第12話 聖域にて、祈る
王都を発ち魔族領での旅をする準備は、すでにあらかた整っていた。
装備。
食料。
転移先の目星。
境界周辺の依頼の傾向。
セルマに頼むべき細々とした手続き。
そうした実務だけを並べれば、もう明日にでも出立できる。
だが、どのような状況にあっても、節目というものは大切にすべきだと平助は考えていた。
そして、彼にとってその場面に際して行うべき最も重要な儀式の第一に来るのは、女神フィレイアへの祈りである。
もちろん、日々の祈りを欠かしたことはない。
いや、欠かさないどころではない。
何かあるたびに報告にかこつけて祈り散らかすものだから、その経緯を辿ってみれば、おそらく悍ましい数の節目で埋め尽くされていることだろう。
だが、旅立ち前は別格だ。
しばらくこの地を離れる。
無論、転移魔法を用いればいつでも訪れることはできる。
しかし、来れなくなるという不測の事態が絶対にないとは言い切れない。
魔族領。
魔王。
その先にあるまだ見ぬ戦火や混乱を思えば、なおさらである。
胸が苦しくなる。
それほどまでに、彼女への思いは日に日に増していた。
この異世界へ来て十数年。
様々な出会いがあり、その分だけ魅力的な女性に幾度となく危険な目に遭わされてきた。
もちろん、その大半は平助が内心で自滅しているだけであり、相手側に何の落ち度もない。
だが、その度に彼の中にある強い芯――知識の女神フィレイアへの強い思いが、彼を踏みとどまらせてきたのである。
あの、気だるげな三白眼。
腰まで伸びた、淡く美しい銀灰色の髪。
驚くほど白い肌。
そのくせ恥ずかしくなるとすぐに赤くなり、愛らしい仕草の内へ隠れようとする。
必要なだけ、などと言い訳しながら、その実、全肯定と捉えかねない言葉を紡ぐ慎ましく柔らかな唇。
魅惑のジト目との美しい均衡を保つかの如き通った鼻筋。
驚いた時にほんの少しだけ広がる鼻腔。
これを本人に言ったらかなり気持ち悪がられるだろうが、平助は彼女を困らせた挙句、必要以上に酸素を取り込まんとひくつくその愛らしい反応さえも、つぶさに愛でていた。
平助を前にして、すぐにでも発したいであろう言葉を一度飲み込む癖のある、心配になるほどか細い喉元。
話しかけるタイミングを窺う気配を漂わせながら、わずかに窄めて揺らす肩。
その延長にある、細くしなやかな腕。
不器用ながらも丁寧に調理と向き合う時にだけ、長い袖の内から剥き出しになるそれを見て、何度昇天しかけたことか。
そして何より、あらゆる蔵書に優しく、ときに大胆に触れる細い指先。
人の個性は、末端を見るほどよく分かるということを体現していた。
本を扱う時に、長年の経験で熟知された本の要点を自然と押さえ、当然のように慈しむ指先。
不器用ながらも、慣れない食材にさえ丁寧に触れる指先。
知識が偏るからと言い訳しながら用意した茶器を持ち、受け取るこちらの指に触れてしまった時に驚くほど跳ねる指先。
その後も、震えを誤魔化すように力を込めて、袖の下で少し白みを増す指先。
ああ、好きだ。
愛している。
装飾は少ないが、彼女の美しさを引き出すには十分なドレス。
それを慎ましく押し上げる二つのもの。
唇を重ねた際に感じた温もりと感触を、今でも鮮烈に覚えている。
驚くほど細く華奢な腰つき。
座る時には気だるげな所作と、大事な本を一心に支え、立ち歩く時には、長年の積み重ねによって鍛えられたやや大きな臀部とともに稼働する魅惑の要。
身体の線を隠すように仕立てられたドレスの内に隠れた脚部。見ずとも分かる。
あまりにも魅力的なそれらを総じて支え続ける脚は細く、かといってか弱いばかりでなく、支え続けてきただけの力強さを兼ね備えている。
仮に長時間の読書と長年の運動不足により、若干むくんでいても一向に構わない。
いや、やはり構いたい。
それさえも十分魅力ではあるのだが、見つけ次第に全身全霊をもって揉み解して差し上げたい。
そして、これからも永遠に続いていく彼女の健康管理を共に徹底していきたい。
というか単純に観たい。触れたい。
すべてが好きだ。
全力で愛している。
そうして彼女を思うことで、平助はこれまでの数々の困難を乗り越えてきたのである。
