風邪 1
朝ごはんを食べ終わると、先生に付いてくれていた使用人さんと代わり、私が先生の看病をする事にした。まさか、先生が風邪ひいちゃうなんてなぁ。昨日夜更かしなんてしないで、早く寝れば良かった。そうすれば、先生だって椅子でうたた寝する事なんて無かった。洗面器に浸した手ぬぐいを絞りながら、私は溜め息を吐いた。
「アイリス?」
呼ばれて振り返ると、ベッドに横になっている先生がこちらに顔だけ向け、不思議そうに私を見つめていた。
喉をやられたせいで、声が掠れている。先生は我慢強いから何も言わないけど、喉、とっても痛いはずだ。せめて、喉の痛みを取る魔術が使えたら良かったんだけど……。
風邪などの病を治すには、どれだけ回復系治癒術を知っているかが重要だ。私が後回しにしている回復系の……。それを、症状に合わせて幾つも使う必要があるらしい。体力回復の術だったり、喉の痛みを取る術だったり、頭痛を治す術だったり、腹痛を治す術だったり――。その辺は薬湯の調合に似ているんだって、フォーゲルシメーレさんが前に言っていた。
私は手ぬぐいを先生の額の上に置いた。先生が気持ち良さそうに目を細める。
「ごめんね、先生。治せなくて……」
こんな事しか出来なくて。こんなんじゃ、先生の役に立ててないよね……。
「薬湯、作ってくれたじゃないですか。それに、先程、体力回復の術をかけてもらったお蔭か、だいぶ楽になりました」
「ん……。また後でかけてあげるね」
そう言いつつ、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。すると、先生が薄らと笑った。
「偶には良いものですね」
「何が?」
「こういうの。一日寝ていられる事など、ほとんどありませんから」
「先生、いつも頑張り過ぎなんだよ。たくさん寝て、早く良くなってね」
先生が寝込んでいると、私まで元気が出ない。不安で不安で仕方ない。勉強だって、する気になれない。
「心配?」
「ん……」
「そうですか」
先生がクスクスと笑う。心なしか、ちょっと楽しそう。人の気も知らないで……。でも、まあ、辛そうにされるよりは良いか。
「ねえ、アイリス?」
「ん?」
「手、握っててくれません?」
「手?」
「ええ。元気、分けて下さい」
「ん」
頷き、先生の手を取ると、ギュッと握る。早く良くなってと、ありったけの思いを込めて。
「やっぱり良いですね、こういうの。少し寝ても?」
「ん」
「手、そのままで……」
そう言って、先生は静かに目を閉じた。しばらくして、先生から寝息が聞こえ始める。呼吸、浅くて少し早いな。熱、上がってきたのかな? 先生の手、熱い……。
そう言えば、手繋いでって言われたの、初めてかもしれない。甘えるみたいな言い方だったし……。こんな先生、そうそう見れるものじゃないな。
それに、先生の寝顔、無防備でちょっと可愛い。寝てる先生って、いつもより幼く見えるなぁ。くふふ。眉、下がってる。先生じゃないけど、偶には良いかもしれない、こういうの。
先生の寝顔を見つめていると、控えめなノックの音が響いた。振り返ると、扉の隙間からスマラクト兄様が顔を覗かせていた。
「どうだ? 少しは良くなったか?」
「ん~ん。熱、上がってきちゃったみたい」
「そうか……。寝ているのか?」
「ん。ついさっき」
頷くと、兄様が部屋に足を踏み入れ、先生を起こさないようになのか、そ~っと扉を閉めた。そして、ベッドに寄り、先生の顔を覗き込む。
「ラインヴァイス兄様の寝顔など、見た事無かったが……。無防備で、普段より幼く見えるな」
「ん。それ、さっき、私も思った」
「それだけ、普段は気を張っているという事なのだろうな……」
やれやれといった様子で、兄様が溜め息を吐いた。きっと、兄様なりに、普段の先生を見ていて思う所があるんだろうな……。
「父上には連絡しておいたからな。治るまで、ゆっくりしていて良いそうだ」
「ん。先生が起きたら伝えておくね」
「ああ。今日は一日、ラインヴァイス兄様に付いていてやるのか?」
「ん。熱下がるまでは心配だし」
「偉いな、アイリスは」
そう言って、兄様がにこりと笑った。そして、私の頭に手を伸ばし、グリグリと撫で回す。力加減を間違えたのか、私の頭が前後左右に揺さぶられた。
「兄様、目、回る……」
「おお、すまぬ」
兄様が驚いたようにパッと手を離す。そして、今度は恐る恐るといった様子で、そっと私の頭を撫でた。
「また後で来るからな」
「ん。お仕事、サボらないでしっかりね?」
「分かっておる。母上のような事を言うでない」
そう言ってニッと笑った兄様は部屋を後にした。入ってきた時と同じようにそ~っと出て行く兄様の背を見送ると、先生に視線を戻す。先生は未だ、私の手を握り締めたまま。
ん~……。このまま一日中、先生の寝顔を見続けてるのも、何だかなぁ……。かといって、勉強をする気分じゃないし、先生に付いていてあげたいし……。ここで出来る事、何か無いかな? ん~……。
あ。そうだ! 本、まだ読み終わってないんだった。思い出すと、続きが凄く気になるなぁ。……よし。本、取りに行ってこよっと!
