近衛師団長の憂鬱ⅩⅠ
ソファの肘掛けに寄りかかったアイリスが、スヤスヤと安らかな寝息を立てている。僕は手袋を取り、彼女の顔に掛かる赤い髪を手櫛で梳いた。
泣いた時に擦ったのだろうか、目の周りが少し赤い。すぐに冷やしたが、明日、腫れてしまわないだろうか……? そう思いつつ、そっと指で撫でる。すると、アイリスが身じろぎをした。
「珍しいな」
そう言ったのはスマラクト様。アイリスが寝てしまった後、カインに持って来させたボードゲームの盤面から僕に視線を移し、目を丸くしていた。
「何がですか?」
「手袋。取っているの、初めて見たぞ」
「そうでしたか?」
「そうだ。あまりにも取らないものだから、密かに、ラインヴァイス兄様は潔癖なのだと思っていた」
潔癖……。まあ、そう思われても仕方ない自覚はある。人前では常に――食事中ですら、付けたままでいるのだから。
「安心するんです。これがあると」
「ほう?」
「結界術師の性なのかもしれません。自分以外のものと、一線を引きたいというのは」
「ふむ……」
スマラクト様は考えるように顎に手を当てた。その表情は、どこか、納得いかないと言っているようで……。結界術師ではない彼に、この感覚は理解しがたいものなのだろう、きっと。僕自身も、この感覚を言葉では言い表しがたい。
「要するに、その手袋は、ラインヴァイス兄様の独立性を保つ為の道具なのか?」
「独立性……。まあ、そんな感じでしょうね」
「そうか」
納得するような言葉を発するも、スマラクト様は未だ難しい顔をしていた。何をそんなに考えて――? そう思った時、彼が口を開いた。
「アイリスの兄として、一つ、確認したい事がある」
「兄として? 何でしょう?」
「ラインヴァイス兄様にとって、アイリスは何だ?」
「何、とは?」
「そのままの意味だ。ただの弟子か? それとも、共にアオイ様を世話する同僚か? はたまた、早世した妹君の代わりか? それとも、もっと別の存在か?」
スマラクト様が真っ直ぐ僕を見つめる。その視線に耐え切れず、僕は何も言わず、彼から視線を逸らすように俯いた。
「言えぬか? まさか、分からぬという事はあるまいな?」
彼からこのような問いを投げかけられるとは……。子どもだと思って侮っていたが、彼は人族で言う所の成人年齢はとうに超えている。魔人族は、幼い肉体に精神が引っ張られるせいか、同年齢の人族に比べると精神年齢が幼い傾向があるが、それでも数十年の人生経験は馬鹿に出来ないという事だろう。
「まあ、言いたくないのなら仕方ない……。だがな、もし、先ほど僕が言ったようにしかアイリスを思っていないのなら、悪い事は言わない、アイリスをここに置いて行け」
「何故……」
「何故? そうか……。何故、か……。存外、ラインヴァイス兄様は鈍感なのだな」
鈍感? 僕が? 顔を上げ、スマラクト様を見る。すると、彼はニッと挑発的に笑った。
「どうする? アイリスをここに置いて帰るか? そうすると、互いに別れが辛くなるだろうから、アイリスが寝ている間に出発した方が良いと思うぞ? それとも、明日、アイリスと共に父上の迎えを待って、共に帰るか?」
隣に視線を移すと、アイリスが安心しきった顔で眠っていた。それを見て、自然と、愛しい、守りたいという想いが胸の奥にじわりと沸き上がってくる。
僕が魔物から助け、世話をしてきた子だ。大切に守り、出来得る限りの愛情を注いできた。それを、横から出て来て奪おうと? ……渡さない。絶対に。
「ほう……。なかなか良い顔をするではないか。して、答えは?」
「明日、アイリスと共に帰ります」
「そうか。では、今日の所は大人しく引き下がるとしよう。せいぜい、僕を失望させないでくれよ、ラインヴァイス兄様」
