迷い人
「よし……と、ふーっ」
「お帰りですか?」
「あ、はい、どうも……」
「朝食は召し上がりましたか?」
「ええ……あ、ポテトサラダが特に美味しかったです」
「それはよかった。この町で採れた野菜でこしらえたものなんですよ」
「へえ、ははは……いやあ、安いし思ったよりも、あ、いや、最高でしたね」
「それは何よりです」
荷物を抱えて部屋を出たところで声をかけられたので少し驚いた。まあ、さすがに偶然だろう。従業員は軽く会釈すると、静かに廊下の角へ消えていった。
それにしてもラッキーだった。宿泊費は格安、追加の食事代も驚くほど安い。泊まる前は警戒していたが、結局何も怪しいことは起こらなかった。まあ今のご時世、過激な布教活動なんてそうそうできるものじゃないのだろう。
ここならまた利用してもいいかもしれない。なんて名前の宗教だったかは忘れたが、この宿泊施設を。
出張でこの辺りに来たものの、近隣のホテルはどこも満室。ネットカフェに泊まるのも気が進まず、民泊でもないかとスマホで探していたときに、ふと目に留まったのがこの宿泊施設のサイトだった。
外観は白を基調にした簡素な洋風建築。廊下には深いワインレッドのカーペットが敷かれているが、部屋はほのかに畳の香る和室。素朴なホテルといった趣だった。
普通とは違う点といえば、従業員は全員、僧侶の袈裟のような紺色の装束を着ていることと、廊下に設置されたスピーカーから小さな音量で絶え間なくお経が流れていることくらいだ。慣れれば気にならないが、長く聞き続ければ妙な影響を受けるかもしれない。くわばらくわばら。さあ、退散しよう。おれはそう思い、歩き出した。
「……あれ?」
おれは思わず足を止めた。おかしい。玄関へ行くにはこの角を曲がればいいはず……いや、こっちだったか……いや、違うか……ああ、そうそう、こっちだ……あれ? ああ、こっちか……ん? こっち……ありえない。いやいや、ない。そんなことはありえない。
笑みを浮かべてごまかしながら進んでみるが、背中に冷たい汗がじっとりと滲んだ。
どれだけ廊下を進んでも、出口が見つからない――。
昨夜チェックインしたときの経路を必死に思い出そうとするが、壁はどこも同じ白で、同じ木目のドア。まるでコピー&ペーストしたような光景が繰り返される。行き止まりもない。
気づけば、さっき出てきたはずの自分の部屋の前を三度も通り過ぎていた。
「あ、あの、すみません!」
とうとう耐えきれず、おれは通りすがりの従業員に声をかけた。白いタオルを頭に巻いた中年の男だ。下はきっと坊主頭だろう。
「で、出口はどこですか……?」
息を切らしながら訊ねると、男はにこやかに微笑んだ。
「出口はすぐですよ」
「え、ああ、そうですよね。すみません、方向音痴なもので……」
穏やかな声で返され、急に気恥ずかしくなり、おれは笑って頭を掻いた。そうとも、“そんなこと”あるはずがない。おれはほっと息をつき、さらに訊ねた。
「あの、どう行けば……?」
「あなたが悟ったときです」
「は……?」
一瞬、頭が真っ白になった。先ほどから胸の奥で膨らんでいた嫌な予感が、いよいよ形を成し始める。男の貼りついたような笑みと、細められた目の奥に宿る黒い光に寒気を覚えた。
おれは軽く頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。
だが、いくら歩いてもやはり出口は見えない。一度部屋に戻って窓から外へ出ようとしたが、窓の先にあったのはなぜか廊下だった。窓から見える景色と、実際に出た先がまったく一致していなかった。
中庭に面した窓を開けても同じだった。そこにあったのは、別の廊下だった。