先生を起こさないように、そっと手を解く。一瞬、ピクリと先生の指が動いた。起きちゃった? 驚いて、先生の顔を息を殺して見つめる。でも、目は閉じたまま。……よし。起きてないね。
足音を立てないように気を付けながら扉に向かい、そ~っとそれを開いた。一度振り返り、先生の姿を確認する。起きてないね。大丈夫だね。抜き足差し足で部屋を出て、扉を静かに閉めると、私は宛がわれている部屋に走って戻った。
ベッドサイドのチェストの上に置きっぱなしになっていた本を手に取り、部屋を後にする。これでやる事も出来たし、先生の傍にいられるし、完璧! と思ったのは束の間だった。
先生の部屋に戻ろうと廊下を駆けていると、向こうから覚束ない足取りの先生が歩いて来た。壁に手を添え、見るからにフラフラだ。
「先生!」
叫び、慌てて駆け寄る。私に目を移した先生は、少しボーっとした顔をしながらも、満足そうに笑った。
「見つけた」
「見つけたって……。何で寝てないの!」
「だって、起きたらアイリスがいなくなっていたから……。手、そのままでいてって、さっき言ったのに……」
そう言った先生が、拗ねるように口を尖らせた。何か、先生が変……。いつもより、どこか子どもっぽいような……?
「い、いないからって、探しに来たら駄目なんだよ!」
「何故?」
「具合悪いから。今日は一日寝てる日なの!」
「独りで? アイリスは?」
不安そうに先生が眉を下げる。やっぱり、今日の先生、いつもと違う。具合悪くて、気が弱くなってるのかな? こんな時こそ、私がしっかりせねば!
「私、看病してあげる!」
「ずっと?」
「ん。治るまでずっと一緒にいるよ。だから、お部屋で寝てよう?」
私がそう言うと、先生がこくんと頷いた。そんな先生の手を引き、部屋へと向かう。
足取りは朝よりマシかな? 朝は独りじゃ歩けなかったし。これはきっと、体力回復の術をかけたお蔭なんだろうな。けど、顔がぼ~っとしてたし、行動も変だし、熱は朝より高くなってるのかな? 部屋に戻ったら、消耗する前に体力回復の術をもう一回かけて、様子を見て見ようかな? そんな事を考えながら歩いていると、あっという間に先生の部屋に到着した。
先生をベッドに寝かしつけ、体力回復の術をかける。先生はされるがままで大人しい。目が覚めたら誰もいないからって、フラフラ出歩いていたのが嘘のよう。
「先生、何か欲しい物ある?」
私がそう尋ねると、先生が考えるように視線を彷徨わせた。そして、口を開く。
「水。喉、渇いた……」
「分かった! じゃあ、ちょっともらいに行って来る!」
先生に背を向けた途端、腕を掴まれる。驚いて振り返ると、少し不機嫌そうに顔を歪ませた先生と目が合った。
「ずっと一緒にいてくれるって、さっき、約束した」
「水、もらいに行くだけだよ?」
「駄目」
えぇ~! 喉渇いたって、自分で言ったくせに。
「水、いらないの?」
「いる」
「だから、もらいに――」
「駄目」
う~……。水は欲しいけど、もらいに行ったら駄目なの? でも、それじゃ、先生が辛いままだよ。
「すぐ戻って来るよ?」
「駄目」
「ちょっと行って来るだけだよ?」
「駄目」
「あっという間だよ?」
「駄目」
何を言っても、先生は駄目の一点張り。こんな事なら、ずっと一緒にいるなんて約束、しなければ良かった……。
何か方法、無いかな? う~ん……。誰か呼べればなぁ……。大きな声で叫んでみる? でも、この広いお屋敷で、誰かがたまたま近くにいるとは限らないし……。
誰かを呼ぶ方法……。連絡する方法……。連絡……。連絡? そうだ! 私は首の鎖を引っ張り、青い石がはまった護符を取り出した。そして、兄様の名を呼ぶ。すると、すぐに護符の石に兄様の顔が映った。出てくれた!
「兄様! 助けて!」
「何があった?」
兄様はそう言ったと思った次の瞬間、私のすぐ隣に姿を現した。何故か、そのとたんに先生から冷たい空気が出始める。私の腕を掴む先生の手に、さっきよりも力が篭っていた。ひぃ~! 背中、ゾクゾクする!
「な、何故、ラインヴァイス兄様は威嚇をしているのだ?」
「わ、分かんないよ! さっきまではこんなんじゃなかったもん! 兄様が出てきたら、急に――」
「僕が……? ああ、そういう事か……」
兄様は独り納得すると、すすすっと先生のベッドから離れた。すると、先生から出ていた冷たい空気が少しだけ和らぐ。
「それで? 何があった? 護符で僕に助けを求めるなど、余程の事だったのだろう?」
「ん。あのね、先生、水が欲しいんだって。でもね、もらいに行かせてもらえないの。どうにかして!」
「何だそれは……」
呆れたように溜め息を吐く兄様を、先生はジッと見つめていた。依然としてその視線は鋭く、冷たい空気は出続けている。私の腕を掴む手の力も強いままで、少し痛い。
「まあ、良い。すぐに持って来させよう。他に必要な物は無いか?」
「ん~……。私用にお茶があると嬉しい」
「分かった。準備させよう」
そう言って、兄様が部屋を後にした。すると、先生から出ていた冷たい空気が無くなり、私の腕を掴んでいた手も離れた。私を見つめる先生の目から、さっきの鋭さは無くなっている。その代り、どこか不安そうで……。
「大丈夫だよ。ちゃんと、ここにいるから」
私はそう言うと、掛け布から出ていた先生の手を両手でギュッと握った。すると、先生の口元に僅かに笑みが浮かび、私の手を握り返してくれた。