そう言って、スマラクト様はソファから立ち上がると、扉へと向かった。そして、カインが開いた扉をくぐり、部屋を後にする。残されたのは、静かに寝息を立てるアイリスと、言いようの無い苛立ちを抱えた僕の二人だけ。僕は溜め息を吐きながらソファの背もたれに寄りかかると、天井を見上げた。真っ白い天井には同色の薔薇の模様があり、女性の部屋らしい華やかな雰囲気を醸し出している。
この部屋は、アイリスの為にわざわざ準備したものなのだろう。真新しいソファやベッド、シミ一つ無い真っ白い天井や壁がそれを物語っている。スマラクト様は、アイリスを引き取りつもりでこの部屋を準備していた。それが、彼女の幸せの為だと思ったから。だが……。身を起こし、拳を握り締める。
きっと、スマラクト様はアイリスを実の妹のように可愛がって下さるだろう。お披露目や今回の滞在での様子を見ていれば分かる。アイリスだって、彼を本当の兄のように慕っている。ここいいれば、彼女は幸せになれるはずだ。だが、彼女を手放したくない。ずっと見守っていたい。手が届く所に置いておきたい。僕だけの――。
「せんせー……」
アイリスの声でハッと我に返った。無意識の内に彼女に伸ばしていた手を慌てて引っ込める。見ると、アイリスは未だスヤスヤと寝息を立てていた。
今のは……寝言? いったい、どんな夢を見ているのだろう? 何やら幸せそうな顔をしているように見えるのは、僕の願望の現れなのか?
……重症だな、これは。僕は自嘲気味に笑うと、アイリスを横抱きにしてベッドへと向かった。出会った頃よりだいぶ大きくなったと思っていたが、それでも軽い。つくづく、未だ幼子なのだなと思う。
そっとベッドに横たえたアイリスに掛け布を掛けると、僕は彼女の小さな手を取った。手全体がかさつき、爪の近くにいくつものささくれがある。決して楽な生活をしてる訳では無いと、一目で分かる手だ。城に来てからというもの、アオイ様の世話をしつつ身の回りの事を独りでこなし、魔術や薬学の修練もしているのだから、こうなるのは必然なのだろう。幸せを願いつつ、こんな生活をさせるなんて矛盾している。
兄として、か……。もし、僕がスマラクト様の立場だったら、彼と同様、引き取りたいと申し出たはずだ。竜王城での生活は、幼いアイリスにとっては酷だから。何の苦労も無い、この屋敷での生活の方が良いに決まっている。分かっている。それなのに……! 僕は彼女の手を強く握り、瞳を閉じた。
「――せぇ」
肩を揺さぶられる感覚で、意識がゆっくりと浮上してきた。いつの間にか寝てしまったらしい。起きなくては。そう思いつつも、目が開かない。思っていた以上に疲れていたのか……?
「先生、起きて。先生!」
一際大きな声で呼ばれ、ハッと目を覚ました。真っ先に目に入ったのは、繋いだままになっていた手。それをゆっくり目で辿る。すると、困惑気味のアイリスの顔が目に入った。
「椅子で寝ちゃったの?」
「ええ……」
頷いた僕の声は、自分でも驚くくらい掠れていた。喉が痛い。それに、心なしか身体が怠い。これは……。
「先生、もしかして風邪ひいた?」
「みたいですね……」
「椅子で寝るからだよ! 何で、ちゃんと部屋に戻って寝ないの!」
「それは……」
戻りたくなかったから。離れたくなかったから。アイリスの手の感触を、傍にいるという証を感じていたかったから。しかし、そうと言う訳にもいかず、僕は曖昧に笑った。
「んもぉ! 面倒だったんでしょ! 立てる? 部屋に行って寝てないと!」
「ええ……」
頷き、立ち上がる。とたん、ぐらりと足元が揺らいだ。咄嗟に、ベッドの支柱に手を伸ばす。
「先生!」
慌てたようなアイリスの声が響く。彼女はベッドから身を乗り出し、今にも泣きそうな顔をしていた。こんな顔をさせてしまうとは……。
「大丈夫。少し、眩暈がしただけです」
「でもぉ……!」
「貴女は治癒術師を目指しているのでしょう? これくらいで狼狽えていては、治癒術師など務まりませんよ?」
「ん……。私、カインさんに言って、薬湯もらって――ううん。薬湯、作って来る! 先生、このベッドで休んでて!」
