10
雨が引き連れてきた和やかな雰囲気に、私は心からホッとした。
「あ…、喉渇いたでしょ?お茶でいい?」
「うん、ありがとう」
「ちょっと待ってて。ああ、それから……」
居間を出て行きかけて、私はふと立ち止まった。
「もう聞いてるとは思うけど、ピアノ室は防音工事してあるから。廊下の突き当りよ。でも鍵はお母さんが管理してるの。まあ、たぶん仕事デスクの引き出しの中に入ってると思うけど。調律も済んでるし、今日確認していく?」
私に遠慮して、実家ではピアノを弾かなくなった音弥。
でももうそんなに気を遣わなくていいんだと、私は本心でそう伝えたかった。
でも音弥は「別にいい」とそっけなく即答したのだ。
私の顔を見ずの返事に、私はもう一度ピアノを勧めかけて、いや、 無理強いは良くないか……と思いとどまった。
「そう?じゃあ、ちょっと待っててね」
私はかすかにがっかりしつつ、音弥の返答を聞く前に居間を出たのだった。
………もしかしたら、ピアノのことでなにかあったのかもしれない。
冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、大きめのグラスに注ぎながら、そんなことを考えていた。
ここ最近、音弥とピアノのことで会話した時間は1秒もなかったけれど、それでも以前の音弥なら、”ピアノ” という言葉が出てきただけでいくらかは反応があったはずだ。
感情が表に出にくくて、ぱっと見はクールで冷たくも感じるけれど、ピアノに関してだけは別だった。
音弥にとって常にピアノは特別だったのだ。
なのにさっきは、まったくといっていいほどの無反応だった。
いや、無反応というよりは無関心と言ったほうがぴったりかもしれない。
あの音弥が、ピアノに無関心………?
そんなまさか。
あり得ない。
私は自分の発想自体が信じられなかった。
でも、それがもし正しかったとしたなら、やっぱり音弥は学校でなにかあったのかもしれない。
連絡もなく帰ってきたのだっておかしいし、それにどことなく元気もなさげだ。
もちろん、私の思い過ごしという可能性は否定できないけれど………
だけどもし本当に音弥が学校やピアノのことでなにかあったのなら、今は私の事情よりもそちらを優先させるべきだ。
だって私の体調よりも、音弥のピアノや将来の方がずっと大切だもの。
二人分の麦茶をトレーに乗せたときにはすでに私の気持ちは固まっていた。
居間に戻ったら自分の説明ではなく、音弥の話を聞こう……と。
居間に戻ると、音弥はソファに座って縁側越しの雨を眺めていた。
その表情には色がなかった。
「……お待たせ。はいどうぞ」
グラスを音弥に差し出すと、音弥は素直に受け取ってくれた。
「ありがとう、姉さん」
そう言ってから、ひと口だけこくりと飲む。
やっぱり、グラスを握る指はとても美しい。
私は、羨ましいのは事実として認め、そして音弥のピアノが好きだというのもまた確かな事実なのだと改めて思った。
「ねえ、音弥」
「姉さん、覚えてる?」
ほとんど二人同時に口を開いた。
だけどさっきみたいに笑い合うことはなくて、だからもしかしたら音弥はわざと私にぶつけてきたのかもしれない。
私の話を避けるために。
それでも、音弥が何かを話したいというなら、それを優先させたいと思った。
「………何を?」
「もうずっと昔、姉さんが小1で俺が幼稚園の年長だったとき、今みたいに家で俺と姉さんの二人で留守番してたら、今とまったく同じように急に雨が降ってきたことがあったんだ。もうすごい雨で、雷もすごくて……」
音弥がそう言うと、遠くで微かに雷の音が聞こえた。
「ああ………そういえばそんなこともあったわね。確かお父さんとお母さんが仕事で出かけてたんだけど、大雨で電車が止まっちゃったんだよね?でも、それがどうかした?」
「あのとき、あまりに雷が激しいものだから、まだ幼かった俺はとにかく怖がってたんだ」
「そうだったね。音弥、めちゃくちゃ可愛かった」
「そうしたら姉さんが俺を一生懸命慰めてくれたんだよ。本当は自分だってめちゃくちゃ怖いくせに」
「だってほら、私はお姉ちゃんだから」
「そのとき住んでた家はリビングにピアノが置いてあったから、姉さんは今にも泣き出しそうな俺の気を逸らそうと、ピアノを弾いてくれた」
「覚えてる覚えてる。たぶん、アニメの歌とかだったよね?」
「それもあるけど、俺が一番覚えてるのは、”猫ふんじゃった” だよ」
フッと、音弥がグラスをテーブルに置きながら吐息で笑った。
その瞬間、私も鮮明に記憶がよみがえってくるようだった。
「あ…………そうだったわ。でも、ただの ”猫ふんじゃった” じゃなくて、」
「”超高速猫ふんじゃった” 」
「そうそう!”超高速猫ふんじゃった” !懐かしい!」
「姉さんがこれまで聴いたことないくらいに速く弾いてくれたから、俺はすっかり雷の音も忘れて、姉さんのピアノに夢中になっていった」
「確かにあのときのスピードは記録更新したかもね」
「姉さんは何度も何度もリピートしてくれて、俺はますます楽しくなっていって、いつの間にか笑い出してた。そうしたら、それを見た姉さんが、高速で猫ふんじゃったを弾きながら俺に言ったんだ。『いいこと教えてあげる。笑ったら、怖いのとか寂しいのとか悲しいのが減るんだよ?だから、笑おうよ』って。どうも学校の先生にそう教えられたみたいだったけど、そのときの俺は、本当に笑ったら雷が怖くなくなったんだ。だから、あのとき俺は、姉さんってすごいんだなと驚いた。姉さんのピアノはまるで魔法みたいだって、素直に感激した。こんな風に自分も誰かを笑顔にできるピアノを弾きたいと思った。だって、俺は今まで生きてきた中で、あのときの姉さんのピアノほど楽しい気持ちになった音楽はないんだから。姉さん、俺は……………どうしてもあのときの、たった7歳だった姉さんのピアノを、今も越えられないんだ」