*
日々の日課である彼女への報告会は、座禅のうちにも開催される。
だが、彼女を称える聖地で行うそれもまた格別だった。
今日は初めて、イルナと共にそこを訪れる。
女神フィレイアへは、これまで数えきれないほど彼女の良さについて語ってきた。
だが、こうして二人並んで祈ることができるというのも、どこか感慨深い。
イルナはイルナで、学院祭の時にこの聖教会を紹介されて以来、ほとんど毎日通っているようだった。
もちろん、そこには家族分の食糧を確保するためという現実的な目的もなくはない。
だが、それだけではない。
最も敬愛するアルトと、同じ女神へ祈ることができる。
それ自体が彼女にとって大きな喜びだった。
始めこそ、その喜びに突き動かされていた感はある。
だが、今では立派に女神フィレイアの慈悲そのものに感謝し、自然とその慈悲に報いることのできる人になろうと思えるまでに成長している。
教会の中は相変わらず慎ましい。
豪奢ではない。
だが、すでに聖域と呼ぶにふさわしい空気がある。
それは、長年ここで祈ってきた教徒たちの息づかいだけによるものではない。
十年前、大量に流れ着いた信徒たち。
元奴隷。
元娼婦。
行き場のない子どもたち。
そして、アルトが皮切りとなって立ち上げた、酪農を中心とした自立のための事業。
いまやこの教会は、聖都の援助に寄りかかるだけでなく、自らの手で立つことができる場になっていた。
だからこそ、よその地から訪れた者にも分け隔てなく手を差し伸べることができる。
そんな聖域の中で、アルトとイルナの横には、当然のようにもう一人、地に膝をつき、一心に祈る女性の姿があった。
リディア・セインクロス。
彼女もまた、アルトとは少し別方向で、女神フィレイアを信奉する過激派になりつつある。
それは、事あるごとに教会を訪れるアルトと幾度となく意見を交わし、その熱に当てられ続けた結果でもあった。
いや、もともと彼女の内には、平助に似た素養が備わっていたのだ。
アルトとの接触によって、その傾向が一気に加速したに過ぎない。
リディアは、本気でフィレイアに祈っているだけのことはあり、信仰を誇示したり、人に押しつけたりすることは決してない。
しかし、ひとたびこの聖教会の敷居を跨いだが最後。
未来の信者にごく自然なムーブで近づき、持ち前の気品と他者を慈しむ天性によって、じわじわと時間をかけて引き込んでいくのである。
もちろん本人にその自覚はない。
彼女は心の底から、本心でその人を思って提案しているだけなのだ。
世情に関する日常会話から自然と、女神フィレイアのような女性を引き合いに出し、次第に彼女の魅力を延々と語り出す。
そしてもちろん、それを受け取る未来の信者のことも立てる。
お疲れでしょうに。
その髪飾り素敵ですわ。
目元が可愛くていらっしゃる。
通りで所作が美しいですわ。
――まるで平助の生き写しである。
リディアは、ふとした時、その点に気づいてしまうことがある。
この感じ、どこかで――ああ、アルトさんでしたわ。
そうして不意に頬を染め、自然と彼の心に近づけていることに喜びを覚え、それでも彼の一番は女神フィレイアであることに強く胸を締め付けられ、また、それさえも歓びへ変えていく。
まさに彼女自身が、尊死の永久機関となっていた。
イルナが一通り祈りを終え、ふと横に目を向ける。
やはりと言うべきか、いつもの変わったお姉さんが膝をつき、熱心に祈りを捧げていた。
――こうしてお二人と共に祈りを捧げる機会をお与えくださり、ありがとうございます女神フィレイア様。祈りの後、もちろんいつもの通り、イルナさんの頭や頬、背中、腕、尻尾などを撫で、血行を良くして差し上げますわ。そして叶うことならアルトさんにも――ああ、私ったら。しかし、フィレイア様。あなた様の思い人であられる彼と、少しばかりお話をすることをお許しください。ああ、そんな拗ねないで下さいまし。本当に愛らしくいらっしゃいます、フィレイア様。お顔を隠したくて御手を上げながら、それでもその御心を悟られまいと止められる御姿……。ああ、なんて愛らしい……。
リディアの心の内は、もうかなり出来上がっていた。