まるで悪夢の中にいるような感覚に取り憑かれたまま、おれは必死に走った。すると再び、あのタオルの男と鉢合わせた。
「廊下は走ってはいけませんよ」
「それは……そうなんですけど……」
うるせえ、このクソカルト狂いが――喉まで出かかったが、声にならなかった。悔しさと恐怖が胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合って涙が滲み、言葉に詰まってしまったのだ。迷って、怒られて、まるで子供に戻ったような情けなさに押し潰されそうだった。
「あの、お願いします。外に出してください……」
おれは荷物を手放し、両手を合わせて懇願した。
「外に出たいのなら、玄関から出ればいいですよ」
「だから……出られねえんですよ……」
苛立ちが込み上げ、つい声を荒げてしまった。だが、その拍子に胸の奥で何かが弾け、怒りが一気に燃え上がった。
たしか、『天真爛漫教』とかいう新興宗教団体だったな。胡散臭いと思っていたら案の定だ。いったい、おれに何をしやがった。そうだ、食事か水に薬を混ぜたんだろう。最初からどこかこうなる気はしていたんだ。ここを出たら週刊誌に全部ぶちまけてやる。お前らこそ逃げ切れると思うなよ。
おれはタオルの男を睨みつけた。
「あなたがそれを必要としなくなったとき、そこにありますよ」
男は相変わらず穏やかな顔でそう言った。
おれはこいつを殴り飛ばしてやりたくなった。罪悪感などひとかけらも湧かないだろう。声のトーン、口調、表情、佇まい――そのすべてが人間の皮を被った別の生き物のように感じさせてくるのだ。憤りの裏で、背筋を冷たいものが這い、肌が粟立った。
「いや、だから……わかりました」
おれは大きく息を吐き出した。
「おれの負けです。ええ、正直負けました、はい。お布施ですか? 宿泊費に上乗せして払います。だから、お願いです。ここから出してください……」
おれはそう言いながら、震える手でポケットから財布を取り出した。だが男は首を横に振り、そっと片手をかざした。
「お布施は払うものではありませんよ」
「は?」
「お礼や気持ちを示すものであって、対価として差し出すものではないのです」
口からただ空気が漏れた。次の瞬間、絶叫が喉の奥から飛び出しそうになったが、おれは歯を食いしばり、かろうじて押し殺した。代わりに掠れた声で訊ねた。
「じゃあ、この迷路から抜けるには、どうすればいいんですか……?」
「抜けられません」
「いやいや、そんなはずはない……もう勘弁してくださいよ。何か方法があるんでしょう? 昨日の夜、ここの従業員が外へ出ていくのを見ましたよ」
「迷いをなくせば、抜けられます」
話が通じない。まるで馬鹿なAIと会話してる気分だ。おれは深いため息をつき、訊ねた。
「だから、その“迷いをなくす”ってのは、具体的にどうすりゃいいのか訊いてんだよ!」
「入信することです」
やっぱりな、とは口にしなかった。声に出す気力も残っていなかった。ただ絶望感が込み上げ、頭のてっぺんから全身へと重い疲労がのしかかった。
おれは観念し、案内された一室に入った。そこで御台帳なるものに名前を記入し、朱肉に親指を押しつけた。続いて、お題目と呼ばれる経文を読み上げるよう指示された。
