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全モブヒロインに幸あれ! —脇役を愛する勇者の異世界譚—  作者: 臂りき
第4章 学院の光と、その隅にいる者たち
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第23話 風の中の姉

 中庭の外れにある古びたガゼボは、祭りの熱から半歩だけ外れた場所だった。


 学院祭の喧騒は遠くない。

 人の笑い声も、屋台の呼び込みも、どこかの棟から響く拍手も、風に乗ってここまで届く。

 けれど、それらは木々と石畳と古い東屋の柱に一度やわらかく受け止められて、少しだけ静かなものに変わる。


 アルトはこの場所を気に入り始めていた。


 落ち着く。

 風の抜け方が良い。

 日も当たりすぎない。

 騒がしさの中心から外れているのに、完全には切れていない。

 物事を考えるにはちょうどよく、読みかけの本を開くにも悪くない。


 そして今は、その『ちょうどよさ』が、別の意味で胸に沁みていた。


 草木の向こうに、人影があったからだ。


 最初の一瞬だけ、アルトは断定を保留した。


 ここにいるはずがない、という先入観があった。

 学院祭の交流会に学院関係者の家が招かれること自体は理解している。

 ヴァレイン家のような名門勇者家系が招待されるのも当然だ。

 だが、その『当然』の先へ、いま立っている人影を自動で結びつけられるほど、平助の心は平静ではいられなかった。


 しかし、変態的観察眼は容赦がない。


 あの立ち方。

 風に対して少しだけ首を傾ける癖。

 袖口へ添えられた指の細さ。

 誰かを待つようでいて、ただ待つだけではない、慎ましい前向きさを帯びた気配。


 見紛うはずがなかった。


 エルミナだ。


 アルトの、いや平助の、最も敬愛する実姉。


 十年。


 学院に入ってからも長い時間が過ぎている。

 文通はしていた。

 手紙で彼女の変化を知っていた。

 婿候補の男との茶会のこと。

 少しずつ前向きになっていく姿。

 以前は半ば押しつけられるように受けていた手習いや作法を、自ら求めて磨くようになっていたこと。


 それらは、文字で読んでいた。

 読んで、そのたびに天を仰いで喜んでいた。


 だが文字と現実は違う。


 いま目の前にいる彼女は、手紙に綴られた成長のさらに先を行っていた。


 美しかった。


 もちろん、アルトが幼い頃から、エルミナはかなり魅力的な少女だった。

 不遇の中にあっても、慎ましく、やわらかく、どこか泣きたくなるほど優しい在り方を失わなかった。

 それは平助の変態性に深く、そして重く刺さっていた。


 だが、いまのエルミナは、あの頃の『守ってあげたいお姉さん』の輪郭を残しながら、そこへ別の光を宿していた。


 恋をしている女性の光だ。


 それはただ、頬が華やぐとか、瞳が潤むとか、そういう安っぽい変化ではない。

 もっと根の方から人を変える。


 自分を後ろへ置くことに慣れていた人間が、自ら前へ出る時の覚悟。

 誰かに選ばれたいからではなく、自分で自分を整えようとする気高さ。

 慎ましさを失わないまま、しかしもう『ただ押しやられるだけの少女』ではいられないという強さ。


 そうしたものが、エルミナの全身にあった。


 慈愛に満ちた眼差し。

 手を重ねる所作。

 落ち着いた呼吸。

 以前なら困ったように微笑むだけだった場面で、いまはきちんと相手へ歩み寄るだろうと分かる足取り。


 女神のようだ、と平助は思った。


 いや、本当に。


 知識の女神フィレイアが別種の美であるなら、こちらは人の世を生きて、その上でようやく得た慈しみと覚悟の美しさだ。

 もはや『姉』とか『モブヒロイン的に最高』とか、そういう言葉では収まらない。


 成長している。

 ちゃんと、自分の足で。

 こんなにも。


 その事実に、平助の胸の奥で、何かが一気にせり上がった。


 泣くな、と自分へ言う。


 ここで泣くのは違う。

 弟としてどうなんだ。

 いや弟だが。

 だが学院の真ん中で、再会した姉の成長に耐えられず涙腺を決壊させるのは、さすがに色々まずい。


 それでも、かなり危なかった。


 あの日。

 目覚めた時、いちばん近くにいてくれた姉。

 不遇の立場でも、あの柔らかい笑みを失わなかった姉。

 夜食を落として絶望した顔。

 忘却魔法のあと、少しだけ眠そうに謝った顔。

 縁談に怯えながら、それでも「私はこういうものだから」と諦めようとした顔。


 そういうものが、一瞬で全部押し寄せる。


 いま目の前にいる彼女は、その全部を越えてここまで来たのだ。


 平助は、心の中で天を仰いだ。


