白磁の庭
侯爵家の館の中庭には、エンソーフでも名高い白磁の花――月薔薇が、夜の静寂に静かに咲き誇っていた。
リリスは一輪の月薔薇に手を伸ばし、その冷たい白に指先をかすめた。
「あの日も、ここに来た」
背後から届いたエヴァの声は、風に似ていた。
「あなたがいなくなってから、私は……何も選べなかった」
リリスは振り向かず、ただ花を見つめたまま答える。
「選ばなかったのではなく、選ばせてもらえなかっただけ。あなたも、私も」
エヴァはそっと彼女の隣に立ち、手にしたカップを差し出した。温かいハーブティーの香りが、わずかに夜気を和らげる。
「今なら、あなたに伝えられるかもしれない。私は、あなたが羨ましかった」
「……どうして?」
リリスは驚いたように顔を向けた。
「あなたは凛として、誰の助けも借りずに歩いていた。生まれた日も、髪の色も瞳も同じなのに、私はいつも、あなたにかなわなかった……」
エヴァは小さく笑ったが、それは笑顔ではなかった。
「そして、選ばれたのは私ではなく、あなただった。世界に、命を捧げる存在として」
リリスは驚いてエヴァを見つめ返した。
「あなたは花に選ばれたかったの?…アダムの愛よりも? 私のすべてが失われたというのに……!」
「それは!…ごめんなさい。でも、私は……ごめんなさい、私が言うことではなかったわ。あなたは私の代わりに何もかも失ったもの」
自分の持ってるものに気付かなかったエヴァ。
リリスはそれが欲しくて仕方なかったのに、彼女は見えてなかった。なんて愚かで羨ましい存在なんだろう、とリリスは心の中でつぶやいた。
そのとき、中庭のアーチの向こうから足音が響いた。
控えめだが確かな歩調。リリスは身を固くした。
現れたのはカインだった。
彼は二人に軽く一礼し、リリスへと視線を向ける。
「騎士団の偵察から戻った。森の北端に、封鎖された祭壇跡が見つかった」
「……祭壇跡?」
エヴァの表情が曇る。
カインは小さく頷く。
「かつて、ラフレアへの生贄を捧げた場所だ。文献には、祭壇と花は『繋がっていた』とある。そこに何が残されているか……確かめるべきだろう」
リリスは無意識に唇を噛んだ。
彼女の体内で、花に触れたあの日の記憶が疼いた。
――ラフレアは、私を呑み込んで満足したのか?本当に眠ったままなのか?それとも、再び『飢えて』いる……?
静かだった白磁の庭に、目に見えぬ不安が広がっていく。
そして、その中心にいるのは――やはりリリスだった。