そして、そんな気配を、イルナを挟みながら感じ取っている男もまた、その空気さえ良いと感慨に耽っていた。
おお、女神フィレイアよ。
こうして尊みの連鎖をお創りになられるあなたの深淵なる御心には、つくづく感服いたしております。
どうか、もうしばらくこうして感じ入る機会をお許しください。
この二人の内心だけを見れば、ここはかなり危険な場と言えなくもない。
しかし、傍から見れば、二人と、そこに挟まれながら可憐に祈り直す少女の姿は、まさに信者の鑑そのものだった。
あの三方はきっと、名の知れた信者に違いない。
我らも見習い、祈り、実践せねば。
聖教会を疎らに訪れていた教徒も、教会で下働きをする元奴隷の子どもたちも、三人の後ろに回り、熱心に女神像へ祈り始める。
アルトの祈りにより、すでに聖域と化していた聖教会内部は、こうして内実ともに、聖都に置かれた本教会にも劣らぬ様相を呈していた。
*
「リディアお姉ちゃん! おそとであそぼう!」
蟀谷のあたりから二本の巻いた角がちょこんと覗いた少女が、祈りの場に飛び込んできた。
有角種の少女、コレット。
他教会であれば、この状況は最悪の極みだっただろう。
人族の少女なら厳しく叱責されるだけで済んだとしても、それが魔族ならば話は別だ。
人族社会における魔族は、いまだ大変に肩身の狭い思いをしている。
人族対魔族。
創成以来より続くといわれるこの構造は、そう簡単に崩れない。
だが、本当にそうか。
この幼気な顔を見ろ。
無邪気な仕草を、声を観よ。
角があるから何だというのか。
ただ無性に可愛らしい。それだけで十分ではないか。
「まぁコレットったら。お祈りの時は静かにしなくてはなりませんよ」
そう言いながらも、リディアの声音は少しも厳しくない。
「お姉ちゃん、くすぐったいよぉ」
優しく窘めるリディアに、なおも遊びへ急かす少女は抱き留められ、仕置きとばかりに耳や首筋をこれでもかと撫でられる。
くすぐったそうにはしゃぐその姿は、もはや天使そのものだった。
この光景は、いまや教会の一つの名物になりつつある。
少女は勝手を知ったるように何度も懲りずにリディアにちょっかいをかける。信徒たちは一度その愛らしい光景を見てしまえば、足しげく通うようになる。
この教会には、種族という境界がない。
ここへ来れば、誰の目も気にせず魔族や獣人たちと話し、笑い合うことができる。
そんな認識が、王都の間で微かに浸透しつつあった。
「では、次はイルナさんの番ですね」
「……は、え、はい……?」
コレットにまで促され、リディアの腕に収まるイルナ。
聖教会恒例、『イルナなでなでタイム』の開始である。
「おお……あれが噂に名高い……!」
「先の少女も中々だが、これはこれで……!」
「ほう……! あの姉ちゃんもやりよるわ……!」
「本当に気持ちよさそうだわ……!」
「是非とも代わりたいものだわ……!」
教会の片隅に配置された椅子の周りには、慎ましくも逞しい信徒や、噂を聞きつけた紳士淑女たちがいつの間にか集まり始めていた。
パン屋に鍛冶屋の老兄弟、雑貨屋のお姉さんたち。
中には町人に扮した貴族の姿まである。
リディアの手つきは実に丁寧だった。
頭。
頬。
背中。
腕。
尻尾。
慈しむように、ほぐし、撫で、温めていく。
イルナは始め、緊張で肩を縮めていた。
だが、じきに全身から力が抜けていく。
耳が揺れ、尻尾がだらしなく左右に流れ始める。
ほとんど全身をくまなく撫でられ続けた頃には、飛びかけていた意識をどうにか繋ぐだけで精一杯だった。
「さて、いかがでしたか?」
「ほぁ……え、は、はい! 気持ちよかったです!」
イルナのあまりに素直な感想に、周囲の者たちはそれぞれ妙な満足を覚えながら散っていく。
「ふぅ……さ、仕事に戻るかね!」
「いやぁ、午後もいい物ができそうだな兄貴!」
「たりめぇよ! リディアさんとイルナちゃんには感謝だな!」
「眼福でしたわ……!」
「当然よ……! 私ったら何故か涙まで出てきて……!」
教会に訪れた人々は、各々満足げな顔のまま、あるべき場所へと戻っていく。
再び慎ましい静寂が訪れた。
「よかったな、イルナ」
「アルトさんっ……!」
