第6話 サルメア村を発つ日
最低ランクの依頼だったはずだ。
薬草採取。
灰牙ネズミの討伐。
王都の冒険者ギルドで受理されるかどうかすら怪しい、字を習いたての少女たちが筆記試験のために書いた雑な依頼書。
報酬は曖昧。
場所の指定も雑。
依頼内容は一応最低ランク相当。
そのはずだった。
だが、気づけば季節が変わっていた。
夏の名残が落ち、森の色が深まり、やがて葉の端が赤く染まり始める。
朝の空気も、村の夜の火のそばの匂いも、最初にここへ来た頃とはまるで違っている。
半年。
それだけの時間が経っていた。
アルトがそれに気づいたのは、村の外れのセンバ林――いや、もはや『林』というより管理された資材区画に近くなった一帯で、ふと手の甲へ落ちた葉が紅く色づいていたからだった。
いつの間にか、本当に長くいた。
そして、その時間のぶんだけ、サルメア村は変わっていた。
村の入り口近くには、以前よりずっと整った露店の列ができている。
ただ売るだけではない。
並べ方に工夫がある。
品の分類があり、呼び込みの声にも、誰へ何を勧めるべきかの意識が見える。
センバを使った籠や敷物、編み物や小物。
簡素だが丈夫な履物。
乾かして束ねた燃料用のセンバ材。
そして、灰牙ネズミの肉を使った料理や加工品。
カツレツ。
シンプルなステーキ。
サザを利かせた干し肉。
ネギに似た野菜のソースを絡めた串焼き。
村の女たちが手によりをかけて作るそれらは、いまや旅人や商人たちの間でかなり評判になっていた。
まだ『名物』と呼ぶには早い。
だが、『あの村へ寄れば面白いものがある』くらいの認識は、周辺へ確実に広がっている。
灰牙ネズミの飼育も、もはや討伐依頼の延長ではなかった。
厩舎に似せた囲い。
餌の管理。
気性の穏やかな個体と、どうしても野性が抜けない個体の選別。
若い個体の扱い方。
繁殖の速度と、餌としてのセンバ消費量の管理。
全部が村の事業の一つとして回り始めていた。
厩舎の前では、村の子どもたちが灰牙ネズミの世話を手伝うようになっている。
もちろん遊び半分ではある。
だが、遊び半分だからこそ覚えることもある。
灰牙ネズミの子どもに細かくしたセンバを与えているのは、最初にイルナの手を引いて村長のもとまで案内した、あの五歳くらいの猫耳の少女だった。
小さな手で、丁寧に。
でも本人はただ楽しいのだろう、くすぐったそうに笑いながら、子ネズミに葉束を差し出している。
アルトはその横へしゃがみ、何気なく少女の頭を撫でた。
少女は一瞬だけ耳をぴんと立てたあと、本当に嬉しそうにはしゃいだ。
「もっとなでて!」
無邪気だ。
かなり良い。
そう思いながらアルトがもう一度頭に手を置くと、その様子を厩舎の陰からじっと見ている気配があった。
村長、サルメアだ。
完全に隠密のつもりらしい。
だがアルトには無意味だった。
気配も、匂いも、視線の熱量も、あまりにも分かりやすすぎる。
「そんなところで何してるんですか」
声をかけると、厩舎の陰からサルメアが顔を出した。
見つかった驚きと、それを上回る『気づいてもらえた嬉しさ』が、表情にだいぶ出ている。
この頃には、彼女はアルトに対する気持ちをほとんど隠さなくなっていた。
初対面の時点からひどく熱かった。
だが半年も経てば、もう熱いだけでは済まない。
村公認。
いや、半ば村ぐるみで『村長とアルトの交際』と『子孫繁栄』を願われている始末だった。
サルメア自身も、もはやそれを否定しない。
むしろ、「そうだが?」くらいの顔でいる。
「見てたのさ」
と、照れ隠しにもならない笑みを浮かべる。
「あんた、子どもにゃ優しいからねぇ」
「子どもは可愛いですね」
「私にも、もう少し優しくしてくれていいんだよぉ?」
「してるつもりです」
「それは『別の形で』ってやつだろう?」
この半年で、何度その文句を使ったか知れない。
物陰に引っ張り込まれるたび。
作業の終わりに腕に絡まれるたび。
夜、わざわざ湯浴み上がりの匂いを濃くまとって訪ねてこられるたび。
アルトは丁重に手を取り、低い声で「別の形で」と囁いては逃げてきた。
そのたびに、サルメアの恋心と発情にさらに火がつくのだから始末が悪い。