 ありがとう、世界。

 ありがとう、エルミナ。

 ありがとう、あの婿候補の男。

 いやまだ少し複雑だが。

 だが今は、その複雑さごと込みで、ひとまず感謝してやってもいい。


 その時だった。


 エルミナが、こちらに気づいた。


 まずアルトを見る。

 その瞬間、彼女の顔が一気にほどける。

 目元が明るくなり、頬に喜びが差し、全身から『会いたかった』が滲む。


 そして、こちらへ歩み寄ろうとして――隣のリュシアンに気づいて、ぴたりと足を止めた。


 その反応もまた、すごくエルミナらしかった。


 嬉しい。

 今すぐ駆け寄りたい。

 でも、弟の横に誰かいる。

 しかも見た目だけなら、どう見ても美しい少女にしか見えない。

 ならば一拍置く。

 まず相手を尊重する。


 この十年で磨かれた礼節と、もともとの優しさが、その一瞬の踏み止まり方に全部出ていた。


 リュシアンは、そこで息を呑んだ。


 きれいだ、と思う。


 それは単純な容姿の話だけではない。

 近づいてきて、喜びを見せ、けれどちゃんと立ち止まる。

 その一連の所作だけで、この人がどんなふうに人と接してきたのかが分かる。


 しかも、この人がアルトの姉なのだと思った瞬間、リュシアンの胸の奥で、別種の緊張が生まれた。


 家族。


 アルトの家族。


 自分がまだ知らない、アルトの原点に近い場所。

 その中心にいる人。


 それが、いま目の前にいる。


 アルトは、どうにか平静を保ったまま口を開いた。


「エルミナ姉さん」

 その呼び方だけで、エルミナの顔がまたやわらぐ。

「本当に来てたんだね」

「ええ」

 エルミナは笑った。

「来たわ」

 声も、少し前よりずっと落ち着いている。

「まさか、こんなに早く会えると思っていなかったから……」

 そこまで言って、またリュシアンの方へ視線を向ける。


 アルトは、その空気をよく理解していた。


 だから、すぐに紹介する。


「彼は」

 言いかけて、少しだけ言い方を改めた。

「……リュシアン。前から手紙でも書いてた」

 エルミナの目が、少し見開かれる。

「まあ」

「手紙でも、何度か名前を出してた」

「ええ、もちろん」

 エルミナの声に、はっきりした喜びが混じる。

「あなたが何度も話してくれていた方ね」

 その『何度も』が、リュシアンの胸へ変に刺さった。


 アルトは、家族への手紙の中で自分のことを話していた。

 その事実だけで、妙にくらくらする。


「リュシアン」

 アルトが軽く促す。

「……っ、は、はい」


 リュシアンは慌てて、綺麗なくらい深く腰を折った。


「はじめまして……! リュシアン・アルヴェールです」

 声が少し裏返りかける。

「いつも、その……アルトには、大変お世話になっていて……!」

 かなり頑張っている。


 エルミナはその様子を見て、また少しだけ微笑んだ。


 そして彼女も、丁寧に挨拶を返す。


「はじめまして、リュシアン様」

 自然に一礼する。

「エルミナ・ヴァレインと申します」

「い、いえ、様なんて……!」

「ふふ」

 エルミナの笑い方が、やわらかい。

「でも、本当に」

 今度はちゃんと、リュシアンへ向けて言う。

「弟がとてもお世話になっていると、何度も聞いていたの」

「……」

「ありがとう」


 その礼の述べ方には、この十年の成果がにじんでいた。


 単に礼儀正しいのではない。

 相手に気を遣わせず、しかし本心から謝意を伝える言葉の置き方。

 視線のやわらかさ。

 声の落ち着き方。

 自然に空気を整える距離感。


 平助はそこでまた危うくなった。


 駄目だ。

 これは駄目だ。

 良すぎる。


 成長している。

 あまりにも。

 こんなに綺麗に。

 こんなに人として。


 しかも、自分が大切にしてきたリュシアンに向けて、こうして礼を言っている。

 それだけで、何か胸の奥の柔らかい部分が、あっさり泣きそうになる。


 平助は内心で必死に耐えた。


 泣くな。

 いま泣いたら本当におかしい。

 いや、もう十分おかしいが。

 でもここで姉の礼儀作法と慈愛と成長の結晶を前にして嗚咽し始めたら、リュシアンにもエルミナにもかなり引かれる。


 どうにか持ちこたえる。


 その横で、リュシアンは別の意味で胸を乱していた。


 アルトの姉。

 家族の中でのアルトを知っている人。

 しかも文通で自分のことを聞いている。

 弟が世話になっていると、何度も。


 何だそれは。

 そんなの、嬉しいに決まっている。

 だが嬉しいと同時に、少しだけ怖い。


 この人は、自分の知らないアルトをたくさん知っているのだろう。

 幼い頃のこと。

 家の中での顔。

