君の幸せを祈る歌②
「……えっ?」
池鶴の言葉を聞いた瞬間、時間が凍りついたように思えた。さざ波は聞こえなくなり、冷たい空気すらなにも感じない。
ふたりだけの世界が広がった。
「サトルくん、私を斬って」
「イヤだ……。イヤだ、そんなの!」
「私は不老不死なんだよ? 斬ってみてさ、なんともなかったら、それでいいの」
池鶴は微笑んでいた。斬られるという意味は、知っているハズなのに。鏡花旅楽をバクの口中にしまえばいいのに、パニックでそれを握る手を離せなかった。
「私のためだと思ってさ。ねっ?」
「ダメだ。そんなコトが、池鶴さんのためだなんて……」
「生まれ変わった故郷に、生まれ変わった私の居場所はない。ここで別れるのは、私は覚悟していたよ。サトルくんもでしょ?」
「だからって、こんなコト……」
サトルも感じていた。だから強く言えなかった。旅路には終わりがある。池鶴にとってその終着点で待つのは、孤独だ。
ならば、独りにさせなければいい。冷静を装いつつも半ば錯乱しながら、鼻息荒く言い放った。
「そうだッ。ウチの家族になろうよ。母さんも帰ってきていいって言ってたし。養子ってコトにしてさ。義理の姉か妹で。どう?」
「気持ちはうれしいけど、いずれ来る別れに耐えられないよ。たった数日だけでも、こんなにつらいのに」
「じ、じゃあッ! オレも、空妖に……」
「ダメだよ。サトルくんはニンゲンなんだから。友達もいて、家族もいるでしょ」
「いや、でも、オレは……」
なにも気の利いた言葉は浮かばなかった。池鶴と出会い、今に至るまでの日数は少ないが、交わした時間はなによりも濃かった。だからこそ、無力感に苛まれる。なにもできないのかと。
もはや、他人じゃない。大事な存在だ。
「オレにはできないよ。そんなカタチで別れたくない。忘れられない日々でありたい」
「……私だって、サトルくんと別れたくないよ」
池鶴が感情を出した。
「サトルくんと、ずっといたい。私の肉を食べさせて不老不死にして、ずっといっしょにいたいくらい。広い海の中でふたりきりでも、きっと寂しくないよ」
「池鶴さん……」
「でも、それはできないよね。帰る場所に帰るべきだよ」
「オレには、なにもできないのかな。池鶴さんの思いに少しでも応えたいんだ。……剣を向けるなんて、できないけれど」
池鶴は微笑みを絶やさない。ずっと暖かい笑顔をサトルに向けている。
「ねえ、キミはこの世界で生きたいと思う?」
吸い込まれそうなくらいのまっすぐな瞳を、サトルはしっかりと受け止める。その問いへの答えに、一点の曇りなんてない。
「うん。生きたい。この旅を通じてオレは改めて思ったんだ。平穏な日常は、祈りの旅路なんだって」
サトルは海を見つめた。波は穏やかで、水平線の向こうに小船が見える。
「いってきますって言ったら気をつけてって返ってきて、ただいまって帰ればおかえりって返ってくる。当たり前の景色だけど、それって、毎日無事を祈るコトなのかなって」
「祈る……」
「たとえ世界が理不尽に満ちていても、生きている限り、つらい過去でも忘れないために祈り続けたい」
「理不尽にいろんなものが壊れても、この世界は好き?」
「うん。目には見えないものこそ、きっと壊れないよ。たとえば歌も、祈りも、この想いも……。今までも、池鶴さんと歩んだ旅路も、オレの大事な宝物だよ」
「……サトルくん。そう言ってくれて、ありがとう。聞きたかったんだ、キミの想いを」
池鶴の声が震える。
「私も、生きるよ」
「よかった……。ありがとう」
サトルは鏡花旅楽を握る手を離した。
「好きな人の好きな世界で生きると思えば、独りでも怖くないから」
「好きって……オレを?」
「もう言わない。返事もいらない。困っちゃうもんね。……って、遅かった? 耳、真っ赤だよ」
「そういうところ!」
「んふふ。もっと赤くなった」
ひとしきり笑った後で、サトルの顔は曇る。
「それで……どこに行くの?」
「私は人魚だからね。海に行くよ。また追われたら、イヤだしね」
「冬の海は寒いよ?」
「へーきだよ。独りも怖くない。もう、充分暖かいから」
「だけど、やっぱりしばらくウチに……」
サトルはまた海を見つめた。冷たいであろう、その大きな海を。その中の孤独は計り知れない――と思ったら、さっき船が通った水平線に、なにかが跳ねたのが見えた。一回ではない、また跳ねた。