だが、その厄介さごと含めて、アルトもサルメアを嫌いにはなれなかった。
好きだ、と言ってしまっていいのかは分からない。
だが、情は移っている。
それは否定できなかった。
そして、それが危ういことも。
この村に来てから、アルトは実のところ何度も考えていた。
このまま居続けたらどうなるか。
サルメアと、もっと深く関係を持つ未来。
村の中で自分の立場が固定される未来。
イルナと一緒に、ここを何度も行き来するうちに、勇者としての旅の方が『外』になっていく未来。
あり得なくはない。
むしろ、かなり自然にそうなりかねない。
そして、それはたぶん、幸福だ。
幸福だが、ここで留まるわけにはいかない。
アルトは勇者として旅に出なければならない。
未来視の残滓に焼かれたまま、それでも行くしかない。
この村で得た穏やかな満足感に、身体が少し馴染み始めているからこそ、なおさら危ない。
だから、そろそろ離れなければならない。
その判断は、ずっと胸の奥にあった。
灰牙ネズミの飼育の様子を眺めるアルトの横で、サルメアは最初、機嫌よさそうに尻尾を揺らしていた。
だが、次に告げられた言葉で、その尻尾はぴたりと止まる。
「そろそろ」
アルトは言った。
「村を離れようと思う」
一瞬で、分かりやすく肩が落ちた。
耳も。
尻尾も。
さっきまでの余裕や色気が、嘘みたいにしぼむ。
その落ち込み方があまりに露骨で、アルトは少しだけ胸が痛くなった。
「……そうかい」
サルメアは最初、それだけ言った。
だが彼女は、そこで泣き崩れるような女ではない。
むしろ、泣きたくなる時ほど笑うことを知っている。
元娼婦たちを束ね、村を立ち上げ、生き延びてきた女だ。
伴侶を気取るなら、見送るのも務めのうちだと、自分を奮い立たせるくらいのことはする。
その場で、人知れず涙をひとつだけ飲み込む。
それから、出会った頃の笑みに近い顔を作った。
「とはいえ」
団扇も持っていないのに、少し手をひらつかせる。
「すぐってわけでもないんだろう?」
「……」
「もうしばらくは、いてもいいじゃないか」
その声音は軽い。
だが、頭の中ではまるで別のことを考えているのがアルトには透けて見える。
その間に、どうにかしてでも子種をもらう。
あるいは既成事実でも作る。
最低でも肌の記憶くらいは刻ませる。
そのくらいは本気で巡らせている顔だ。
アルトは、わずかに目を細める。
危ない。
やはり危ない。
「ギルドへの報告もある」
だから、できるだけもっともらしい理由を口にした。
「一定期間、報告のない依頼は失敗扱いになる」
それは事実でもある。
ただし、真実の全部ではない。
これ以上いると、本当に離れられなくなる。
情が移ったことも。
サルメアとの間に、妙に現実味を帯びた未来が見え始めていることも含めて。
だから行く。
サルメアは、その言い訳が半分は本当で、半分は別の意味を持っていることを理解していた気がする。
だが、そこで食い下がるほど愚かでもなかった。
「……そうかい」
今度の返事は、最初のものより少しだけ静かだった。
「なら、仕方ないねぇ」
その頃、イルナは離れた建物で、村の女や子どもたちと一緒にセンバを使った編み物をしていた。
アルトは念話で彼女に伝える。
(そろそろ出る)
イルナの手が、一瞬止まる。
(……はい)
(準備しろ)
(……わかりました)
イルナはこの半年で、アルトの念話にもだいぶ慣れた。
以前ならいちいち驚いていたが、いまは返す呼吸も自然だ。
村では、ちょうど冬の気配が近づいていた。
あと数週間もすれば、本格的な寒さが来る。
アルトは走れば問題ない。
だが、普通の人間にとっては季節の変わり目の移動はそれなりに重い意味を持つ。
村人たちは、アルトとイルナが数日かけてここまで来たものと思い込んでいる。
実際にはアルトが抱えて走ったからだいぶ無茶な時間で着いているのだが、そんなことを知らない彼らからすれば、冬直前の旅立ちは本気で心配の対象だった。
だから本気で引き止めることもできない。
引き止めれば、かえって命に関わる。
その理屈くらいは、誰もが分かっている。
葉の落ち始めた森。