「爾時世尊、従三昧安詳而起、告舎利弗、諸仏智慧、甚深無量、感無量、其智慧門、難解難入、東京大学、一切声聞、馬耳念仏、辟支仏、所不能知、勃起不全、所以者何、如何様、仏曾親近、永遠仏在、百千万億、無限大数、無数諸仏、尽行諸仏、無量道法、道路交通法、勇猛精進、猪突猛進、名称普聞、晋三、成就甚深、常時監視、未曾有法、味噌汁、随宜所説ありけり、意趣難解、お手上げ万々歳、舎利弗、煮沸消毒、吾従成仏已来、依頼拒否、種種因縁、心霊手術、種種譬諭、広演言教、講演会で一稼ぎ、無数方便、支離滅裂、引導衆生、印度人、令離諸著、激不味料理離婚、所以者何、如来方便、便便便便、知見波羅蜜、蜂蜜食べたい、皆已具足、愚息です、舎利弗、Hot! Ho! 如来知見、治験募集、広大深遠、親衛隊、無量無碍、無課金無下。力、長州、無所畏、刑務所行き、禅定、洗浄、解脱、意識他界、三昧、寿司、深入無際、深刻負債額、成就一切、願い叶わず、未曾有法、みぞゆう、舎利弗、如来能種種分別、プラスチックゴミは火曜日、巧説諸法、処方箋、言辞柔軟、頑固上司、悦可衆心、神奈川出身、舎利弗、ほっほっほ、取要言之でごんす、無量無辺、無料無料、未曾有法、ウホウ、仏悉成就、醤油取ってください、止、死、舎利弗、またあなたですか、不須復説、所以者何、俺は馬鹿、仏所成就、第一希有、ドラフト一位、難解之法、南海大冒険、唯仏与仏、ぶつぶつうるせんだよ、乃能究尽、明日六時起き、諸法実相、首相、所謂諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等、ミュゼミュゼミュゼミュゼ本末転倒苦境倒産」
文字は脈絡なく続き、読めば読むほど脳がかき乱されるようだった。何周目かわからなくなった頃には、すでに支離滅裂な読み方になっていることは自覚していたが、やめられなかった。ただ口が動くままに読み上げ続け、舌は痺れ、頭は霞がかったようにぼんやりしていった。
そうしてもう何も考えられなくなった頃――三時間ほど経っただろうか――に、ようやく解放された。
そう、出られたのだ。外に。もしかすると、薬の効果が切れたのかもしれない。おれは無事に玄関を抜け、肺いっぱいに外気を吸い込んだ。陽の光はやけに眩しく、温かく、目に沁みた。不覚にも、神や仏の存在を信じたくなるほどだった。
だが、おれはまだ正気だった。勝った……勝ったのだ……!
帰ったら宗教トラブルに強い弁護士を探そう。それと、週刊誌にもタレ込む。
駅のホームで電車を待ちながら、そんなことを考えていると心が落ち着いてきた。
よかった。おれは洗脳なんかされてなかった……。そう思った。
「……あれ?」
だが電車に乗り、一駅先に着いたときだった。おれは妙なことに気づいた。
胸に違和感が走り、汗が止まらず、おれは膝を抱え込むように座席に縮こまり、震えながら次の駅を待った。
電車は走り続けていた。しかし、いつまで経っても“次”の駅には到着しなかった。
やがて電車がホームに滑り込んだ。ドアが開いた瞬間、吐き気に耐えかね、おれは転がるように降りた。目に飛び込んできたのは、やはり同じ駅舎であり、同じ柱、同じ看板だった。
「大丈夫ですか?」
「はい、いや……あ」
手をつき、嗚咽していると、優しげな声が降ってきた。顔を上げると、そこに立っていたのは白いタオルを巻いたあの男だった。
「な、なぜ……なぜ出られないんだ!」
叫び声は裏返り、涙が滲んだ。足が震え、汗が脇を伝い落ち、悪寒が肌をなぞった。小便が少し漏れたかもしれない。
男は穏やかな口調で、まるで天気でも話すように答えた。
「入信したからです」
「は……?」
「信者が増えれば、いずれは次の町へ行けるようになりますよ。私が入信した頃は、駅にすらたどり着けませんでした。さあ、まずご家族をこちらへ呼び寄せましょう。それから友人や――」
「は」と声が漏れた。それは疑問ではなく、乾いた笑いが勝手に喉を突き上げた、ただそれだけだった。
おれはよろよろと立ち上がり、線路のほうへ歩いた。
ぼんやりと正面を見据える。視界の端に、ホームへ入ってくる電車が見えた。
そして――おれは飛び降りた。
――あっ。
撥ねられる刹那、おれは悟った。
おれはこの人生を、何度も繰り返しているのだと。




