、自分を変えられるかもしれない” そんな予感がした。なによりも『記憶と夢』という文字に惹かれた。だからこそ足が止まった。
喉元に手を当て、鼓動の速さを確かめるようにひと呼吸おくと、凛は意を決して扉に手をかけた。
カラン……と、小さな鈴の音が静かな空間を撫でた。
焙煎された豆の香りと、古木の甘い匂いがゆるやかに満ちている。その奥に、凛の心をそっと緩めるような、柔らかな光が広がっていた。
カウンターの隅には一人の男性が座っていた。文庫本を閉じ、水を口に含んだところでふと顔を上げる。少女と目が合うと、透月は軽く会釈してからゆっくりとページの端に視線を戻した。
ソラがカウンターの中から、凛に向かって優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ようこそ、カフェ・ルミナスへ」
その声があまりにやさしくて、凛は一瞬肩の力を抜きそうになった。慌てて頷き、カバンからノートを取り出すと、新しいページを開いてペンを走らせる。
『声が出せません。筆談でもいいですか?』
ソラは目を通すと、頷きながらはっきりとした声で返した。
「ええ、大丈夫ですよ。あなたのペースで、ここにいてください」
凛の目がかすかに揺れた。耳に届いたその“言葉”に、恐怖ではなく、安堵が広がっていく。
「よければ……お名前を教えてもらえますか?」
凛は再びペンを取り、そっと書いた。
『凛、といいます』
その筆跡をふと横目で見ていた透月の目が、わずかに動いた。胸ポケットの中の紙片が、ふっと心のなかで重なったような気がした。
――どこかで見たことがある。
けれど、それはまだ“確信”ではなかった。
「素敵なお名前ですね。では凛さん、ごゆっくりお選びください」
凛はメニューを受け取り、そっと視線を滑らせた。コーヒーやカフェオレ、紅茶、ハーブティーといった飲み物が並んでいて、焼き菓子やケーキなどフードメニューも充実している。
(どれも美味しそう……でも、どれがいいのか……)
メニューを見つめるその目は、ほんの少しだけ楽しげで、そしてどこか迷子のようでもあった。
凛はこの場所で過ごす一瞬を大切にしたいと思っていた。だからこそ、選ぶことにも少しだけ時間をかけたかった。
やがて、メニューの端に小さく書かれた「季節のブレンド」に目を留めると、凛は頷くようにソラへ視線を向け、そっと指差す。
ソラは優しく微笑みながら、「季節のブレンドですね。少しお時間をいただきます」と言い残して、静かに奥へと姿を消した。