顔を真っ赤にしたまま俯くイルナに、意味深に頷いてみせるアルト。
その背後から、再び抱き寄せるリディア。
「おにいちゃんもあそぶ?」
コレットが、まるで本能のままにアルトの足にしがみつく。
上目遣い。
無意識の総攻撃である。
「また今度ね」
アルトは屈んで目線を合わせた。
「いまはリディアお姉さんとお話をするんだ」
「おはなしのあとにあそぶ?」
「まぁ……! コレットったら……」
リディアは、アルトを離すまいとする女としての本能を発揮する少女の強かさに歓喜しつつ、同時にそれが羨ましくて仕方なかった。
けれど同時に、出会った頃には人族への恐怖で委縮してばかりだった少女が、ここまで心を開いてくれたことに、心の底から喜びもしていた。
しかも相手は、初対面同然のアルトだ。
人族という壁を一気に乗り越え、寄り添うことができる。
ここに、人族と魔族のあるべき姿を見た気がした。
*
コレットが、気を利かせたイルナと共に外へ出ていったのを見計らい、リディアが改めてアルトに向き直った。
「アルトさん」
神妙な面持ちだった。
アルトもすぐに空気を切り替える。
「コレットも、流れてきたんだな」
「はい」
リディアは頷く。
「近頃、以前に増して暴徒が激化し、魔族領との境にある村々が被害に遭っています」
人族領と魔族領との境にある村々の中には、比較的人族と友好的な魔族と、魔族に寛容な人族とが共存する村も少なくなかった。
昔から、領地の境で小さな諍いが起こることはあった。
それは珍しいことではない。
だが、ここ最近のそれは様子が違う。
頻発している。
しかも拡大している。
人種について寛容だった村までが、種族の違いで揉め、争い、その勢いのまま暴徒化した村人たちが周辺の村々へ攻め込み、盗賊まがいの暴動を起こしているらしい。
コレットは、その流れの中で両親を失い、故郷を追われ、王都まで流れ着いたのだ。
胸が苦しくなる。
けれど、こうしてリディアのような人族に優しさを向けられ、再生している姿を見ると、それでもなお熱いものが込み上げてくる。
「守らねばな」
アルトが言う。
「ええ」
リディアの返答は迷いがない。
「誇りにかけましても」
アルトは、学院時よりさらに逞しく、美しくなったリディアを改めて頼もしいと思った。
彼女がいれば、王都全体とは言えないまでも、ひとまずこの教会の安全は確保されるだろう。
アルトが王都中に過剰なまでに張った結界魔法も当然健在ではあるが、万が一ということもある。
そうした時、心から信頼できる味方がいてくれることは、やはり良いものだった。
「そうでしたわ」
ふと、リディアの顔にいつもの柔らかさが戻る。
「リュシアンさんのお話は、もうお聞きになりましたか?」
「いや、まったく」
リディアは、王都中でも話題に持ち切りのリュシアンの活躍を、そこに大きく寄与した当の本人がまるで知らないことに、呆れるより先に感心した。
この人は、本当に外聞を気にしない。
ただ一心に、目の前のやるべきことを実践しているのだ。
「リュシアンさんの宮廷魔法師としての活躍ぶりは、王都中でも有名ですわ」
もちろん、その美貌も込みでの話である。
聞けば、リュシアンは持ち前の魔法学の知識と技術を遺憾なく発揮し、採用からわずか半年足らずで、王都の魔法技術研究機関各所から意見を求められるまでの存在になっていたらしい。
「リュシアンさんは、王都全体に展開された防御魔法の再構築を提案され、それが見事、予想を遥かに上回る成果を残されたとのことです」
「ああ――」
アルトはそこでようやく腑に落ちた。
サルメア村へ出る前と後で、王都全体に展開された防御魔法の様相が明らかに変わっていたことに気づいてはいた。
改善の兆候があったので放置していたのだが、結果として、以前の五倍以上の強度と持続性を兼ね備えた強固な防御魔法に変わっていたらしい。
それが凄まじい偉業であることは、平助でも理解できる。
だが、まさかリュシアンが直接かかわっているとは、完全に盲点だった。
これは本格的に祝いに行かねばならない。
「私も彼に一言だけでもと思い訪ねましたが」
リディアが続ける。
「あまりにもご多忙で、お声をかける遑もありませんでした」