紅葉の混じる木々。
その中に開けたサルメア村。
話を聞きつけた村人たちが、総出で見送りに出てきた。
若者。
子ども。
年寄り。
女たち。
侍女たち。
狩り班も。
編み物班も。
解体班も。
センバを裂いていた老人たちまで杖をついて出てくる。
村人の一人が、ふとアルトたちのそばに馬がいないことに気づいた。
「馬を!」
と、ほとんど反射で走り出そうとする。
アルトはそれを優しく止めた。
「いらない」
「で、でも……!」
「大丈夫」
この半年で、村人たちはアルトの異常な力の一端をそれなりに見ている。
だから本当は分かっている。
彼に余計な足は不要だと。
それでも、動いてしまうのだ。
そういうところが、本当に良い村だとアルトは思う。
皆が、努めて明るく礼を言い、口々に応援の言葉を叫ぶ。
だが涙は隠せない。
誰の顔を見ても、もうかなりぎりぎりだ。
これはまずい、とアルトは思った。
湿っぽくなる。
このままでは、別れそのものに呑まれる。
それはあまり好まない。
だからアルトは、村人たちの先頭に立つ女性を見た。
今にも泣き出しそうな顔をしている、村人代表。
つまり村長サルメアだ。
「サルメア」
名を呼ぶ。
呼ばれたサルメアは、もうそれだけでだいぶ危ない顔になっていた。
泣きそうなのを、どうにか笑いへ変えている。
アルトは二通の書状を差し出した。
「……何だい、これは」
「読むか」
「読めるに決まってるだろう?」
そこで少しだけ、いつもの調子が戻る。
一通目。
王家からの書状。
この村周辺を、正式にヴァレイン家の領地として認める内容。
二通目。
ヴァレイン家からの書状。
この村を、正式に『村』として認可し、村長サルメアの名を冠する村として認める内容。
「……」
サルメアが言葉を失う。
周囲の村人たちも、すぐには意味が分からない顔をしていた。
だが、読める者、理解の早い者から順に息を呑む。
アルトは静かに続けた。
「本当は」
一拍。
「隣の領主のところへ、そのまま繋げる方が綺麗だった」
エルミナの婿候補の男。
あの領地の一部として認めさせる方が、話としては自然だ。
「だが」
「……」
「今の時点でやると、別の火種が出る」
利害。
貴族間の面子。
過去の経緯。
元娼婦たちの共同体という村の出自。
全部を考えると、周辺へ『村として認めさせる』処置としては、ヴァレイン家の名で抱え込むのが最善だった。
しかも、その根回しは今日突然やったものではない。
サルメアと最初に深く対話したあの日から、アルトはすでに動いていた。
王都とヴァレイン家を行き来しながら、文書と口添えで少しずつ外堀を埋めていたのだ。
ヴァレイン家嫡流としての立場。
家柄ゆえの発言権。
学院卒業直後だからこそ通しやすい話。
王都での評価。
それら全部を使った。
その結果が、いま手の中にある。
サルメアは、ついに耐えきれずアルトへ飛びついた。
言葉にならない声が喉から漏れる。
抱きついたまま、ただ胸元に顔を押しつける。
泣いていた。
だが、叫びはしない。
しゃくり上げもしない。
ただ、胸に顔を埋めて、嗚咽にならない息を何度も繰り返すだけだ。
アルトはその背を一度だけ、静かに撫でた。
それから、やさしく体を離す。
サルメアは目元を拭い、しかしどうしても笑おうとした。
出会った頃の、あの勝気で気安い笑みに戻ろうとした。
アルトはそれを見て、短く言う。
「また来ます」
それだけだった。
十分だった。
そばに立っていたイルナの手を取る。
それから、抱え上げる。
最初に村に来た時と同じように。
その動作に、村人たちの間から悲鳴に近い声と笑いが同時に漏れた。
もう何度か見ている者もいる。
だが、やはり慣れはしないらしい。
一陣の風が吹く。
アルトとイルナの姿が、その中へ消えた。
残された村人たちの中で、最初に異変に気づいたのは、あの一番若い娘だった。
最初にイルナの手を引いた、五歳くらいの猫耳の少女である。
「……あれ?」
足元へ落ちていた紙片を拾う。
「村長ー、これ!」
読み上げる。
『村の灰牙ネズミを数匹いただきました。ギルドでの報告が終わり次第、報酬と引き換えにお返しします』