「え? ちょ……」
止める間もなく、アイリスは部屋を飛び出していった。残された僕は途方に暮れる。このベッドで休んでてって……。つい今しがたまで、アイリスが寝ていたベッドで? 彼女はそれで良いのだろうか? 戸惑いつつも、ベッドへと腰を下ろすと、ぎしりとスプリングが軋んだ。そっとマットに触れてみる。すると、彼女の温もりが未だ残っていた。こんなベッドで寝られるはずが無い。かといって、自力で部屋に戻れる自信も無い。まあ、良い……。カインか誰かが来たら、その時に肩を貸してもらおう……。
暫くそうしていると、控えめに部屋の扉がノックされた。短く返事をすると、ゆっくりと扉が開く。顔を覗かせたのはスマラクト様だった。
「何だ。寝ていなかったのか」
「ええ……」
「酷い声だな。今、アイリスが薬湯を作っている。すぐに出来るから待っててねと、言伝を預かった」
「そうですか……」
「流石に、今日帰るのは無理だろう。二、三日、こちらに滞在すると、父上に連絡しても?」
「お願いします……」
「うむ」
彼は頷くと、顔を引っ込めた。パタンと扉が閉まり、部屋の中がシンと静まり返る。僕は深く溜め息を吐き、項垂れた。
身体の丈夫さだけには自信があったのだが……。体調を崩したのは、いったい何年ぶりだろう? 最後に寝込んだのは、確か、リーラが未だ生きている頃だから――。
あの時は、母上が看病をしてくれたのだったか……? という事は、先の大戦が起こる前、母上が離宮に越す前、か……。大戦で負傷した父上が未だ竜王で、叔父上が宰相……。兄上は確か、近衛師団長だった頃か……? そう考えると、かなり昔の話だな……。
突然、大きな音を立てて扉が開いた。ハッと目を開き、顔を上げる。途端、異臭が鼻を突いた。思わずのけぞりそうになり、気が付く。これは、アイリスの……?
「先生! 何で寝てないの!」
眉を吊り上げたアイリスが僕に駆け寄り、手を伸ばした。そして、僕の額に振れる。ひんやりとした手。それが心地良い。
「んもぉ! お熱あるのに! カインさん、薬湯!」
「あの……。本当にこちらを……?」
カインがおずおずと口を開く。まあ、彼がそう言いたくなる気持ちも分からなくはない。例に漏れず、今回の薬湯もなかなか強烈な臭いを発しているのだから。
「ん。前にフォーゲルシメーレさんに作り方を教わった、風邪に効く薬湯なんだよ。えぇっと、何て言うんだっけかな……? そーごーかんぼーやく、だったかな?」
「いえ、しかしですね……」
「風邪には良く効く薬湯なんだもん。フォーゲルシメーレさん、そう言ってたんだもん!」
「カイン。薬湯を下さい」
「しかし……」
「大丈夫。アイリスが真心を込めて作ってくれた薬湯ですから。きっと良く効くはずです」
「そう、ですか……?」
カインの目は、本当に良いのかとでも聞くようで。僕は微笑みながら頷き、カインから薬湯の入ったカップを受け取った。枯草のような色の、どろりとした液体。臭いもかなり強烈だ。知らない者なら、これが薬湯だとは思わないだろう。
だが、これは、治癒術師見習いのアイリスが、薬師のフォーゲルシメーレに作り方を教わり、お墨付きをもらった薬湯だ。僕は深く息を吐き、一気に薬湯を煽った。予想通りとはいえ、味もなかなかに酷い。アイリスが作った薬湯でなければ、吐き出していてもおかしくは無い。
「先生、寝てて?」
「ええ。ただ、ここだと落ち着かないので、部屋に戻ります。カイン、手を貸して下さい」
「はい」
ベッドから立ち上がると、すかさずカインが僕の腕を取った。そして、その腕を自身の肩に掛け、半ば抱えるように肩を貸してくれる。
「アイリス様。申し訳ありませんが、扉を――」
カインが言い終わらないうち、アイリスが扉を開いた。僕達を先導するように先を歩く彼女の小さな背を見つめながら、僕は宛がわれている部屋へと戻った。