「そうだったのか……」
つまり、ほとぼりが冷めるまで、彼との面会はお預けということだ。
アルトは少しだけ寂しく思った。
同時に、誇らしくも思う。
「ところで」
不意にアルトの声音が変わった。
「こちらも話しておきたいことがある」
「……はい」
リディアは、別の期待が微かに胸をよぎるのを押し殺し、身構えた。
「いつかは分からない」
「……」
「しかし、そう遠くないうちに、東の魔王軍がここを目指して侵攻を始める」
「っ!?」
リディアの瞳が大きく開く。
なぜそんな重要なことを、自分に。
という疑問が一瞬だけ浮かぶ。
しかし、それでこそアルトだ、とも同時に理解してしまう。
「アルトさん。そのことを、王都各所へ報告は――」
「いや、まだしていない」
アルトは首を振った。
「でも、東の魔王から直接聞いたことだから、確かな情報ではある」
「東の、魔王から……ですか?」
一瞬だけ、あり得ないと思いかける。
だが、そのあり得ないことを平然と持ち込んでくるのがアルトだ。
リディアの全身が、その事実を先に理解していた。
彼は、本当に東の魔王と相まみえてしまっている。
「それならすぐにでも――!」
「待ってくれ」
アルトが静かに制した。
「周辺地域の情勢のこともある」
「……」
「さらに混乱を招くことは、できるだけ避けたい」
暴徒化した人族や魔族たちの動きが、魔王軍侵攻の混乱に乗じて激化するかもしれない。
しかも、魔王本人は侵攻を本気で望んではいない。
ならば、いたずらに上層を動かすより、自分のような自由な立場の人間が動くべき局面でもある。
それが勇者としての責務だ、とアルトは考えていた。
「いまはまだ」
彼は言った。
「自分に任せてほしい」
リディアの中で、いくつもの意見が込み上げる。
危険すぎる。
それを一人で背負う必要があるのか。
本当に王都へ知らせなくていいのか。
だが、その全部を飲み込んだ。
アルトの強さを、彼女は十分に知っている。
そして、彼がこの状況でただ無策に突っ走る男でもないことも知っている。
だから、はっきり頷いた。
「リディアには」
アルトは少しだけ目を和らげる。
「万が一の時のために、知っておいてもらいたかった」
その瞬間、リディアは思わず両手で顔を覆いかけた。
全幅の信頼。
これだけの重要な情報を自分に明かすばかりか、そのアルトに限ってあり得ない『万が一』の有事の際の要として、自身を頼ってくれている。
その事実が一気に押し寄せ、リディアの身も心も悦びに打ち震えた。
「リディア・セインクロス」
彼女はほとんど反射で言った。
「命に代えましても、この聖地を守り切ってみせますわ!」
「ありがとう」
アルトはそう言ってから、少し考えるように付け足す。
「でも、一応リディアにも結界を張っておくよ」
「……」
「だから、ここは『命大事に』で」
そして、さらりと最後の一撃を放つ。
「帰った時にリディアがいないと、やっぱり寂しいよ」
リディアは、その一言で完膚なきまでに落ちた。
全身の骨が抜けるような感覚。
心臓が跳ねるとか、そういう生易しいものではない。
頭の先から足先まで一気に熱が走り、視界の端が白む。
それを支えるように、アルトが寄る。
「大丈夫か?」
そこでさらに回復魔法を重ねた。
善意だった。
百パーセントの善意である。
だが、常人にとって強すぎるそれは、リディアにとってはもはや濃厚な前戯に近い作用を持っていた。
回復はする。
心の安定を図る作用もある。
しかし今この状況において、アルトからかけられる魔法は、それだけで駄目なのだ。
しかも悪いことに、こういう時に限ってアルトの善意は空回りする。
飛んでしまえば楽になるものを、回復によって意識そのものが引き戻される。
その結果、過剰な快感だけが慎ましい身心を容赦なく苛み続ける。
「あ……アルト、さ……」
リディアの声が震える。
「もう、ゆるして……!」
「リディア!?」
アルトは本気で狼狽した。
「いったいどうして――」
力なく全身を弛緩させるリディアを椅子に寝かせた時、ふとした拍子にアルトは彼女の聖装の一部に触れてしまった。
「濡れている……!」
まさかこれは――新手の呪詛か!?