あれは間違いなくサカナのヒレだ。当たり前だ、海なのだから。だが、それより上は丸みを帯びたシルエットをしていた。そう、人の上半身のような――
「えッ!? ちょ、ちょっと!」
「どうしたの?」
「あれ人魚じゃないの!? ほら、さっき指笛吹いたから来たんだよ!」
「えっ? どこどこ?」
「もういっちょ、指笛! カモン!」
おかしなテンションになったサトルを尻目に、池鶴は再び指笛を吹く。すると、応えるようにそのシルエットは跳ねた。
「ほらっ、ほら! そうだ、ゼッタイそう!」
サトルも思わず小さく飛び跳ねた。池鶴を覚えている存在がいたのが、自分のコトのようにうれしかったからだ。
この世界で決して独りじゃなかったのだから、うれしいに決まってる。
「ほんとだ……。ビッキー、元気だったんだね」
「ビッキーって言うんだ?」
「誰にも言わないでって言われてたけど、サトルくんになら言ってもいいかな。昔はヤオビクニって言われてたんだって」
「なんか聞いたコトあるな……。まあいいや。とにかく、独りじゃないんだね。友だちがいてよかった!」
「うん!」
ふたりは顔を見合わせ笑いあって、また海を見つめた。もう人魚のシルエットは跳ねない。きっと、確認が取れたからだ。もしかしたら、近づいているのかもしれない。池鶴を迎えに来るために。
「……ねえ、サトルくん。私の最後のお願い、聞いてもらっていい?」
「なに?」
「私といっしょに歌って?」
「もちろん。曲は?」
池鶴は足下で眠っているランランを抱え、頭を撫でると、ランランは眠たそうにあくびをした。
「えっとね、『心の瞳』。歌える?」
「いいね。合唱曲の中じゃ、いちばん好きだったなあ」
「よかった。じゃあ、せーので歌おう。いくよ、せーのっ――」
風と波の伴奏に合わせ、ふたりは海に向かって歌い出す。その最中、サトルは感じた。
(思えば、誰に向けて歌っていたんだろう。卒業式とかの合唱曲って)
今の今まで考えたコトがなかった。ただそういう行事だからと流していた。けれど、今この時だけは断言できる。
このやさしい歌を池鶴のために、心を込めて歌っているのだと。歌い終えると、池鶴は満足そうに頷いた。
「――ありがとう。これで思い残すコトはないよ」
「……でも、いいの? ランランが全部吸っちゃったけど」
「うん、いいの」
「まあ、吐き出してもらえば――」
歌声を聴けると、そう言おうと思ったら、突然ランランが池鶴の腕から離れ、ゆっくりと、どんどん空へと昇っていく。
「ランラン、どこ行くんだ!?」
「親離れかな?」
「ちょっと待って、歌声だけでも!」
「サトルくん、見送ろうよ」
「でも……。いいの?」
池鶴は小さく頷く。そうしている間にも、ランランは空へ昇り、ついには雲の色と同化して見えなくなった。
「私には、歌ったコトが大事なんだ。……だけど、サトルくんの上手な歌声も聴きたかったかも」
「オレがヘタなの、わかってるクセに。そのぶん心は込めたけどね」
「んふふ。私もだよ」
「どんなハーモニーだったか、知っているのはランランだけか。ひとり占めしちゃって」
「ランランらしいね」
すぐそばで、ボチャンと大きなサカナが跳ねたような音がした。きっと、お迎えだ。池鶴は波打ち際まで歩み寄り、靴を脱いで素足で波に触れた。
「……ねえ、またここに会いに来てくれる?」
「うん」
悲しくなってしまい、言葉が出てこない。
「忘れないでね。約束も、私のコトも」
「忘れないよ、いつまでも」
サトルと池鶴は抱き合った。その感触を通じて、別れる時はすぐと理解できた。
身体を離すと、池鶴はおもむろにズボンのホックを外す。
「下、脱ぐからさ。あっち向いててね。ゼッタイだよ」
「はいはい」
目を離せば、池鶴は姿を消す。サトルは名残惜しく、高くそびえる防波堤を見つめた。
「またね、サトルくん――」
「またね、池鶴さん」
振り向くと、そこには誰もいなかった。ズボンすら残っていない。まるで夢の出来事のようだ。寂しく海を眺めていると、手前の砂浜に光るものを見つけた。
「……残してくれたんだ」
それは極彩色に輝くウロコだった。永遠にきらめく続けるような美しさだ。ジッと見つめ、歌ったのを思い出しながら、声を絞り出す。
「絆、か。いい言葉だな」
小さくつぶやいて、石巻の街を後にした。