一瞬、沈黙したあと。
村人たちは、ほとんど同時に吹き出した。
「今それかい!」
「いや、らしいけどさぁ!」
「律儀すぎるだろ!」
「ほんっと、最後まであの子は!」
別れの悲しみに浸りかけていた空気が、一気に笑いへ変わる。
サルメアも、涙の残る顔のまま、ついに大きく笑った。
「……まったく」
胸に書状を抱きながら、嗄れた声で言う。
「ほんとに、いい男だねぇ」
その笑いの中で、村人たちは心に誓っていた。
再会の時までに、もっと村を良くする。
もっと発展させる。
あの英雄がまた来た時、胸を張って見せられる場所にする。
その誓いは、誰か一人のものではなく、村全体のものになっていた。
紅葉し始めた森の中を、アルトは走っていた。
イルナを抱えたまま。
風を裂いて。
村の匂いを少しずつ遠ざけながら。
イルナは、最初の頃のようにただ驚くだけではなくなっていた。
速度そのものにはやはり慣れない。
だが、アルトの腕の中で目を閉じるより、移り変わる景色を見ていたいと思うようになっている。
その時、アルトが急に速度を落とした。
いや、落としたどころではない。
ついには止まる。
イルナが驚いて顔を上げる。
「どうしたんですか?」
アルトは、ひどく静かな顔で答えた。
「薬草……」
「……」
「採り忘れた……!」
イルナが数秒、固まる。
そうだ。
依頼の本題だった。
灰牙ネズミの討伐。
それに並ぶ最重要事項。
薬草採取。
村興し。
センバ。
飼育。
加工。
認可。
別れ。
その全部に気を取られすぎて、本来の依頼の半分を今の今まで忘れていたのだ。
アルトは本気で不覚を取った顔をしていた。
めずらしい。
だが、ものすごくアルトらしい。
彼はそこでイルナを下ろすと、早速周囲の森へ視線を走らせ始めた。
薬草。
群生範囲。
品質。
いまからでも探す気なのだろう。
見かねたイルナが、そっと彼の袖を引いた。
「……あの」
「ん」
「大丈夫です」
「何が?」
「これ」
イルナは、麻袋を差し出した。
中には薬草が入っている。
しかも、ただの薬草ではない。
この半年の間に、イルナが集め続けていたものだ。
薬草採取そのものを、彼女は忘れていなかった。
サルメア村のことに心を奪われていたのは彼女も同じだ。
だが、それでも冒険者として受けた依頼を、ちゃんと手元で進めていた。
しかも、選りすぐりだ。
アルトは袋を受け取り、ひとつひとつ確認する。
質がいい。
いや、良すぎる。
葉の張り具合。
茎の太さ。
香り。
採取の時期。
乾かし方まで、驚くほど丁寧だ。
どれも、最高級ハイポーションの素材にされるレベルのものばかりだった。
アルトはその場で本気で感動した。
イルナの空間把握能力。
嗅覚。
採取の眼。
そして何より、村での仕事に深く関わりながら、それでも依頼そのものを忘れず遂行していた健気さ。
かなり愛しい。
そう思った瞬間、彼は思わずイルナを抱き上げていた。
「ひゃっ!?」
「すごいな……!」
「え」
「これ全部」
「……」
「最高級だ!」
イルナの顔が一気に赤くなる。
褒められている。
しかも、あのアルトに。
しかも抱き上げられながら。
頭が追いつかない。
「そ、そんな……」
「いや、すごい!」
アルトは本気だった。
「かなり!」
イルナはもう、耳まで真っ赤だった。
だが、その嬉しさは隠しきれない。
こうしてはいられない。
アルトはそのままイルナを抱え直し、先ほどよりさらに速度を上げた。
ギルドへ報告するためだ。
灰牙ネズミの処理と。
薬草採取の達成と。
そして、この半年にわたる『最低ランク依頼の異常な変貌』の結果を携えて。
村は遠ざかっていく。
だが、サルメア村で得たものは、もう二人の中に深く刻まれていた。
村長サルメアの熱。
村人たちの善意。
イルナが村の中で見せた新しい顔。
そして、戦うことや倒すこととは別種の、積み上げる手応え。
再び相まみえる時には、互いにもっと変わっているだろう。
もっと強く。
もっと豊かに。
もっと、自分たちらしく。
風の中で、アルトはただ前を見た。
次の仕事へ。
次の土地へ。
だが、サルメア村という一つの居場所を、確かに背負ったままで。