仰向けに寝かされ、全身を震わせるリディアの聖装は、彼女の優しさと天性の慈悲性を体現するが如き美しい起伏を強調し、やわらかな二つのものと下腹部の形を露わにしていた。
その一部。
つまり、股間が濡れている。
この状況で、である。
これはもう新手の呪詛を疑わざるを得ない。
「イルナ!」
アルトが叫ぶ。
「すぐに来てくれ!」
「あの……! もう、来てます!」
イルナはコレットを他の信徒に任せ、すでに駆け戻ってきていた。
彼女は状況を見るなり、一瞬で理解した。
理解してしまった。
そして、見事な手際で、なおも回復魔法をかけ続けようとするアルトの手を掴む。
「リディアさんは、大丈夫です……!」
「し、しかし、イルナ!」
「大丈夫です!」
イルナにしては珍しく、かなり強い口調だった。
「大丈夫、なんです、アルトさん……!」
自らの身体でアルトの視界を遮るように立つ。
その様子に、アルトはようやく我に返った。
自分がしでかしたかもしれない事態が、じわじわ頭に追いついてくる。
「……すまん、リディア」
「……っ……っ……」
リディアは、もう全身を小さく痙攣させ、薄い呼気を漏らすだけだった。
完全に失神している。
アルトは、まず正常な呼吸をしていることを確認し、ようやく本気で安堵した。
「どうしたらいいと思う、イルナ?」
「……取りあえず、様子を見ましょう」
イルナは少しだけ呆れつつ言う。
「それから、一緒に謝りましょう」
「……すまん」
いつになく殊勝なアルトの態度に、イルナは思わず笑いそうになる。
だが、リディアのどこか満ちたような穏やかな寝顔を見て、忙しなく尻尾を揺らした。
その一部始終を見ていた、かつてアルトに助けられた元奴隷や元娼婦の信徒たちは、色々な意味で全身を震わせていた。
*
少し時間を置いた後、リディアはどうにか落ち着きを取り戻した。
「もう大丈夫ですから」
顔はまだだいぶ上気している。
下腹部を押さえる仕草もどこか艶めかしく見える。
だが、声そのものはいつもの柔らかさを保っていた。
「本当にすまなかった……!」
アルトは何度も頭を下げる。
リディアは、そんな彼を何でもないように許した。
「気にしないでください」
一拍。
「それに、しばしの別れのご挨拶としては、この上ないものでしたので」
そのどこか満足げな表情に、アルトはようやく胸を撫で下ろす。
「もう、行かれるのですね」
「うん」
アルトは頷く。
「後のことは任せるよ」
その一言に、余韻に浸っていたリディアの全身が、また微かに反応した。
「はい」
彼女は静かに、けれど確かに答える。
「どうかお二人の旅路に、女神のご加護がありますように」
その言葉に呼応するかのように、教会の窓から燦然とした日差しが差し込んだ。
女神フィレイアが、慎ましくも盛大に祝福しているかのような光だった。
*
教会を後にした二人は、来た時よりもどこか満たされた気分のまま、冒険者ギルドへ向かった。
旅立つ前にセルマに挨拶をしておきたかった。
それに加え、魔族領にできるだけ近い周辺情報の収集もしておきたい。
境界付近からの依頼があれば、それも受けておきたい。
冒険者ギルドへ寄せられる依頼とは、つまり世情を映し出す鏡でもある。
その傾向を見るだけで、その地域がどのような状況にあるかをかなり読める。
報酬額。
依頼書の書き口。
書かれた文や文字そのものの乱れ方。
文面上の言葉遣い。
そこから、依頼主の性格や背後の人脈まで辿ることすらできる。
アルトはそれらを読み取るつもりでいた。
東の魔族領へ向かう旅は、もう目前まで来ている。
だがその前に、祈るべき相手に祈り、託すべき相手へ託し、守るべき場所の輪郭をもう一度確かめることができた。
それだけで、この日の祈りには十分すぎる意味があった。