 どんなふうに笑い、どんなふうに怒り、どんなふうに育ってきたのか。


 リュシアンは、それを羨ましいと思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。


 羨ましい。


 アルトのそういう場所を知っていることが。


 同時に、エルミナの前でのアルトが、どこか少しだけいつもと違うようにも見えた。


 露骨ではない。

 崩れているわけでもない。

 だが、いつもより一段やわらかい。

 無遠慮な雑さが、少しだけ減っている。

 言葉の置き方に、ちゃんと『家族への甘え』が混じっている。


 そんなアルトを見るのは、リュシアンにとって初めてだった。


 だから余計に、目が離せない。


 エルミナは、その二人を見比べながら、少しだけ楽しそうでもあった。


「お手紙で、色々聞いていたけれど」

 やわらかく言う。

「実際にお会いすると、また違うわね」

 リュシアンが、どきりとする。

「そ、そうですか……?」

「ええ」

 エルミナは頷く。

「アルトが大切にしている理由が、よく分かるもの」


 今度こそ、リュシアンの顔がはっきり赤くなった。


 アルトは一瞬だけ咳払いをした。

 そこはあまり深く言語化してほしくない。

 いや、本当はかなり大切にしているのだが、それを姉から目の前で言われると別の問題がある。


「……姉さん」

「ふふ、ごめんなさい」

 エルミナはすぐに引いた。

 その引き方まで上品で、平助はまた危なかった。


 駄目だ。

 この人、本当に仕上がっている。

 誰だ。

 こんなに完璧な慈愛と慎ましさと大人の美しさを両立させたのは。

 いやたぶんエルミナ自身だし、その一助に自分もあるのだが、だとしても感動が追いつかない。


 風が吹く。


 ガゼボの柱の影が少し揺れ、エルミナの髪がやわらかくなびく。

 その仕草一つで、アルトはまたしても胸の奥を殴られたみたいな気持ちになる。


 これはもう、ずるい。


 文通で知ってはいた。

 前向きになったことも。

 婿候補の男と何度か会っていることも。

 自分の意思で学び、整え、進んでいることも。


 だが、実物はずるかった。


 ああ、きっとあの男も、これを見てやられたのだろう。

 少し複雑だが、分からないでもない。

 いや、かなり分かる。

 むしろ分かりすぎて少し腹が立つ。


 そんな兄とも弟ともつかない複雑な感情を抱えながら、アルトはどうにか平静な顔を保った。


「交流会まで、まだ少しある」

「ええ」

 エルミナが頷く。

「少し早めに着いたの」

「そっか」

「……アルトは?」

「今は」

 少しだけ視線をずらす。

「祭りを見て回ってた」

「リュシアン様と?」

「……うん」

 その一瞬の間に、エルミナの目がほんの少しだけ面白そうに細まった。


 リュシアンは、そのやり取りだけでまた落ち着かなくなる。


 この人、見ている。

 かなり見ている。

 しかも優しい。

 だから余計に逃げ場がない。


 エルミナは、そんな彼の緊張もちゃんと受け取っていたのだろう。


「よければ」

 静かに言う。

「少しだけ、一緒に歩いてもいいかしら」

 その言葉に、アルトはわずかに目を見開いた。


 嬉しい。

 かなり嬉しい。

 だが同時に、交流会の気配が現実味を帯びる。


 エルミナがここに来ている。

 それはつまり、これから先の時間に、ヴァレイン家の人間として、ひとりの女性として、また別の顔を見せるということでもある。


 リュシアンも、それを感じていた。


 この先、自分はアルトの『家族の中の時間』へ少しだけ入っていくのだ。

 その事実に、胸の奥がまた落ち着かなくなる。


 嬉しさ。

 緊張。

 少しの不安。

 知らないアルトに触れる期待。


 それらを抱えたまま、彼は小さく頷いた。


「……もちろんです」

 エルミナがまた笑う。

「ありがとう」


 その『ありがとう』に、平助は本日何度目か分からない危機を迎えた。


 泣くな。

 泣くな。

 今はまだ泣く場面じゃない。

 でも嬉しい。

 あまりにも嬉しい。

 ここまで来たのか。

 この人は、本当に。


 胸の奥へ押し寄せるものを、どうにか押しとどめながら、アルトはゆっくり息を整えた。


 学院祭の熱は、まだ遠くで続いている。

 交流会の時間も近づいている。

 そしてその前に、アルトはようやく、自分の大切な姉と、大切な育成対象を同じ景色の中に並べて見ていた。


 それは、どこか不思議で。

 少しむず痒くて。

 けれど確かに、満たされる光景だった。


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